The Midnight Seminar

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キルケゴール『死に至る病』

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)


 とにかく最高クラスの知名度を持つ哲学書だ。「絶望」をテーマにした、一見すると陰鬱なおもむきの本なのに、なぜかやたらと人気のある作品でもある。そして、内容的にも、まじで古典中の古典だと言って差し支えない。


 本書を読み進む上での最大の要点は、冒頭の「自己」とは何なのかについての議論だろう。
 私なりに言い換えて要約すると、キルケゴールのいう「自己=精神」とは、世界を構成する対象を弁証法的に総合する働き(=モノを意味的に関係付ける働き)の場としての“自分の意識”が、自分の意識そのものと“神”とを弁証法的に総合して捉えるような意識のこと。 さらに敷衍していえば、自分の意識そのものを意識の対象として捉えることを真の意味で可能にするのは、「神の前にある自己」という自己認識だということである。


 本書の残りの議論はすべて、この冒頭の「自己=精神」についての原理論からの周到な演繹になっていて、全体としてはかなりスッキリしていて読みやすい。逆に、冒頭の「自己」論を捉え損ねると、全体として何を言っているのかがわからないと思う。
 「死に至る病」というのは要するに「絶望」のことだ。キルケゴールがいう「絶望」には厳密な意味があって、それは上に説明したような本来的な意味での「自己=精神」から逸脱した意識状態のことを指す。つまり、「神」との弁証法的総合を欠いた自己意識を、キルケゴールは「絶望」と名づけたわけ。そしてこの「絶望」をさまざまに分類して、それぞれのタイプの「絶望」に陥った人間たちの哀れで愚かなさまについて、詳しく検討を加えていくというのが本書の筋書きである。


 「絶望」こそは、キリスト教が発見した「死に至る病」なのであり、この「死に至る病」に全く罹患していないような人間は、実は一人としていないとキルケゴールは言う。そして、第二編(後半)の表題にもあるとおり「絶望は罪である」と。したがって、われわれ人間は一人残らず罪人である……。
 注意すべきなのは、キルケゴールの言う「絶望」は、単に悲嘆にくれるとか憂鬱に沈むとかいう意味ではなく、あくまで自己が神との弁証法的総合を欠いた状態、すなわち「涜神」のことを指しているという点だ。もっと簡単に言えば、「絶望」とは「堕落」のことである。「絶望は罪だ」と言われてピンと来ない人にとっても、「堕落は罪だ」というのはもっともな話だろう(笑)
 キルケゴールに言わせれば、この罪を贖うのに必要なのは「徳」ではなく「信仰」である。そりゃそうで、罪=絶望とは、「神の前にある自己」という意識を書いた状態のこと、すなわち「背信」や「不信心」のことを言うのだから、これも当たり前の話だ。


 また、知っておくべきなのは、キルケゴールは単に「信じるものは救われる」的なことを触れて回るだけの呑気なおっさんではなかったということ。本書に表現されているのは、当時のデンマーク社会(ヨーロッパ社会)が目に余る精神的堕落を見せていることに対する、キルケゴールの心底からの嫌悪だ。『現代の批判』という別の著作はそれをもっと露骨に表現した世相批判だし、彼は最終的には反教会運動を起こして、街頭演説の道中に倒れて死んだというアツい男なわけ。
 本書は、青年読者の憂鬱や孤独に哲学的な理由を与えたり、それを癒したりするために書かれた本ではないのである。

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

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