The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

11年前に聞いた、おでん屋のじいさんの話

 2006年の冬だったと思うが、夜中につくば市の408号線を車で走っていたら、道路脇の駐車場というか空き地のようなところにおでん屋の屋台があるのをみつけたので、友人と3人ぐらいで入ってしばらくおでんを食いながら店のじいさんと雑談しした。
 ある程度広さのある敷地で営業していたので、トラックの横にテーブルとテントが出してあって、たぶん6人ぐらいは座れるスペースになっていたと思う。その後たぶん、近くの深夜営業してる喫茶店で何かの相談をして帰ったと思う。
 そのときの屋台のじいさんの話をメモした紙がでてきた。当時日記を書いていたので、忘れないように喫茶店で紙にメモしたんだろうと思う。
 けっこう面白いじいさんで、もう一度会いたいと思うが、もう死んでるかもしれない。


 以下その時のメモ。

  • 今年の7月1日からこの場所で屋台をやっている。今74歳。
  • 昨年12月に、ばあさんを亡くした。ばあさんは5人目の妻で、26年間連れ添った。
  • 最近、もう少し生きるか、それとも死ぬかと考えているところ。なんか生きてても仕方ないしなぁ。ばあさんも死んだし。
  • 大変な人生だったが、悔いは全くないな。でもなぁ、ちょっとは悔いのある人生のほうが良かったな(笑)

 

  • 昔、浮気をしてお姉ちゃんの家に泊まって朝風呂に入った。俺は百姓だったから、朝風呂なんか入ったことなかったんだけど。それで涼もうと思って表に出たら、妻が立っていた。その後、家に帰ってみると誰もいなかった。子どもたちを連れて実家に帰ったようだった。

 

  • 俺はこのへんの百姓の家に生まれたんだが、18歳のとき初恋にやぶれたのが嫌になって家を飛び出して、伊豆まで行って就職した。
  • そこで三島市役所の総務課長の娘でシズヨさんという女性と親しくなった。2つぐらい年上だったんだが、後から解釈するとあれは俺のことが好きだったんだと思う。でも俺は18で子供だったから、自分の姉ちゃんぐらいにしか思ってなくて気づかなかったんだよなぁ。
  • そのうち俺は実家に戻ることになっちゃって、伊豆を離れる前日に、シズヨさんから呼び出されたんだよ。川のせせらぎが聞こえるきれいな所だったな。それでも俺、気づかなかったんだな。「なんで今日に限ってこの人は怒ってるのかな?」なんて思っていた。
  • その人とは、俺が実家に戻ったあと、何回か手紙のやり取りをした。今で言えばラブレターか?ラブレターのやり取りをしたな。
  • それから何年もして、妻と一緒にシズヨさんのところを訪ねたことがあるんだよ。それでわかったんだが、あの時その村で、俺とシズヨさんが妙な仲になっているって話が広がったらしい。やましい関係はなかったんだけど。それで、市役所の総務課長の娘だから、これが問題になって会社が仕事をもらえなくなったら困るからということで、俺は実家に帰されたらしい。

 

  • 娘が高校を出てからすぐ就職したんだが、1年ぐらい経った頃のある日、いつまでも家に帰ってこねえんだよ。それ以来、18年間音信不通。まぁたいがい、別居してた本妻のところに居るんだろうと思ったけどね。それで娘も30何歳になって、俺にあるとき電話がかかってきてさ、「悪いことをしました。謝罪に行ってもいいですか?」って言うから、まぁいいよと。今、50歳になる娘なんだけど。あんたらも親は大事にしろよ。親を思う子は無し、子を思わぬ親は無しって言うけど……。

 

  • 俺、こんなボーっとした顔してるけどね、神社仏閣が好きなんだよ。鹿島神宮は国宝だね、あれは。俺も鹿島様の信者なんだけど。ただ困るのは、鹿島様は武運の神様なんだけど、商売繁盛とかそういうのを一切認めてくれないわけ。俺の商売どうすりゃいいんだよ。今日もお参りしてきたけど、そのおかげで全然客が入らねぇよ。あんたがたで今日、まだ5人目だからな。

 

  • こないだ、そこの近くの病院に見舞いに行ってきたけど、ひどいね!老人がみんな、こんなになって、もう人間じゃないような生き物がいっぱい居るんだよ。ありゃダメだね。
  • 瀬戸内寂聴の死生観には賛成だ。人間、自分で自分のことをできなくなったら、自分で死ぬべき。安楽死はOKにすべきだ。

 

  • 群馬に赤城山の見えるいい温泉があって、いっぺん行ってみたいんだよなぁ。でも俺の彼女も死んじゃってな(笑)。やっぱり1人で行っても思い出にならないからなぁ。

暑くなるとまじで不審者が増える?

 暑くなると不審者が増えると言われ、たしかに最近気づいたんですが、私が住んでるつくば市の竹園・千現・二の宮らへんの不審者情報配信が6月の下旬ぐらいから増えた気がします。
 春以前の情報を保存してなかったので比較ができないんですが、こんなに連日不審者情報があるってことはなかったなぁ。

1 日時  平成29年6月28日(水)午前11時頃
2 場所  並木小学校西側公務員官舎敷地内(並木二丁目付近)
3 概況
・不審な男が空き家になっている公務員官舎の給湯器を取り外していた。不審に思った
警備員が声をかけたところドライバーを振り回し,並木小学校方面に逃走した。
4 不審者の特徴
・50歳ぐらいで小太りの男
・紺色の合羽,ベージュのズボンを着用

1 日時  平成29年6月30日(金)16:20頃
2 場所  近隣公園(竹園3丁目), 竹園ショッピングセンター入口交差点付近
3 概況
 ・近隣公園脇の歩道を歩いていた児童が,下半身を露出した男がベンチに座っているのを目撃した。その後,複数の児童がショッピングセンター付近でバスを待っていたところ,その男が下半身を露出して自転車で通り過ぎた。
4 不審者の特徴
  ・60代男性
  ・黒の長袖,黒のズボン,黒っぽいニット帽を着用

1 日時  平成29年7月5日(水)7:30頃
2 場所  吾妻4丁目手押し信号付近
3 概況
 ・児童が登校中,赤い乗用車に乗った男に「車に乗っていく?」と声をかけられた。児童は,走って逃げた。
4 不審者の特徴
 ・30~40代男

1 日時  平成29年7月6日(木)17:00頃
2 場所  洞峰公園内体育館付近
3 概況
・女子生徒3人が話をしていたところ,白人男性がサッカーボールを生徒の方へ転がして近づき,「勉強してる?日本人?」と声をかけ,生徒1名の頭を撫でた。

1 日時  平成29年7月7日(金)15:30頃
2 場所  洞峰公園内体育館付近
3 概況  
・女子生徒2人がバドミントンで遊んでいたところ,白人男性1人(事案1と同一人物)が,「ラケットを貸して」と言ったので,一緒にバドミントンをしていた。その際,生徒1人の頬や手の甲にキスをしたり,顔を触れられたりした。その後,生徒たちが現場を離れようとしたところ,バドミントンのラケットを投げつけてきたので,体育館内に避難した。
4 不審者の特徴
・年齢40歳~50歳,身長180?くらいで細身の白人男性
・タンクトップ,短パン,顔にひげ,バンダナを巻きサッカーボールを持っている。
・自転車に乗っている。

1 日  時  平成29年7月8日(土)16:00ごろ
2 場  所  二の宮公園内プール
3 概  要  市内男子児童2名が二の宮公園のプールにいたところ,男の人に追いかけられた。男は,黒の水着・帽子・ゴーグルでベンチに座っていた。最初は,プールの中で近寄ってきて「学校どこ?」と話しかけてきた。相手にせず避けていたら,プールの中を追いかけてきた。プールから上がっても執拗に追いかけてきたので,監視員に助けを求めた。すると,その男はいなくなっていた。被害はなかった。
4 特  徴 ・20~40歳ぐらいの男性
       ・身長160~170cm位 中肉中背
       ・黒の水着,帽子,ゴーグル

1 日  時  平成29年7月10日(月)18:50頃
2 場  所  第三公園
3 概  要  
・児童2人が公園内で遊んでいたところ,自転車に乗った男性が,公園の中をじっくり見ながら,進んだり止まったりしていた。
4 特  徴
・20~40歳ぐらいの男性。
・中肉中背で眼鏡をかけている。短髪。
・上下黒っぽい半そで,短パン。
・自転車のカゴに黒のバックを入れている。

1 日時  平成29年7月13日(木)午後4時30分頃
2 場所  つくば市花畑2丁目
3 概況
・児童が1人で歩いていたところ,車に乗った男性に「車に乗っていかないか」と声をかけられた。「だいじょうぶ。」といって児童は逃げた。
4 不審者の特徴
・30~40代の太った男性。身長165cmくらい。鼻の下にひげ。
・水色のTシャツ。白色でロゴ入り。
・シルバーの車に乗っている。

1 日  時  平成29年7月13日(木)23:30ごろ
2 場  所  つくば市谷田部地区内
3 概  要  市内中学生の保護者が,自宅敷地内で車から降りた際に,不審者に背後からカッターのようなもので切りつけられた。けがの程度は軽傷であった。昨晩警察に通報した。今朝,警察に確認したところまだ捕まっていない。
4 特  徴 ・背後から切りつけられたため不審者の特徴は不明。

1 日時  平成29年7月18日(火)午後4時30分頃
2 場所  二の宮4丁目ライオンズマンション前の遊歩道
3 概況
・児童が歩いて帰宅していたところ,洞峰公園の方から二の宮交流センターの方に歩いている不審な男を目撃した。男は,ナイフのようなものを持っていた。不審に思った児童はすぐにその場を立ち去り,被害はなかった。
4 不審者の特徴
・身長170cmくらい。40歳代男性。
・小太り,薄毛
・黒の上下の服(長袖),サングラス,黒い大きなバッグ

 7月13日(木)23:30頃,市内中学生の保護者が自宅敷地内で車から降りた際に,不審者に背後からカッターのようなもので切りつけられたという情報について,7月14日にメール配信をしたところです。この件につきましては,該当校から「昨晩,つくば警察署から解決したとの連絡をうけた」という報告がありましたのでお知らせします。


 こうやって並べてみるとつくば市ってめっちゃ治安が悪いように思えてくるけど、どうなんでしょうね。
 基本的には、良いほうだと思うのですが。

「犯罪者の家族」を弁護士が叩いてたw

 Abema TVの「Abema Prime」という番組で、オウム真理教でかつて「アーチャリー正大師」と呼ばれた麻原彰晃の3女*1のインタビューがあり、前編はみた。
 後編は5/22に放送されるらしい。プライム会員になっていれば、タイムシフトで今も前編を見れる。


abematimes.com


 元アーチャリーはどういう人生を送っているのかというと、11歳のときに父の麻原が逮捕され、その直後は後継者指名されていたので形式的に教団トップになったものの、「子供のくせに」とか「親の七光り」とか教団内部でも批判されて、世間からも批判されるので大変だった。
 それで嫌になってきた頃、ふつうに学校に行ける土地が見つかったとのことだったので移住したが、小学校を出ていなかったので中学校に入れてもらえず、特別教室で勉強していた。その後自殺未遂とかいろいろあったが、中学校の卒業検定試験を受けて高校に進学した(番組では出てこなかったが大学にも行っている)。
 16歳のときにアレフが発足したが、このとき教団とは縁をきることに決めて、所属もしていないし教団に行きもしないしお金も受け取っていない。6人兄弟のうち2人と同居していて、バイトで生計を立てながら、2015年に手記を書いて出版した。


 さてこのAbemaの番組の方向性は、アナウンサーの堀潤氏の「犯罪加害者の家族の人権の問題を考えたい」というコメントに象徴されるように、よくありがちな逆張り路線であった。「アーチャリーが人を殺したわけじゃないのに、社会から迫害されてきたのはかわいそう」「小学校の教育を受けてなかったのに、苦労して高校・大学を卒業したのは偉い」みたいな綺麗事が繰り返されている。
 まぁその綺麗事には正しい面もかなりあるし、悪いことをした人の家族を迫害するのは日本社会の野蛮性の発露であることは間違いないと思うのだが、単にそれを野蛮だと言って「人権ガー」と騒ぐのはなんか個人的にはノリ切れない。


 一方、2015年に日テレのNEWS ZEROという番組が元アーチャリーのインタビューを取っており、ネットで違法アップロード動画とかを探したい人は探せばいいと思う。元アーチャリーが手記を出版した直後に放送されたやつだ。
 こちらの番組は、どちらかといえばその「野蛮」寄りの内容で、「犯罪者の娘として反省と謝罪が足らんぞ」みたいな論調でアーチャリーを叩いている。これはこれで、逆に野蛮すぎる気がしてノリ切れない。そもそも、インタビューに応じてもらっといてスタジオで叩きまくるのって、品がないような気もするし。


 日テレのほうのインタビューで、元アーチャリーは概ね、

  • オウムが事件を起こしたということは、だいたい理解した。
  • 自分を大切にしてくれた人、自分にとっても大切な人たちがひどい事件を起こすのは信じられなかったが、その事実を少しずつ受け入れていった。
  • 殺人やテロを麻原が指示したという点については、本人の口から聞くまでは自分のなかで保留している。
  • 被害者については、なんでオウムのせいでこんな苦しみを受けなければならないのかと思うと、何と言っていいか分からない。
  • 16歳以降、教団とは全く関わりがない。


 というようなことを語っているのだが、これに対してスタジオのコメンテーターが全員で、「被害者に対する謝罪の言葉がない」「これだけ情報があるのに、麻原がやったか分からないとはおかしい」みたいな感じで叩いていた。
 番組への感想をまとめたブログ記事があって、概ね番組の雰囲気を伝えていると思う


yy-news.com

 
 ジャーナリストの岩田公雄という人は、結局何がいいたいのか分からないコメントをしていたのだが、雰囲気としては「アーチャリーは本を出したりしてるが、教団の悪についての追究がまだまだ足りない」といいたげであった。


 次に弁護士の紀藤正樹という人が、「私はアーチャリーを裁判所で尋問したこともあるんです。今回、実名と名前を出してインタビューに応じたというのは彼女にとって成長の過程だと思うんですね。彼女も被害者っていう側面はあったと思うんです。ですけども、やはり11歳とか12歳という段階はね、私が子供のときをみても、その段階で誰かをイジメたら、大人になって悪かったなって謝るようなことってあると思うんですよね。彼女自身も、松本智津夫死刑囚の側近として、手足として指示をする、教団の信者あてに指示をする役をやってたんですね。ですから、その中では、独房修行をさせられた信者もいるし、暴力を振るわれた子供さんもいらっしゃる。アーチャリーがやったというふうに証言されている人もいるんですね。そういう人に対する謝罪の思いとかですね、そういうのは本の中から出てこないんですよね。ですからそこがすごく、まだ超えられない壁があるんだなと思います」と述べていた。


 続いて読売新聞特別編集委員の橋本五郎という人は、「衝撃的なのはこれが化学テロだったこと。それからこの平和な日本で国家を転覆しようとして、人を殺してなんとも思わないような人がいたということ。そのことを書いてないというのは相当深刻なことですよ。個人のレベルでどうこうじゃなく、もっと国家としてどうしていくか考えないといけない、そういうものを残していると思いますね」とコメントしていて、最後の一文は完全に意味不明なので無視しよう。


 そしてアナウンサーの政井マヤという人が、「整理されていない危うさを感じる。彼女が今のアレフや、麻原の意思を引き継ぐような人に利用されないことが大事」と述べたところで、またさっきの弁護士が出てきて、「それ大事な指摘なんです。三女・松本麗華さんの本というのは、結局、『松本智津夫死刑囚がやったかどうかは分からない』と言ってるんですね。それってまさにアレフが言っていることを代弁してるんですよ。この本はきっと利用されるでしょうね。彼女は、アーチャリーという存在の影響力にまだ気付いてないというところがですね、やっぱ彼女が超えられない壁っていうのがもう一つあるんですよ。アーチャリーっていう自分の与えられた使命みたいなものを、捨てないといけないですよね。捨てた上で、自分の行ったことも含めて全部明らかにして初めて彼女の成長があるんです。そうなれば我々だって応援してあげたいんですけどね」


 この弁護士の人のコメントには異様なものを感じた。まず、揚げ足取りかもしれないが、最後の「与えられた使命みたいなものを捨てないといけない」というのは完全に意味不明だ。少なくとも16歳ぐらいからは教団と縁を切っていて、何の使命も果たそうとしていないのは明らかなのだから、捨てろと言われても何を?って話だろう。


 まぁそれはそれとして、一番気になったのは、犯罪者でもない人のことを弁護士が悪人呼ばわりして、「謝れ」とか「もっと成長しろ」とかテレビで断罪するのって、けっこう珍しいんじゃないだろうかということ。
 元アーチャリーは物心ついたときから変な教団施設に入れられていたわけだから、少なくとも当時は一般的な道徳心が育っていなかった可能性はあり、しかも教団内で地位を与えられていたわけだから、変な指示を出すのに加担した形になっているケースは、あってもおかしくは無いなとは思う。
 しかし、法律を扱うのが本業である弁護士が、その法律の世界において結局裁かれることもなかった人間のことを、テレビで「お前も犯罪者の一味だろ」みたいに叩いている姿って、けっこう異様なのではないだろうか。


 いやまぁ、そういうキャラで生きてるんだったら別にもういいんだけど・・・。
 上のブログ記事が言ってる「インタビュアーの『一方的に振りかざす正義(のようなもの)』に強く疑問を感じただけの企画でした」という感想を抱く人はけっこういるんじゃないかとは思った。

*1:以下、「アーチャリー」とか「元アーチャリー」とか深く考えずに適当に呼びます。

森友学園問題を理解するための個人的なメモと、まとめ年表

 こないだ深夜バスで大阪から東京まで移動する必要があって、やることがなくて暇だったので、籠池氏の証人喚問(計4時間ぐらい)を全部見た。それまであまり森友関係のニュースは追いかけていなかったのだが、あのおっさんが喋っているのを4時間も聴いていると人物像のイメージがつかめてきたし、質問者によっては論点をそれなりに整理してしゃべっていたので、ある程度理解が進んできた。
 しかし肝心なことはよく分からないというか、証人喚問でやり取りされている論点がどうでも良いことばかりのような気がして、国会と世間の騒ぎ方の方向性が変なのではと思うに至った。それであれこれ検索して記事を読んでいると頭が混乱してきたので、今の時点での理解をメモしておくことにする。時系列が分からなくなりがちなので、下の方に年表もまとめておいた。
 主に自分の頭の整理のために書いているものであり、正しさは保証しない。あと、ダラダラと書いてるので読みやすいかは微妙である。


【追記】このエントリは執筆時点の報道から把握できた情報のみに基づいて書いているのでご注意ください。今後も色々新たな事実が判明するんでしょうけど、2017年4月以降は大して関心を持てなかったので、間違いがあってもとくに内容のアップデートはしないつもりです。
 
 

何の問題なのか

 証人喚問の映像を見ていると、要するに与党は籠池氏を批判して「このおっさんは嘘つきで頭がおかしい」という話にしたがっており、野党は「籠池氏と安倍夫妻や稲田大臣は仲良しである」という話にしたがっていることが分かる。
 さてそれでは、籠池氏と仲良しだったら何がいけないのかということなのだが、これは大きく分けると2つある。


 1つは、籠池氏の教育理念が右翼的で偏向しているという話で、それに共感しているということは安倍総理も右翼的偏向を持っているということになる。また、右翼的偏向は単なる好みの問題だとしても、森友学園は保護者や子供に対して、パワハラ・差別・虐待めいた対応をしてきた経緯があるとされており、そんなところに加担するのはいかがなものかという問題もある。
 もう1つは、籠池氏が学校の用地を取得したり学校開設の認可を取りに行くにあたって、不当な利益を得ており、安倍首相らが仲良しということは、それを政治的圧力によってサポートしているのではという話である。不当な利益とされているのは主だったところでは、「9億いくらと評価された土地を1億いくらで買い取ることができた」件と、「財務状況の不安等から学校設置認可は得られそうになかったのが、意外とすんなり、条件付き認可適当の答申を出してもらえた」件である。


 他にも、たとえば「森友学園にとって有利になるような学校設置基準の緩和が行われた」という話があるが、規制緩和自体は合法に決定されたものであるので、籠池氏の陳情がいくら織り込まれていようが、ひとまずスキャンダル性は低いと思うことにしよう。
 また、「2015年に見つかった有害物質の撤去費用1億3000万円強を、2016年度予算で措置して国が払ってくれた」件もあるのだが、この件は籠池氏の証言では、「そんなの国の瑕疵なのだから払うのは当たり前の話で、むしろ待たされて、工事が遅れて迷惑だったのを許してやったのだ」という話になっている。これは、森友学園が先に廃棄物を撤去してから事後請求しているものであり、「金額は森友学園の言い値でいいのだろうか」という疑問はあるが、もともと国が払うべきであったという理屈は立つ。政治家の口利きによって通常ありえない対応が実現したとかいうものではないだろう。*1


 まとめると、

  • 変な教育方針の問題
    • 右翼的偏向
    • パワハラ・差別・虐待
  • 不法な利益と汚職の問題
    • 土地の大幅値引き
    • 私学審議会


 という4点ぐらいの問題が存在して、これらをつなげて「安倍首相は森友学園の変な教育方針に共感しているのだから、不法な便宜を図ってもいるに違いない」というストーリーで政権叩きに使われているわけである。
 「8億円値引き」の件がクローズアップされてきたので、「教育方針の問題」を先に書くまとめ方は順番がおかしいと思われるかもしれない。べつに重要度の順に並べたわけでもないのであるが、もともとこの問題を最初に告発した木村真豊中市義は、「極右の学校だから潰してやりたい」というのが動機だったと明言しているし、事実その後、稲田大臣の「教育勅語の核の部分を取り戻したい」という発言をめぐって数週間騒ぐことになったので、右翼vs左翼の戦い的な側面は、意外と大きな論点ではあるのである。
 
 

「仲良しだったかどうか」論争

 籠池氏は関西の保守人脈の中でかなり顔の広いおじさんのようなので、広義のものも含めて、政治家に色々と「口利き」をしてもらっているのは事実なのではないかと私は思う。また、学校設立認可の申請についても、安倍昭恵夫人が名誉校長になっているのだから、普通に考えたら役所の側にもある程度の「忖度」が働くのは当たり前だ。銀行からの融資なんかでも、政治家に口を利いてもらってる可能性があるという記事もみた。
 しかし、「口利き」や「忖度」があったと言っても、それらが「不法」な行為を伴っているとは限らない。行政事務にも、合法に加減ができる幅はあるもので、その幅の中で偉い人の口利きに応えることは、道義的にどう受け止めるかは人それぞれであるし場合にもよるとしても、罪に問えるわけではない。
 「不法行為を働いていなければ一切騒がなくていい」とは私は思わないのだが、2ヶ月にわたってあらゆるメディアを賑わし、国会で証人喚問までやってるのだから、不法行為の一つぐらいは出てきてもらわないと割に合わないだろう。たとえば学校認可を出してもらうために、籠池氏が政治家に現金を渡して圧力をかけてもらったりしていると、あっせん利得処罰法などに違反することとなって、大変盛り上がるはずだ。


 というわけで、まずは不法行為があったのかどうかを順を追って議論すればいいと思うのだが、実際には、


与党 「籠池のおっさんは嘘つきで頭がおかしい。安倍総理はこんな奴と仲良しなんかじゃない」
野党 「いや、安倍さんと籠池さんはめちゃめちゃ仲良しだったはず。講演したり寄付したり」
籠池 「私は仲良しなつもりでした。色々よくしてもらってますんで」


 みたいなしょうもない言い争いに、かれこれ2ヵ月ぐらいが費やされているわけである。
 国会の証人喚問は、籠池氏が「安倍昭恵夫人経由で、首相から森友学園に100万円寄付してもらった」と発言したのが問題になり、与党側がそれを打ち消そうとした流れの中で行われたものだ。自民党の竹下国対委員長は「総理に対する侮辱だから」というのを証人喚問の理由に挙げていたが、頭がおかしくなったのだろうか。
 そもそも、公職選挙法に抵触するような形ででもなければ、学校を建てようとして寄付金を集めている知り合いのおっさんに100万円寄付することは、べつに問題ないはずである。だから、この100万円寄付論争が仮に決着したとして、そこで明らかになる真相とは何なのかというと、「安倍首相と籠池氏が(100万円プレゼントする程度に)仲良しだったか否か」だけである。
 昭恵夫人付き職員のFAXとやらをみると、籠池氏の陳情を役所に取り次いでいるわけなので、安倍夫妻は「口利き」の一種を働いていることは間違いない。しかし先生経由の陳情なんて役所においてはよくあることであり、陳情を取り次ぐこと自体は犯罪でも何でもない。


 つまり大騒ぎしている割には、意外にも、不法行為を追及するという流れになってないように見えるわけである。
 口利きが不法であることを示すには、その口利きの内容が何かの規則に違反する不当な内容である必要がある。詳しく知らないが、政治家を通じて不当な要求をしている場合、結果として便宜が実現しなかったとしても(トライしてもらうだけで)何かの罪になる場合もあるんだろう。
 今回は、何かを試みたことを追及しているというよりも、「結果として8億値引かれた」「結果として私学審議会がOKを出した」ことから話がスタートしているから、まずはその結果がルールに反する不当なものであるかどうかから検証されるのが順当だと思う。
 「8億円値引いたプロセスは何々の基準に違反しており不当である!」⇒「その当時の責任者は誰々です!」⇒「実はその裏で政治家の関与がありました!」という話なら騒ぎ甲斐もあるので、まずは8億円の値引きが不当かどうかから順に検証していけばいい。しかしメディアや国会が、いきなり最後の「口利き」のところばかり取り上げるもんだから、わけが分からなくなっている。要求したことの内容や、結果として実現したことの内容が「不当なもの」でなければ、口利きをしていたところで大きな問題ではないのに。


 しかもその「政治家の関与」にしても、一番盛り上がるのは直接的な「指示」を出して法を捻じ曲げる的なやつだろうが、安倍総理が直接的に動いたという話はほとんど出てきていない。そこで役人の「忖度」によって物事が進んだのではないかという間接的な関与(といってもこの場合罪に問われるのは役所の方だろうけど)が話題になりはしたのだが、それを検証するのに必要な、近畿財務局や私学審議会の人たちの証言というのはほとんど出てこない。
 それで結局、「口利きが合ったかどうか」ではなく、「忖度があったかどうか」ですらなく、「安倍さんと籠池さんは仲良しだったか否か」を国会で追及するという大変愉快なことになったわけである。いやまぁ、口利きや忖度への言及もされてるんだけど、メインテーマは「100万円」の件であって、これは「仲良しかどうか問題」でしかない。
 
 

8億円問題は結局どうなのか

 森友学園が政治的な圧力によって便宜を図ってもらったのではないかと指摘されている点は、いくつか出てきているが、よく知られたメジャーな論点は、


(1) 私学審議会で森友の学校設置認可申請について「財務状況がかなり危ういのでムリ」との指摘が相次いでいたのに、なぜか「条件付きで認可適当」との答申が出た件。
(2) 2015年に森友学園が行った有害物質の撤去費用1億3000万円を、2016年度予算で措置して払ってもらった件。
(3) 借地契約から買取契約に変える際に、ゴミの撤去費用として8億円強を値引いてもらった件。


 あたりであろう。これらは、「不当な内容」を「政治的圧力で通した」と言えるものなのだろうか。
 (1) について、内容的には「不当である」と言える可能性は高いだろう。騒動が勃発してからの話ではあるけど、最終的に申請を取り下げさせられてるし。論点としては、森友学園の財務状況に不安があるという点とか、大阪府の基準では土地は原則自己所有でなければならないという点は、解決したのかが怪しいわけである。後者について、貸主が国や自治体であれば敷地に借地が含まれてもよいが、借地に建物は建てられないことになっている。森友学園は購買予約付きの借地というある意味グレーな状態だった。
 そういう課題がある中でいったん「認可保留(継続審議)」とされた1ヶ月後に急に「条件付き認可適当」となったプロセスは、殆ど何も明らかになっていない。松井知事と橋下元知事は、「橋下知事時代に規制緩和を猛烈に推し進め、新規参入を最大限認めましょうということになってたのだから、役所がその意向を忖度してゆるい結論を出すことは当然あり得る」と述べている。これは自分たちの非を認めているようにも見えるが、森友学園との個別的な結びつきを問題にさせないためのカモフラージュかも知れない。
 (2) については先ほども述べたが、森友学園からしたら「国が払うのが当然」かつ「待たされて迷惑だった」という案件で、その言い分には一理あるので、「不当な内容」とまで言えないのではないかと私は思う。下の年表に出てくる、周辺の土地のケースも含めた過去の経緯からすると、1億円強を国が支払うというのは突出した金額でもない。


 そこで(3)である。もともと森友学園問題が騒ぎになったのは、木村真という豊中市議が、「森友学園への土地売却について、売値が非公開というのはおかしいではないか」と2月8日に大阪地裁に提訴したのが始まりだ。その動機は「極右の学校なので潰してやりたい」ということだったらしいが・・・。その2日後に国から売値が公開されて、「ちょw 9億が1億てwww」と話題になったのである。
 問題の土地はもともと、「10年以内の買い取り」という条件付きで、2015年から森友学園に有償で貸与されていた。国としては基本的に貸与はせず買い取らせる方針だったようで、かつて豊中市が無償での貸与を求めたときも、「基本は貸与ではなく売却だ」と譲らず揉めている。森友学園側は財務的に苦しかったので、「10年以内になんとか買いますから」ということで、特例的に定期借地にしてもらったのだ。ここも口利きポイントだったかもしれないが、プロセスはよく分からない。口利きを求めたことがハッキリしているのはその後の、「学校経営という事業の性質上、10年間では不安なので、50年に伸ばして経営を安定させたい」という陳情のほうで、こちらは例の夫人付きFAXにもあるように断られていて実現していない。


 さて、森友学園がこの土地を借りて学校建設に着手し、まずは土地の整備から始めるわけなのだが、掘ってみたら有害物質が埋まっていることが判明した。下の年表にも書いているが、このあたりの土地にいろんなものが埋まっているということは以前から明らかだったので、賃貸借の話がまとまる前の段階(籠池ノートによると2015年2月)で、国と森友学園は「建設前の土地の整備に係るお金については、国が2015年度予算で払いますんで」と約束していたようだ。
 それで森友学園は「実際掘ってみたら廃棄物が出てきたので、何とかしてくれ」と2015年9月に国に陳情する。ところが国は、「今年度予算にそのおカネが入っていない」と言って断った。森友学園としては「ふざけるな、話が違うじゃないか」と怒るわけなのだが、ひとまず撤去は先に自分たちで実施して(籠池氏の言い方では費用を「立て替え」て)、事後的に国に費用を請求することにした。これも何か、口約束的なものはあったのではないかと思うが、よく分からない。森友学園側はめちゃめちゃ怒ってるが、なんとか次年度の予算で早々に払ってくれよという調整を付けたわけである。


 そしてちょうどその支払の直前であった2016年3月になると、こんどは生活ゴミが大量に見つかった。これでまた予算化を待たされるとなると開校の予定にも間に合わなくなってしまうので、籠池氏としてはそれはどうしても避けたかった。
 そこで国に対して再び陳情を開始するわけである。もともと2015年の陳情でも、「撤去費用は森友負担でいいから賃借料を半分にまけて欲しい」的なことは言っていたようで、この2016年の陳情でも同様のことを主張した可能性は高い。証人喚問でも、籠池氏は「感覚的に半分ぐらいになったらいいなと思った」と述べている。
 しかし、代理人の弁護士に交渉を任せていたところ、この弁護士は「買い取ったほうが得です」みたいなことを示唆してきたので、森友学園は買い取りを希望することにした(このあたりも、理屈やプロセスがよく分からない。財務省は証拠を捨ててしまったし、弁護士は辞めて逃亡したので)。撤去費用が8億いくらと見積もられて(籠池氏は当初、この金額を知らなかったらしい)、差し引き1億円強という金額で買い取れることになったのである。


 さて、この撤去費用の8億円の妥当性についてなのだが、色々読んだ感じからすると、国交省(大阪航空局)と財務省(近畿財務局)で見積もるにあたって、ゴミの量の確認はろくに行ってないみたいなので、たぶん計算は適当だったのだろう。財務省の国会答弁でも、「単価」の設定等については「通常のルール通りだ」と詳しく説明していたが、「数量」についてはごまかしてる印象だった。
 で、森友学園側はもともと「年間2700万円」で借りていたのを「半額ぐらいにしてほしい」と思っていて、半額×10年にするとちょうど1億いくらになるので、この水準に合わせてゴミの撤去費用を適当に合わせたのではないかと疑われているわけである。
 その可能性も否定はされないので、検証すればよい。しかし、である。あまり報道されていないのだが、周辺の土地も過去に大幅に値引きされてたという事実があって、この問題はややこしいのだ。


 今年の2月9日、つまり木村真・豊中市義が大阪地裁に提訴した翌日に、朝日新聞等がこのことを記事にしている。「だいたい同じ広さの隣の土地が、豊中市には14億円で売られているのに、森友学園には実質1億いくらで売られて10分の1になってるのはおかしい!」ということで騒ぎになったわけである。
 ところがこの時の報道では、2010年に豊中市に土地を売ったときも、実質的には14億円ぐらい値引きされて、タダ同然になっていたことが伏せられているのである。売却とほぼ同時に、住宅市街地総合整備事業補助金(国交省)で7.1億円、地域活性化・公共投資臨時補助金(内閣府)で6.9億円が国から支払われ、さらに売買契約が瑕疵担保責任ありだったので、豊中市による土地の事前整備時にかかった盛り土封じ込め費用の約2000万円も国から支払われた。ちなみに当時は民主党政権である。
 他にも近隣で、給食センターを建てる目的で2015年に豊中市に売った、似たような広さの土地がある。これは約7億円で売ったものの、その後に整備を始めたら瓦礫が見つかって、豊中市側で撤去費用を見積もったところ14億円ぐらいかかることになったとのことだ(笑)
 この契約には瑕疵担保責任が定められているので、「国が払うべき」と言って現在進行形で揉めているようだが、詳細は不明である。


 森友学園が今回買った土地は、2011年頃に大阪音大も買取りを希望していて、この時は音大側がゴミの撤去費用を2億5000万円と見積もっている。森友の「8億円」は、工事を開始して杭を打ち始めてから明らかになったゴミに関するものなので、本当に大量のゴミがあるのかは上述のとおり不明であるものの、一応、音大の試算より高くなる理屈はあると言える。
 また、国が貸した土地にゴミが見つかって小学校の開校が遅れたとなると、森友学園から損害賠償を求められる可能性があるから、売却交渉をさっさとまとめようと思ったという財務省の説明は、保身のために言ってる部分もあるだろうが、理屈は通っている。売却契約には瑕疵担保責任の免除(以後さらにゴミが出てきても国は責任を持たない)条項も付けるわけで、その分安くなるべきとも言える。


 これらを総合すると、「森友学園に8億円値引きしてやったのが妥当か」というと、妥当ではない可能性は結構あるが、「意外と妥当だった」という可能性も、「他の売却案件も同程度にいい加減だった」という可能性もまだある。他の案件も適当にやってるなら、ことさら森友学園の件だけ口利きがあったのではと騒ぐのも変かも知れないのだ。
 だから改めて調査をやって、「▲8億は妥当なのかどうか」⇒「妥当じゃないとすれば誰の責任か」⇒「背景に政治家の口利きはあったのか」という順番で話をしていけばよい。
 だいたい、財務省が証拠を捨てていたり、2月下旬に籠池氏に「10日間ぐらい姿を隠してくれ」と頼んだりした経緯からして、いろいろ怪しそうではないか。ところが、その点の追及に向かうことはなく、メディアも国会も「安倍と籠池は仲良しか問題」にしてしまっているところが意味不明である。
 
 

なぜわけの分からない感じになっているのか

 上のまとめも、下の年表も、世間が盛り上がっている話題がなかなか理解できなかったので頭の整理のために書いてみたものであって、私個人としては、「真相を知りたい」とはあまり思わない。学校建設の件で、籠池氏や安倍総理が何をしていようが腹も立たないし、嬉しくなる要素もない。
 ただ、世間が盛り上がっている割に、盛り上がり方の方向性が変だと感じられたので、「どうせ騒ぐなら、こういう議論をすればいいのでは?べつに騒がなくてもいいけど」と思って整理をしているところである。
 その程度のものなので、このエントリを起こすにあたって、ソースの確認などを厳密には行っていない。だいたい分かればいいので。


 ところで、8億円の件がスッキリした議論になっていないというのも変であるが、こんなしょうもない議題で証人喚問を行って、犯罪者でもない民間人を国会に呼びつけ、間違ってたら偽証罪に問うぞと脅している様子もかなり暴力的であると言える。
 またここ数日、安倍夫人と籠池夫人のメールをもとに、辻元清美議員が森友学園に「侵入」したという疑惑で盛り上がっていたらしいが、これはかなり衝撃的だった。私も、はてブのホッテントリ一覧とかを眺めていて、タイトルに「辻元清美」と入っている記事がいくつか目に入りはしたのだが、その時点では森友問題で辻元議員など全く重要な登場人物ではないと思っていたから、クリックもせずに無視していた。両夫人のメールはネットにも上がっていたから私も先週ぐらいに読んでいたのだが、まさかこれを根拠に何かをマジメに主張する人いるとは想定外過ぎた。
 なんというか、思った以上にみなさん頭がヤバくなってますねと・・・。

「右翼叩き」のモチベーションが強すぎる

 なんでこんなにいびつな騒動になっているのかというと、分からないことも多いのだが、その原因の一端は、木村真という豊中市義がこの問題を最初に告発する時の動機が「極右の学校だから潰してやりたかった」ということだった点にあるのではないか。マスコミや国会野党へ伝わるにあたって、最初から、焚き付け方がおかしいのだ。
 稲田大臣の「教育勅語の核の部分を取り戻すべき」発言でしばらく盛り上がったのが、そのことをよく象徴している。「核の分」がどこかなんて何とでもいえるのだから、こんなのいくら騒いだところで大臣を叩き切れるわけがない。教育勅語が好きでも嫌いでもいいのだが、問い詰め方がまったく合理的でない。「私が思う核とは、仲よくしましょうの部分です。あなたがどこを核と思ってるかは知りませんけど」と言われたら、それ以上追及のしようはないにもかかわらず、米軍占領下の国会決議を持ち出して「稲田大臣は罷免すべき」と騒ぐ弁護士まで現れて笑ってしまった。


 「極右の森友と安倍を叩きたい」という動機で仕掛けられた騒ぎなので、当初から「安倍と籠池は仲良しなのか否か」というどうでもいい話題にこだわる人々が一定割合で存在しており、その方向で盛り上がった人たちが話をわかりづらくしている面がかなりあるように思う。
 また、それに対する与党のリアクションも過剰な防衛になっている。小田嶋隆がコラムで書いていたが、「首相夫人は私人」とか「私や妻が関与してたとなれは総理も議員も辞任する」とか、言わなくて良いことを言うもんだから、揚げ足取りでしょうもないツッコミを入れたくなるというわけである。
 べつに森友学園で講演したって、100万円寄付したって、名誉校長になったって、それ自体は構わないのに、ここまで躍起になって籠池切りをしたがっているのは何なのか。この過剰さは、なにかやましいことを隠すためのものかもしれないが、単にアホというか合理的でなくなっているだけかもしれない。

パーソナリティを踏まえずに証言を解釈している

 また、重要である割に軽んじている人が多いのが、登場人物がどんなパーソナリティの人たちなのかである。この事件をめぐっては今のところ物証が乏しい点が多く、「証言」をもとに色々な憶測が飛び交っているわけなのだが、「証言してる人の性格」というパラメータを踏まえて解釈しないと、大きく間違えることもありそうだ。もちろん、知り合いでもないのに性格なんて分かるかという話なのだが、想像してみてなるべく念頭に置きながら物事を解釈するぐらいのことは必要だ。


 まず籠池氏に関して言うと、菅野完氏が「意外と、ふつうの仕事熱心な大阪のおっちゃん」と表現していたのは恐らく正しいのだろうと私は想像している。付け加えるならば、この人は「思い込みが強いタイプ」でもあるだろう。「うそつき」とか「ダーティなビジネスマン」といったイメージではなく、「一生懸命で暑苦しく、思い込みが激しくてめんどくさい」人物だと思われる。
 政治家にいろいろ働きかけて、ちょっとよくしてもらうと、「あの先生は、森友学園がお国のために頑張っていることを理解してくれている。ありがたいことだ」とすぐ感激してしまって、ある意味一方的に信者になったりすることも多いのだろうと思われる。
 籠池氏が、安倍総理をはじめとして様々な政治家から便宜をはかってもらったかのような証言をしているのも、そういう性格がかなり関係していると思う。政治家の側からすると、「関西では顔が広いおっちゃんだし、自分の支持者だから、悪くはできないな」程度に対応しただけであったとしても、籠池氏のほうは「めちゃめちゃ良くしてもらった」と勘違いして、本気で喜んでしまうのだろう。そして、「森友学園の理念を分かってくれる○○先生に良くしてもらっている」というのは、彼にとって本当に誇りなのだろう。


 また、誹謗中傷にならないように言葉を選ぶ必要があるのだが、安倍昭恵夫人と籠池諄子夫人はともに、霊能力者か宇宙人のような人たちだと思った方がよいのではないか。この人たちもたぶん、嘘をついて誰かをだまそうとするタイプではなく、本当にいろいろ思い込みで突っ走るタイプだろう。
 こういう人たちが、記憶に基づいて何か証言したり、メールをやりとりしたりしているのを、いちいち真に受けていること自体がちょっとおかしいのだと、外野の我々は認識したほうがいいと思う。

掘ればいろいろ出てくる

 最後にもう1点あげておくと、籠池氏は政界にも顔の広いおっさんで、めちゃめちゃ熱心にロビー活動を行うから、政治家に色々と口を利いてもらっているのは確かなのだろうと思う。先ほども述べたように、適法な範囲内であれば口利きをしてもらってもべつにいいのだ。
 で、そういう人だから、掘れば色々と疑惑のネタにできそうな事実は見つかるのだ。そして籠池氏もそれを言いたがるところがあるから、話題に事欠かない感じになっており、そのせいで落ち着いて議論の道筋を整理するというふうにはなかなかならないのであろう。
 
 

年表(暫定)

 以下は自分で適当にまとめてる年表で、頭の整理のためにメモしてるものなので何度も確認したりはしておらず、間違いも結構あるかもしれません。あとで暇があったらソースへのリンクも貼りますがひとまず今はめんどくさくてやってません。

  • もともとこの伊丹空港周辺の土地は、騒音区域に指定した上で、大阪航空局が買収し、管理していた。その後、防音技術が進歩してだんだん騒音区域が小さくなり、騒音区域の指定から外れた土地については、どんどん売却していった。今回問題になっている場所も、全て売却する予定になっていた。*2
  • 籠池氏は10年前から小学校設立の構想を持っており、「安倍晋三記念小学校」を作りたいと考えていた。安倍晋三が衆議院議員のときに「安倍晋三記念小学校」という名前を使いだして、第二次安倍内閣組閣の時に断られたらしいので、使用期間は2007年〜2012年の間である。
  • 豊中市は問題の土地を、公園にしたいからと無償貸与を求めてきた。が、国は土地はタダでは貸せないしそもそも売却が原則だと言って、交渉がまとまっていなかった。2007~08年ごろになると、「2010年までに買ってほしい、それができないなら別のところに売却する」と市に最後通牒を突き付けてきた。*3
  • 2009年〜2012年に、国交省が調査をしていて、3メートルぐらいの深さまで廃材とか生活ゴミとかが埋まっていることは明らかになっていた。*4
  • 2010年に公園用地として、豊中市が求めた土地の半分ぐらいを14.2億円で売却(9492平米)した。豊中市はもともと「タダで貸してくれ」と交渉していたが、結局有償になり、値段も高かったので面積は半分で我慢したらしい。この時の不動産鑑定額は9.1億円。ただ、住宅市街地総合整備事業補助金(国交省)で7.1億円、地域活性化・公共投資臨時補助金(内閣府)で6.9億円が国から支払われた。さらに売買契約が瑕疵担保責任ありだったので、豊中市による整備時にかかった盛り土封じ込め費用の約2000万円も国に請求して支払われたため、結局ほとんどタダ同然の費用で買い取ることができた。
  • 籠池氏は2011年9月、学校設置基準の緩和を求めて大阪府に働きかけ始める(忘れたがたぶん大阪の議員経由でということだったと思う)。内容としては、学校の建設資金は自己資本でなければならないことになっていたのを、融資でも建設できるようにしてほしかった。
  • 2011年に大阪音大*5がこの国有地の取得希望を国に伝え、調整が始まった。この時は音大側で、撤去費を約2億5千万円と見積もった。2012年4月に国交省から「大量の埋設物がある」と知らされており、見積もりをゼネコンに頼んだもの。この撤去費をふまえ、もともと7億~8億円で交渉していた購入希望額を約5億8千万円にしてくれと頼んだが、財務局からそれでは安すぎると言われ、断念した*6。橋下メルマガでは、大阪音楽大学が近畿財務局に買い取りの交渉をしてきたのは2012年からとされているが、時期はどっちが正しいかよくわからない。
  • 2012年、大阪府によって学校設置基準が規制緩和される。もともと、小中高大の運営実績がある場合は融資で建設してもいいことになっていたので、「学校法人の運営実績があれば」という基準に変更し、幼稚園の運営実績でも融資による建設が可能になった。これについて松井・橋下は、森友学園に便宜を図ったのではなく、全体として猛烈に規制緩和を進めていて株式会社立も誘致しようとしていたので、その緩和の一部だと説明している。
  • 森友学園が取得した問題の土地は、いったん2012年10月に(伊丹空港と経営統合された)新関西国際空港に対して現物出資され、新会社のものになっていた。大阪航空局内ではこれをもって、土地売却のミッション完了ということで、土地管理の部署が解散した。
  • 2012年12月に、安倍晋三が自民党総裁となって第2次内閣の組閣をした。この段階で、「安倍晋三記念小学校」という名前はやめてくれと言われたので、森友学園側では使用を控えるようにした。もともとは、勝手に名前を使っていた。
  • 近畿財務局は、新関西国際空港に現物出資した土地について「大阪音大に売れそうだ」ということで、2013年1月に国の所有に戻した。橋下メルマガでは大阪音大に売るためにと書かれているが、他の記事では表向きは「手続上の錯誤があったため」とされてたみたいで、背景はよく分からない。土地は航空局が保有していたが、売却の事務は近畿財務局の仕事である。結局財務局は上述のとおり、大阪音大とは値段が折り合わずに破談して、売れなかった。
  • 豊中市は2013年4月、後に森友が買ったエリアのうち約472平方メートルを、特定有害物質の汚染区域に指定した。
  • 2013年9月、近畿財務局による土地取得の公募(6月からやってた)に森友学園が応じた。小学校用地としての取得を希望。国有地の売却等については公共の目的での利用が優先されることになっており、他にそういう希望はなかったので、森友学園と相対で交渉することになった。
  • 2014年10月、森友学園が大阪府に、小学校設置認可申請を提出。
  • 2014年12月、大阪府で私学審議会開かれるが、森友学園の財務状況に問題があるとの指摘が相次ぎ、認可保留となった。
  • 2015年1月に開かれた私学審議会では、一転して、「条件付きで認可適当」の答申が出た。条件とは、「小学校建設に係る工事請負契約の締結状況、寄附金の受入れ状況、詳細なカリキュラム及び入学志願者の出願状況等、開校に向けた進捗状況を次回以降の私学審議会の定例会において報告すること。」
  • 2015年2月、航空局・財務局との間で、ゴミ等の撤去費用(ノートには「工事費」と書いてある)が発生した場合は、2015年度予算で支払うとの口約束が行われた(と籠池氏は認識)。《籠池ノートより》
  • 2015年5月29日、近畿財務局は森友学園と10年間の定期借地契約と期間内の売買予約契約を結んだ。
  • 2015年8月、学校建設予定地から有害な埋設物が見つかり、近畿財務局と大阪航空局も現地で確認した。籠池氏はそんなものが出てきてびっくりしたみたいに言ってるが、もともと汚染地域にも指定されていたわけなので、不思議なことではない。
  • 2015年9月4日、有害物質の件で森友学園側は近畿財務局に対して陳情を行う(籠池氏本人ではなく、弁護士と業者が?)。*7
  • 2015年9月5日、昭恵夫人が塚本幼稚園で講演した。100万円を寄付したとされるのはこの日。
  • 2015年9月、当初は土地の整備に係る工事費は2015年度予算で国が払うと約束(たぶん口約束)していたのに、2015年度は予算化されていないことが判明。2016年度予算まで待ってくれと言われたが、11月に土地の整備が終わって建設に着手するはずが4ヵ月延びることになり、学校開設にも影響が出るし、4ヵ月遅れる分の利息は払う気あるのかなど、籠池氏側は国に対して不信感を抱いた。*8 
  • 2015年12月3日、森友学園が、大阪府、国交省、関西エアポート*9のそれぞれに対して、金額の異なる工事代金の契約書を提出した。国交省には補助金申請、関西エアポートには助成金申請のためだったので高めの価格を出し、大阪府には、私学設置認可をもらうため財務上の懸念を払拭しなければならないので、安めの金額で出したと考えられている。
  • 2015年12月までに、すでに見つかっていた有害物質を森友学園側が撤去し、豊中市による汚染区域指定は解除された。籠池氏は「立て替えていた」と証言しているが、この段階で、撤去費用の負担について何か国側と合意があったのかというと、上述のとおり2月に国側と口約束していただけと思われる。
  • 2015年?月、豊中市は給食センター用に、7200平米を関西エアポートから7億7148万円で購入(森友学園の8770平米よりすこし狭い)。購入後に瓦礫が大量に埋まっているのが見つかり、撤去費用を見積もったら14億3000万円となった。現在どうなってるのかは不明だが、瑕疵担保責任ありの契約らしいので、関西エアポートに「払え」と交渉中?
  • 2016年3月、森友学園に貸している土地で前年に見つかっていた有害物質の除去費用1億3176万円について、国が負担する合意書を締結。
  • 2016年3月、杭を打ち始めたら新たに生活ゴミが出てきた。籠池氏としては、追加分の処理費用はどうせ2016年度予算は措置できないのだろうと考え、また次年度予算まで待つことになって建設が先送りになるのは困るから、国に陳情を開始。感覚的に、借地料を半分ぐらいにまけてくれたら良いと思った。が、国側との交渉を代理していた弁護士が、「買い取ったほうが得です」と籠池氏に示唆したので、森友学園は買い取りを希望する旨を表明した。
  • 2016年4月、国交省(航空局)が、新たに見つかったゴミの撤去費用を見積もった。8億いくらと試算されたが、籠池氏はこの金額を当初知らなかったと証言している。
  • 2016年6月、近畿財務局は土地を森友学園に売却。瑕疵担保責任が免除される特約を付けている。もともと国の瑕疵でゴミが埋まっていたわけで、それが原因で開校が遅れて森友学園から損害賠償などを請求されたら大変なので、安値でもいいからさっさと売ってしまい、さらに瑕疵担保責任無しにしたかったらしい。
  • 2016年10月、稲田防衛大臣から森友学園に感謝状。(自衛隊に園児がプレゼントしたか何かのお返しなので大した話ではない。)
  • 2017年2月8日、豊中市の木村真市議が、「森友学園に売却した土地について、価格が非公表なのはおかしい」と大阪地裁に提訴。もともとこの土地は豊中市が無償貸与を希望して国から断られた土地だったので背景が気になったことと、森友学園は「極右の学校」なので潰したいと思ったとのこと。木村真市議は前年から、この件についてマスコミに騒いで欲しいと思って調べ物をしたりしていた。
  • 2017年2月9日、朝日新聞等が上記の訴訟に触れ、この土地について「近隣の土地は14億で売却されているのに森友学園には10分の1の価格で〜」と報道して、騒動が勃発。ただし、その豊中市に売ったときも補助金等が14億円出て、実質タダになったことには言及していない。
  • 2月10日、近畿財務局が売却価格や撤去費用の見積額を公表。
  • 2月22日、大阪府の私学審議会で、森友学園の経営に対する疑問が噴出。
  • 昭恵夫人、名誉校長辞任。
  • 2月下旬、財務省から弁護士を通じて籠池氏に、10日間ほど身を隠して欲しいと告げられた。
  • 3月10日、森友学園は小学校設置認可の申請を取り下げた。
  • 3月23日、籠池氏の証人喚問(午前中参院、午後衆院)。

 

*1:口利きの結果は「満額回答だった」と主張する記事で、満額の中身としてこの1億3000万円の件が挙げられていたが、それは変である。少なくとも、「これはもともと払うことになっていなかった」ことを示さないと、口利きの結果であるとは言えない。

*2:橋下メルマガより。

*3:木村真市議がそう語ってる。

*4:朝日新聞

*5:朝日新聞かなにかの記事では「別の学校法人」と書かれていて、橋下メルマガでは大阪音大と書かれていた。

*6:朝日新聞の報道

*7:同日、安倍首相は大阪入りしてテレビの収録などをやっていた。また同日、国交省のサステイナブルなんとかに瑞穂の国記念小学院の校舎が指定され6200万円の補助金交付が決定したと書いてるサイトがあったがソース未確認。

*8:籠池ノート

*9:新大阪国際空港は2016年4月からこの名称になっている。

千眼美子(清水富美加)『全部、言っちゃうね』(要約)

 昨日、本屋でレジの横に置いてあったのを衝動買いしました。新興宗教あるあるという感じの内容で、特に思うことはなかったので、要約だけ書いておきます。

生い立ちと騒動の経緯

 そもそも両親も2人の姉も幸福の科学の信者であり、自身は6歳の時に「三帰誓願」*1して正式に信者となった。『仏説・正心法語』などの経文を家族で読誦したりしていた。
 小学生の頃は「仏法真理塾 サクセスNo.1」に通っていたが、家から遠かったので辞めてしまい、ふつうの塾に行って日大附属中に入学した。


 中学に入るとモテ出して、芸能事務所からもスカウトされて調子に乗り、芸能方面で頑張っていくことにして高校から堀越学園に入ることにした。堀越学園は肌に合わず友達もできなかったのと、仕事が忙しかったので退学し、結局通信制の高校に転校したのだが。


 芸能の仕事はハードな割に給料が安かったが、経験を買っているのだと信じて頑張っていた。しかし一方で、「照魔の鏡」*2の教えを始めとして幸福の科学の教えは一つも疑わずに信じてきたから、事務所が取ってくるドラマやグラビアの仕事が教えに沿ってない内容のものばかりであることに、違和感を覚えていた。

何とか笑顔で元気にがんばっていましたけど、いざ、握手会とか人前に行ったら、手がぬるぬるしてるおじさんとかに、すっごい気持ち悪い握手のされ方をする。『この見知らぬおじさんが私の写真やDVDを観て家で何してるんだろう』とか考えてたらもう、ほんとに悲しくなって。


 それでも人を楽しませることができるのであれば、と言い聞かせて仕事に打ち込んでいたのだが、仮面ライダーの撮影を始めとして安い給料でこき使われる日々が続き、心身ともにボロボロになってきた。朝4時か5時に現場に入って深夜まで撮影が続き、1ヵ月間休みがないのもザラだったのだが、もらえる月給が4万5000円で交通費も支給されないので、ヒッチハイクで帰宅したりしていた。
 そういう時期が続いて何度か自殺しかけたのだが、以前から世話になっていた幸福の科学信者のAさんが「それはおかしい。命のほうが大事なんだから、仕事はやめるべき」と真剣に言ってくれて、「こんなありがたいこと言ってくれる人は芸能界にはいない」と感激した。それでも芸能界の仕事には面白さもあったし責任も感じていたから、仕事は一応継続し、辛い時は幸福の科学の礼拝室に行ってお祈りするようになっていた。


 2016年夏頃に、ある映画の撮影で役作りのためにホラー映画を観まくっていたら悪霊に憑依されてしまい、每日のように悪夢をみて、金縛りや幻覚に苦しむようになった。ヤバイと思ってマネージャーに相談してみたが、「みんな辛い時はある」の一点張りで、霊的なことが分かってもらえなかった。一方、幸福の科学の精舎では「悪霊封印秘鍵」という祈祷を勧められ、実際に受けてみたところ悪夢はすっかり収まって、撮影を何とか乗り切ることができた。


 2017年1月に、大川隆法総裁先生が自分の守護霊の霊言を収録してくださったのを拝聴して、「ありがたいな。こんな私のことも気にかけてくださったんだ」と感動し、「私も、幸福の科学の映画のような、人を幸せにするために作られた作品に出たい」という思いが強くなってきた。
 この霊言が出版されたときに、マネージャーから「こんなの出てるけど知ってる?」と言われ、最初は自分が信者であることは隠していたが、すぐに嘘をつくのが嫌になって、勢いで信仰を告白することになった。すると一緒にいた業界の人が「私は創価学会です」と信仰告白し、「宗教あるある」で盛り上がることとなった。
 創価学会では教えが厳しいので、子供のころから神社に行ってはダメとか、カランカランを鳴らしてはダメとか言われていて、友達に伝えるのも難しいからとても辛かった。一方、清水富美加の幸福の科学のほうは、「うちはもう天はみんな一緒で、イエスも、釈尊も、天照大神もみんなオッケー!」*3だから自由でよかったとのこと。


 「やはり芸能界ではなく、幸福の科学こそが自分の居場所である」という確信が強くなり、Aさんに相談して、「全てを捨てて出家する」ことを決意した。マネージャーには「これから先、人間として生きてる人たちに霊的に見て悪い影響を与えたり、悪魔的なものの力に加担してしまうような作品に出てしまう可能性があるなら、それは私にはこれ以上できないです」と伝えたが、意味がわからなかったようである。
 あとは幸福の科学の弁護士に任せて退職の交渉を続け、その間は芸能の仕事も継続していたが、再び悪霊に憑依されて、身体がガタガタ震え、幻聴が聞こえるようになった。病院に行ってみたら「これはもう限界を超えていて、仕事を続けたら死にます」と診断されたため、芸能の仕事を完全に断ることとし、出家することになった。
 出家してから大川隆法総裁先生に初めてお目にかかり、「CGじゃなかったんだ」と感激し、「何千年の奇跡」が起きたように感じた。

もう魂年齢が2億年、3億年*4とかいっても、この日のことは輝き続けるっていう実感がありました。

宗教について

 幸福の科学はカルトとして批判されることもあるが、「神様が常に自分を見ている」という感覚は全ての人が持っているべき普遍的なものであり、神社とかお寺に行くのと本質的には変わらない。幸福の科学は、その現代版に他ならない。
 自分は幸福の科学の教えを一度も疑ったことがなく、信じない人がいても別にいいのだが、「人を幸せにしよう」という心がけを非難される謂れはないはずである。幸福の科学は政治活動をしたりしていて、世間的に怪しいイメージがあるのは分かっているが、信者はそういう純粋な思いで信仰し、活動しているのである。


 自分が出家して何がしたいのかというと、つまるところは人を幸せにしたいだけである。

出家っていうと、家を出て頭を坊主にするみたいなイメージですけど、私にとっては、主のため、神のため、プラス、人々を幸せにするために特化して、教えを学んで、精神的な部分、考え方の部分で人を幸せにしていくエキスパートっていうイメージです。人の悩みを一発で解決できるっていうか。


 また、宗教をもっとカジュアルに楽しめるものにすればいいと考えている。

 無神論の人が多いと宗教の話は言いにくいけど、今後は、自分が何を信じてるのか全員言ってしまえばいいと思うんですよね。
 バラエティ番組でそういうのがあったらおもしろくないですか?
 ひな壇に幸福の科学の人がいて、ほかの宗教の人がいて、司会者が無神論者とか(笑)。「うちの宗教ではこんな教えがあります」「出た!幸福の科学の!」「え、ダメですか?」「じゃあ、創価学会の話を聞いてみましょう」みたいに、お互いの違いを楽しく言い合ったりすればおもしろいと思う。夕飯は洋食派か和食派かくらいのライトな感じで議論できればおもしろいですよね。

*1:洗礼みたいなものだろう。

*2:死んだら、自分が生まれてから死ぬまでの出来事が映画みたいに上映され、神様が、地獄行きか天国行きかを審判するらしい。

*3:「エル・カンターレ」という究極の存在があって、キリストや釈迦などはその具体的な現れの一つであると捉えられるので。

*4:たぶん、何回も生まれ変わって、魂レベルでは一つの生命を生きているという教えになっているのだろう。

立憲主義へのちょっとした疑問:憲法は「国家権力を縛る」ためにあるのか?

「立憲主義」は流行語

 ここ数年で、「立憲主義」という言葉が突如として政治ニュースにおける頻出ワードになりました。もちろん「立憲主義」という言葉自体は私の中高時代の公民・歴史の教科書にも載っていたし、法学の基礎的な教科書にも載っているのでたいていの人が知っているはずです。しかし、もともと立憲主義というのは、17~18世紀の欧米で市民革命を経て憲法に基づく統治形態が樹立されたとか、日本でも19世紀に憲法を制定し議会を設立して近代国家の体裁を整えることが急がれたとかいうような歴史的背景を説明する文脈で登場する言葉です。現実の政治論議で「立憲主義」が論点になることなんてほとんどなく、ここ数年の「立憲主義」ブームはかなり唐突感があります。


 この唐突感は単なる私の印象というわけでもない。たとえば昨年出版された憲法学者・木村草太氏の『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)という本の中では、哲学者の國分功一郎氏がコラムを寄稿して、「ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが『立憲主義』という言葉です」と述べていました。またその証拠に、「憲法」というワードを含む朝日新聞の記事1000件中「立憲主義」をも含む記事の数を集計すると、グラフのように2013年から激増していることがわかります。


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 最近の、たとえばSEALDsのような運動家の発言をみていると妙に立憲主義慣れしてるというか、立憲主義を着こなしてるというか、なんか「護憲論者たるもの『立憲主義』を叫んでおくのが常識だよね」みたいなノリを感じるのですが、実際には護憲派でも「立憲主義」とか言い出したのは最近なんですよね。


 ところで、なんでこんなに唐突に「立憲主義」が盛んに唱えられるようになったか。國分氏は安倍首相の「私が最高責任者だ」発言(記事リンク)が発端だろうと言っているのですが、私が調べた感じでは、恐らく2013年に安倍首相が憲法96条の改正、つまり憲法改正要件の緩和を提案した時に、「それはさすがに立憲主義を根幹から覆すやり方なんじゃないの」というような批判が出たのがきっかけですね(記事リンク)。この96条改正問において「立憲主義に反している!」という安倍批判が始まり、その後の安保法制などの議論においても引き続き、流行語として「立憲主義」が用いられ続けているわけですね。
 
 

教科書の解説

 憲法学の教科書を何冊か読んだことがあるのですが(法学部ではないのでしっかり通読したわけではない)、立憲主義についてはだいたい似たような説明がされていました。
 憲法学の教科書では、最初のほうで「憲法」という概念にもいくつか種類があるということが説明されます。まず憲法というのは広義には「国家統治の根本的な規範」を指していて、この意味での憲法は「固有の意味の憲法」と呼ばれます。単に「基本ルール」って意味ですね。一方、狭義には「人権の保障と権力の分立を定め、国家権力を制限する内容を持つ最高法規」を憲法と呼ぶという用語法があり、この意味での憲法は「立憲的意味の憲法」とか「近代的意味の憲法」と呼ぶことになっています。


 歴史的経緯としては、立憲主義というのは、近代欧米の市民革命において、領主や市民階級が君主に対して「憲法に従った統治を行うこと」を要求し、君主の権力に制限を課していくという流れで登場したものです。フランス人権宣言に「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、 憲法をもつものでない」という条項がありますが、これが近代における憲法の本質を示すものとされており、この意味での憲法にしたがって国家の統治が行われるべきだという考え方を「立憲主義」というわけです。


 ついでに言うと、広義のであれ狭義のであれ、内容に着目して「国家統治の基本原則を定めたもの」として認識されるものを「実質的意味の憲法」と呼ぶ一方で、「◯◯国憲法」みたいな形で明文化された文書(いわゆる「憲法典」)のことは「形式的意味の憲法」と呼びます。「実質的意味の憲法」は、憲法典以外の規範を含むことがあります。イギリスの場合は「憲法典」が存在せず、マグナ・カルタのような歴史的文書や、議会法、王位継承法、人権法などの各種法令が総体として「実質的意味の憲法」を成すものとされているし、日本の場合でも、「実質的意味の憲法」には憲法典の他に、国会法や皇室典範等が含まれるとされる場合があるようです。
 
 

憲法は「国家権力を縛るためのもの」という説

 立憲主義に言及する人はたいてい、「憲法は国家権力を縛るために存在している」と言います。たとえば以下の記事。

憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある。
(2016年4月14日付 朝日新聞)


 これは、上述の分類で言う「立憲的意味の憲法」が標準的な憲法観になっているからですね。
 この憲法観に反対している人もいて、たとえば産経新聞に載ったコラムでは八木秀次氏が次のように主張してました。

 憲法を「国家権力を縛るためのもの」とする考えは、近代初期の「近代立憲主義」と呼ばれるもので、国家の役割を制限することで国民の自由・権利を保障していくという夜警国家、「小さな政府」時代の産物だ。しかし、その後、選挙権が拡大して国家が大衆の要求に応ずる必要が生じ、近代憲法の保障する人権が単に形式的な自由と平等を保障するにとどまり、真に人間らしい生活を保障する役割を果たしていないとの主張を社会主義思想が広めるに従って、国家の役割も憲法観も大きく変わっていった(長谷部恭男著『憲法』新世社、1996年参照)。

http://www.sankei.com/politics/news/140508/plt1405080021-n1.html


 この八木氏の批判には、少しおかしなところもあります。八木氏はこのコラムの中で、「憲法は『国家権力を縛るもの」で、「国民を縛るためのもの」ではない—この種の憲法観がここ数年、静かに広がっている」と言ってるのですが、昔から読まれている憲法学の教科書にもそう書いてあるわけなので、これはここ数年で急に唱えられるようになった憲法観というわけではなく、通説みたいなものです。


 また、「立憲的意味の憲法」を憲法観の中心に据え、国家権力の制限が憲法制定の主目的であると論じている憲法学の教科書であっても、「憲法は国民を縛るためのものではない」と主張しているのかというと微妙です。というのも、「昔と違って今は民主主義の世の中なので、国家権力も国民の多数派の意思に基づいているわけであり、むしろこの国民の多数派が暴走すること、つまりいわゆる『多数者の専制』のようなことが起きるのを防ぐことが大事なのだ」ということが、私が読んだ教科書にはちゃんと書いてあったからです。
 憲法学の教科書が「国家権力を縛る」という時、その「国家権力」には当然民主的なものも含まれています。多数派の横暴によって少数派の権利が蔑ろにされたり、多数派の支持を受けた者への全権委任のようなことが行われて事実上「国民主権」が失われるような事態に陥ることを避けるために、憲法によって「国民の多数の支持を受けたとしても、これ以上のことはできない」という枠をはめておくという話になっているわけです。だからある意味、憲法には「国民が自分で自分を縛る」という側面もあるということが説明されているわけですね。


 ただこれは「教科書」の場合の話であって、確かにジャーナリズムや世論のレベルで唱えられる「立憲主義」論は、八木氏が言うように、「国家権力 vs 国民」というような図式のみを念頭に置いていて、国民に対立するものとしての「国家権力」の制限のみを論じている場合が多いのかもしれません。
 
 

本当に憲法は「国家権力を縛るためのもの」なのか

 2014年に安倍首相が、野党からの「憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」との質問に対して、

考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う。


と答えたことがニュースになり、例えば朝日新聞は社説で「これには、とても同意することはできない」と批判していました。


 私も安倍首相の妙に未来志向な憲法観には違和感を覚えるのですが、「憲法は国家権力を縛るものだ」という意味での「立憲主義」を強く唱える論調も変なんじゃないかと思っています。というのも、また憲法学の教科書の話をすると、たしかに「憲法は国家権力を縛るためのもの」だと解説されている記述はあるのですが、他の箇所を読むとその憲法観にそぐわないと思われるような議論も書かれてあって、立憲主義というのはけっこうあやふやな理念なんじゃないかという気がしてくるからです。


 以下、憲法学の教科書に書いてあることのうち、いわゆる「立憲主義」と整合性あるんだろうかと疑問に思ってしまう点を列挙します。
 なお私は憲法学や法律学の専門家でも何でもないので、理解が間違っている可能性があります。また、これまでの憲法学者たちの専門的研究の積み重ねは尊重したいと思っているし、日本国憲法において人権が重要なテーマになっていることも理解しているので、べつに憲法学にケチを付けたいわけではないです。ただ、「立憲主義というのは、素人が教科書を読むといくつも疑問が浮かんでしまうような、分かりにくいコンセプトである」ぐらいのことは言える気がしています。
 
 

「立憲主義」との整合性が気になる点

 以下4点に分けて「立憲主義」の憲法観に関する疑問を書いておきます。

「国民の義務」の規定

 まず、日本国憲法には「国民の権利」の保障だけではなく、「国民の義務」も規定してあるじゃないかという話です。これは、いわゆる立憲主義に関して素人が疑問を抱く点としては「毎度おなじみ」的なもので、立憲主義派の人たちからすれば「またその話かよ」って感じでしょう。しかし、やはりこの点は不可解なんですよね。


 『憲法 I』(野中俊彦ほか、有斐閣)という教科書を読むと、国民の義務規定については、

国民の憲法上の義務を定めているのは、一二条の一般的義務規定、二六条(教育)、二七(勤労)、三〇(納税)の個別的義務規定であるが、それらは具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは立法による義務の設定の予告という程度の意味をもつにとどまっている。


とか、

日本国憲法の人権保障規定は、生来の人権を強く保障しようとするものであり、この点からみれば、国民の義務の強調には本来なじまない性質のものである。


とか、

国家のなかでの国民の義務は、(中略)法令の個別の定めによって具体化されるものであり、ことさら憲法の人権保障規定の中で規定することの意義は乏しいといわなければならない。


とか、言い訳みたいなことばかり書いてあります。要するに教科書としても「国民の義務」にはイヤイヤ言及しているような感じで、I巻とII巻を合わせると1000ページもある教科書なのに、国民の義務についての解説はたった5ページしかありませんw
 また、手元にある『憲法学読本 第2版』(安西文雄ほか、有斐閣)という教科書も見てみたところ、国民の義務の解説はまるごと省略されてました。
 そんなに重要性が低いのなら、なぜ憲法にわざわざ書いてあるのかと訊きたくなります。憲法に規定することの意義が乏しいなら、規定しなければよかったわけですよね。教科書のこの歯切れの悪い解説からは、「憲法は国家権力を縛るためのもの」という憲法観に縛られ過ぎて、「国民の義務」規定をどう扱ったら良いか頭を悩ませてしまっているという印象を受けてしまいますね。


 そもそも「国民に対する倫理的指針」としての意味を持つというのであれば、憲法を「国家権力を縛るためのもの」と狭く理解する必要はないように思います。少なくとも、「国家権力を縛るためのルールが書いてあると同時に、国民の倫理的指針も書いてある文書」だと言わなければならないですよね。
 また『憲法 I』は、「勤労の義務」規定については、

これを「社会国家の根本原理を定めたもの」、すなわち「働かざる者は、食うべからず」の原理とその根本精神を同じくすると解し、社会国家的給付に内在する当然の条件として、働く能力があり、その機会もあるのに、働く意欲をもたず、また実際に働かない者は、生存権の保障が及ばないなどの不利益な扱いを受けても仕方がないという意味が含まれていると解する説が今日では有力である。


と述べています。日本国憲法には「働かざる者食うべからず」の原理が書き込まれているというのであれば、それを「国家権力を制限して人権を保障する」ために存在する文書だと理解するのは無理があるように思えます。

社会権の規定

 『憲法 I』には、以下のようなとても参考になる解説があります。

一般に、権力と自由の関係は「権力からの自由」「権力への自由」「権力による自由」の三つに図式化しうる。権力からの自由は、権力を制限し権力が個人の自由の領域に不当に介入することを阻止しようとする。権力への自由は、個人が権力に参加し、究極的には自らが権力の主体となることの中に自由を見ようとする。権力による自由は、自由の物質的基礎を権力によって提供してもらうことを求める。


 なるほど。
 近代民主主義の成立過程において、当初はまず「権力からの自由」が問題となり、君主の権力を制限するための協約が結ばれていった。次に時代が下ると、次第に市民による政治参加、すなわち「権力への自由」の実現が問題となった。そして20世紀に入ると先進各国の福祉国家化が進み、国家が社会保障政策を通じて人々の社会権を担保する取り組み、すなわち「権力による自由」が問題となった。実際に各国の憲法は福祉国家化を反映した内容になっており、日本国憲法においても25条*1で生存権・社会権が保障されています。


 ここで「おい待てよ」と私は思うわけです。「権力による自由」などというものが憲法に規定してあるというのだから、やはり「憲法は国家権力を制限するためのものである」などという憲法観は射程が狭すぎるのではないかと。教科書では、その辺りは明確に説明されてはいませんでした。

憲法は授権規範である

 憲法は、「憲法制定権力」が、立法・行政・司法の各機関に対して権限を授ける「授権規範」としての側面を持つと、憲法学の教科書では解説されます。もともと「憲法制定権力」という概念が生まれたのも、シエイエスというフランス革命期の法学者が「憲法を制定する権力」と「憲法によって作られる権力」を区別したことが発端であるとのことです。


 それで、『憲法Ⅰ』には、「国民は憲法を制定することにより授権すると同時に制限するのである」と書いてあります。また、私が学部の1年の頃に一般教養の授業で読んだ『現代法学入門』(伊藤正己ほか、有斐閣)という教科書を久しぶりに見てみると、近代の憲法というのは「権力を根拠づける反面、人権によって権力を限界づけている」と説明されていました。
 これは考えてみれば当たり前の話なんですが、要するに憲法は「権力の源泉」としての役割も担っているのであって、「国家権力を縛る」というのはそれと同時に表れる一つの性質に過ぎないわけですよね。「憲法は、権力を根拠付けると同時に、権力に限界を与える」と言っておくほうが、「憲法は国家権力を制限するために存在する」というよりもバランスが取れた記述であるように思えます。

改正できる

 上述の3点に比べればそう強く言いたいわけではないのですが、憲法も結局、定められた手続きに従って改正することが可能ですよねってのも気になります。
 一応学説上は、どの条文をどのように変更することも許されているのではなく、改正できる範囲には限界があって、憲法の趣旨の根幹部分に対する変更は行えないというのが通説になっているようです。たとえば、国民主権から君主主権に変更するような改正は行えないはずである、と。ある一時の多数派が無茶なことを考えて憲法改正を試みても、ある程度以上は思い通りにはいかないのだよという話です。


 そのような改正限界説は、思想的には理解できるし非常に興味深い議論なんですが、「だったら憲法にそう書いておけよ」感がかなりありますね。日本国憲法の場合について言えば、ここからここまでしか改正を許しませんというようなことは書いてありません。書くのは簡単なのに、なぜ書いていないのかと疑問を持たざるを得ないわけです。
 形式的には、96条の改正手続きによれば何でも変更できるという説を排除することは難しいんじゃないでしょうかね。繰り返しますが、私も「改正には限界があることにしておくべき」という規範的な主張なら理解できます。しかし事実として憲法にはそう書かれてないんだよな〜ってのは気になります。


 そういえば先に述べたように、安倍首相は憲法96条に定められた改正手続そのものを改正しようとしてバッシングされたわけですが、この「改正手続きの改正」が可能か否かについても議論があるようです。たとえば「国民投票は不要!」とするような、実質的に別物の手続きに変えるような改正をしてしまうと、憲法制定権力が憲法の内容をコントロールする経路が絶たれるという事態を招き得るから、それは「背理」であって論理的に不可能という説が多数説らしい。この説は、考え方としてとても興味深いと思うですが、やはり「だったらそう書いとけよ」と……。

 また、改正限界説をとる場合、天皇の権限によって、明治憲法の改正として日本国憲法が誕生し、これによって天皇の主権が否定された(ことになっている)という話はどう説明するつもりなんですかね。8月「革命」説もけっこう根強く、革命だから説明は要らないということかもしれませんが。


 以上のような疑問を踏まえると、「立憲主義」として唱えられている憲法観は必要以上に「憲法」の意味を狭めているのではないかという気がします。現代における憲法の役割を理解する上では、広義の憲法、つまり「固有の意味の憲法」を考えておけばいいんじゃないのかなと個人的には感じます。要は「憲法とは、国家統治の基本ルールである」という理解でべつにいいんじゃないのかなと。「容易には改正できない、大雑把なルールを定めて、秩序だった世の中を作りましょう」ってだけの話でしょう。
 最近「立憲主義」を唱えている人たちは、安倍首相の改憲案等が気に入らないから唱えているわけですが、個々の条文が有益であるか有害であるかを直接議論すればいいのであって、「立憲主義とは〜」とか言って余計な限定を伴う憲法観を持ち出す意味はあまりないように思います。
 
 

結局「運用」にかかってる

 ついでにちょっと話がそれますが、別の論点についても書いておきます。憲法が「多数派の横暴」の抑止を含めて「国家権力を制限する」役割を担っているのだと理解し、立憲主義を唱えまくったとしても、多数派が本気で暴走すれば憲法の縛りなんて割と簡単に崩壊するんじゃないかということです。すごく極端な話をすると、改正限界説どころか明確に「改正が不可能」な憲法を制定したとしても、多数派が「今日からこの憲法はもう無視することにしてしまおう」と言い出したら、憲法は無効ですよね。革命です。
 憲法を「国家権力の横暴から市民を守ってくれる、崇高な存在」みたいに持ち上げたとしても、実際には憲法そのものは単に他の法律よりは改正のハードルが高いという程度の存在なのであって、本格的におかしな民主的権力が登場したら簡単に凌駕されてしまうんじゃないでしょうか。


 法哲学のような議論になるのかなと思うのですが、法に服従する習慣がないところでどんな法律を書いても意味がないということを考えると、憲法も所詮は、憲法それ自身によっては生み出すことも維持することもできない「服従の習慣」によって支えられており、その限りで効力を持つと言えるわけですよね。警察などの暴力装置が〜とかいうのも法秩序の実現手段の一つではあり、それしか無いと思っている人も多い気がしますが、実際のところ服従の「習慣」の力には及ばないと思います。
 立憲主義、というかもっと広く言って「法の支配」が健全な形で機能するためには、憲法に何が書いてあるかというのももちろん大事ではあるものの、根本的には(憲法を含む)法それ自体とは別に存在する、法に従い法を運用する日々の実践の積み重ねがけっこう大事だということになります。


 実際、先ほどの『憲法学読本』という教科書にも、次のようなことが書いてあります。

 国民主権論の名で追究されてきたのは、憲法制定という一回的な権力行使ではなく、日々の国政において、どのようにして統一的な国家意思を継続的に形成し実現すべきか、という息の長い問題だということができる。
 このような観点から、最近では憲法の下での政治を「デモクラシー」と呼び、デモクラシーの制度論・手続論に、国民主権論を解消する傾向が有力になってきた。この傾向では、主権的な『民意』とは、あくまで一定の制度・手続によって形成された政治プロセスが、デモクラシーと呼ぶにふさわしいだけの質を備えているかどうか、ということになる。(p.57)


 そういえば日本国憲法にも、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第十二条)というような規定がありますね。この憲法に書いてあることを守ろうと思ったらガッツがいるぜと、憲法自身が言ってるわけです。
 そういう「運用」の重要性を考えて、「憲法を定めておけばOKみたいな話ではないんだよな」という理解に至ると、憲法というものは「立憲主義」を連呼する護憲派の人たちが言ってるような崇高なものではなく、国民社会の統治の道具の一つぐらいに考えておけばいいんじゃないかという思いになります。

*1:13条も?

長時間労働の問題なのか?

 電通の社員が自殺に追い込まれたという事件が話題になっていますが、気になったのは、「長時間労働」の問題だと捉えているような記事が目につくことですね。


電通新入社員が自殺 広告業界に蔓延するクソ長時間労働の根深い実態を書いておく : おはよウサギ!
電通新入社員:「過労自殺」労基署認定…残業月105時間 - 毎日新聞
そろそろ電通あたりの広告代理店は「ブラック企業」であることを常識にしようよ。


 もちろん、連続20時間会社にいたことがあるとか、月100時間以上の残業というのは明らかに過重労働なのですが、それだけで自殺に追い込まれるものでしょうか。そもそも東大を卒業して電通に就職するような人が、暇な職場を想像していたとも思えないし。
 既にセクハラ・パワハラに該当するような発言もいろいろ報道されていて、そっちのほうが大事なんじゃないかと私には思えます(リンク)。新人に長時間労働を強いたという点以外でも、上司や同僚がいかにクソな人間であったかという問題です。こんな奴らと働いていたら、定時で上がっていても嫌になるってレベルのクズだったんじゃないでしょうか。
 もちろん私はその上司や同僚を私は知らないので、クソな人間であったという証拠はなく、立派な人間であったとしたら申し訳ないですが。
 
 

長時間労働には案外耐えられる

 なんでそんなことを思うかというと、ブラック企業批判が好きな人から文句を言われそうですが、長時間労働そのものは、案外耐えられるものだからです。
 一般論として言えば、月100時間程度の残業を数ヶ月連続でしているような人は業種を問わずザラにいます。広告代理店が特別なわけでもなんでもなく、コンサルやSEも長時間労働が当たり前ですし、何かと嫌われている「霞ヶ関の官僚」もかなり長時間働いてます。
 100時間というのはたしかにかなり多くて、私の職場だと管理者が責任を問われて良いレベルなのですが、かといって耐えられないほどの地獄かというとそうでもない。たとえば週1回休日出社して8時間×4週=32時間、あとは20営業日×3.4時間で100時間に達しますので、18時が定時だとして每日21時半頃には帰れるわけですから、まぁ数ヶ月なら耐えられる人も多いんじゃないでしょうか。もちろん個人によって事情は異なり、家庭があったりプライベートでやりたいことがあると辛いし、体力にも個人差はありますが。


 ちなみに私は入社2年目〜3年目に非常に忙しい仕事があって、ピーク時は180時間ぐらいの残業が2ヵ月続いたこともあります。每日終電までは働いて、帰れそうなら帰るし、帰れなそうだったらもうちょっと仕事して会社で寝るというスタイルでした。土日もこの2ヵ月間は全て出社でした。月曜の朝に出社して金曜の夜に帰宅したこともあります(そして土曜日も出社)。
 当時のチームには私より若い女性社員もいましたが、彼女も家に帰らずそこら辺のイスで仮眠を取っている時がありました。
 2ヵ月ぐらいなら200時間でもいけるわとか言われそうですが、このピークの2ヵ月以外も残業は多くて、20代の頃はなんだかんだで最低でも週1回ぐらいは徹夜や泊まり込みをする程度には長時間労働が常態化しておりました。
 
 

長時間労働になぜ耐えられるのか

 年間を通して毎週のように徹夜作業があるとか、ピーク時の残業180時間とかいう状況に私がなんで耐えられたのか振り返ってみると、一言でいえば「楽しかった」からです。
 私(を含むそのチーム)の場合、仕事の内容が面白かったわけではないんですが、売上につながる業務ではあり、「本社でここまでやっておけば現場から感謝される」的な意味のある仕事ではありました。そしてそれ以上に、当時のチームは上司も含めて「大学のサークル」みたいなノリで仕事していて、パワハラとかはもちろんないし、行動もけっこう自由で、楽しめる職場だったんですよね。
 一方、漫画家のアシスタントとかイラストレーターとかデザイナーとかも仕事がきついと言われますが、そういう人達は、好きでやってる仕事だから他の人より長時間労働に耐えられるっていう面はあるんでしょう。
 いずれにしても、やりがいや楽しさを感じられるかどうかで、長時間労働に対する耐性はかなり変わるわけです。私も、上司や同僚がクソみたいな奴だったら、休日出勤なんて耐えられないですね。


 ちなみに私の場合、休日出勤については残業代を請求してましたが、深夜までやったとしても8時間分にしてました。また、平日の深夜は23時ぐらいまでしか請求していません。これは私以外の人も概ねそうでした。パソコンの使用とかオフィスへの入退室は全部ログが取られているのですが、残業の実績が管理されるシステム上は、23時に帰ったことにしてたわけです。
 べつに上司から強要されたわけでもなく、みんな自然とそうしていました。深夜作業となると、途中でラーメンを食いに出かけたり、サウナに行ったり、「俺眠いからちょっと寝るわ。2時ぐらいに起こして」みたいなこともあったりするので、ずっと働いていたと申告することの罪悪感もあるのですが、それよりは、「俺たちはチームとして頑張ろうと思ってやっているのだから、外野から労働時間管理がどうのこうのとくだらない文句をつけられたくない」というマインドを上から下まで共有していたという感じですね。


 こんなマインドは、本当に不毛な仕事内容だったり、上司や同僚に嫌な奴がいたら維持できないでしょう。何より、「やらされている」という感覚でやっていたわけではなく、むしろ「好きで勝手にやっている」という感覚だったからこそ、可能になったのだと思います。
 私が仮眠を取っているときに、先輩が私の顔をビンタして「起きろ!」と叫んだ場面があったらしいのですが(私は熟睡してたので記憶がない)、職場での話だと「なんてブラックな……」と思われるでしょうけど、大学のサークルの話だとすればそうでもないでしょう。それが笑い話に出来る程度には、信頼関係の築かれた職場だったということです。
 
 

対策を間違えないように

 私はふつうの人より徹夜に強いという自覚があるし(寿命を縮めているとは思いますが)、職場に恵まれたおかげで長時間労働に耐えることができたのであって、それは他のチームメンバーでも同じです。
 しかしこれは稀な例なのかというと、残業月100時間に耐えられる程度に体力と環境に恵まれている人は、世の中にはけっこういるので、長時間労働の話というのは珍しくないわけです。いろんな職場の人が集まって、「うちはこんなにも大変な仕事があった」と「ブラック自慢」をしている場面もよくありますね。


 私は、条件が揃っていて必要なら長時間労働はすればいいと思うし、なくなりもしないと思います。「短時間で成果を出すほうがイケてるビジネスマンだ」みたいな信仰もありますが、多少残業したぐらいでは生産性がゼロやマイナスにはまずならないので、短期的な話としては、「あと1時間働けば、働かないよりは良いアウトプットになる」ことが多いわけです。(例えばエンジニアの場合で、「眠くてプログラムの書き間違いを多発して自分でも気付いていない」ような状態だと、生産性がマイナスということにもなりますが。)
 每日定時上がりで最高の成果を挙げているとかいう人は凄いと思いますが、それこそ恵まれてるんじゃないでしょうか。たいていの職場では、ある程度までは、残業すればその分アウトプットの量も質も向上するはずですし、そのことで満足感と残業代を得て幸せになる労働者もいるわけです。そういう人もいる限り、ある程度の長時間労働は無くしようがないでしょう。


 べつに長時間労働の素晴らしさを説きたいのではありません。減らせるもんなら減らせばいいと思います。私が言いたいのは、長時間労働が常態化していても病人や死人を出さずに上手くやってる職場が至るところにあるのだから、事件が起きるような職場には労働時間以外にも色々と問題があるのではないかということです。労働時間以外に重要なストレスの原因がたくさんあるのに、それらを改善せずに「労働時間の問題だ」というような言い方をしてしまったら不幸でしょう。


 従業員に長時間労働をさせるなら、上述のような、やりがいや信頼を感じられる条件を作り出さなければなりません。そして新入社員に月100時間の残業をさせる程度にやりがいを感じさせ、信頼関係を築くことができる上司や先輩は、世の中にはたくさんいて、そんなに特殊な能力ではないと思います。
 また、やりがいを感じさせることまではできなかったとしても、本人がやりがいを感じていないことを察知するのは難しいことではないでしょう。職場のやり方に合わない人は必ずいるものなので、結果的にやりがいを感じさせることができず相互の信頼関係もないのなら、長時間労働も強いてはいけません。たいていの職場では、そういう人を前線の社畜部隊と同列には扱わないような配慮が自然と行われているわけです。そうしないと、社畜たちも良心の呵責を感じますからね(良心をもった社畜ならば、の話ですが)。


 逆に言うと、自殺者を出すような職場の上司や同僚は、労働時間を縮められなかったという責任もあるでしょうが、それ以前に最低限の良識や良心を持たない人間である可能性があります。今回の電通の事件だと、信頼関係が築けていなかったことと、信頼関係が築けていない若手に社畜たちと同レベルの過重労働を強いたことに加え、セクハラ・パワハラも横行していたみたいなので、文字通り人間のクズどもだったんでしょう。
 電通の件にかぎらず一般論として言うのですが、上司や同僚がクソな奴だったせいで社員が自殺したのに、「労働時間が長かったから自殺した」みたいな捉え方をしてしまうと、対策を間違えるでしょう。「じゃあ残業が少なければそいつらのチームで楽しく働いていけたのか?」って問題です。
 過労の末の自殺者を出した上司に対して、「今後は部下の労務管理をしっかりやるように」という指導をすると、残業は減るかもしれませんが、ろくでもない奴と働いているのだから従業員の「やりがい」が増すわけではないです。労務管理はもちろん徹底すればいいんですが、悲劇を繰り返さないためには、他のチームメンバーもろともクビにするか左遷したほうが良いかもしれません。
 人間のクズと一緒に働くのは、長時間労働より辛いんですよ!
 
 

そうは言っても限界はある

 仕事にやりがいが感じられれば、ある程度の長時間労働には耐えられると思うのですが、そうは言っても限界はあると思います。「これを超えたら、やりがいもクソもない」っていうレベルはあるはず。
 自分の経験でも、あのピーク時の労働もあと2ヵ月ぐらいなら続けられた気がしますが、半年連続で休日が1日もないとかになってくるとさすがにギブアップすると思います。鬱になるというより、仕事を放り出して辞めると思いますが。
 徹夜作業も、週1回ぐらいならべつにそれが数年続いても(実際続いてましたが)余裕ですが、週3回だとさすがに嫌になるでしょうね。どっちかというと、精神面より身体にガタが来そうですが。


 内容的・体力的に辛い仕事であったとしても一時的には耐えられるものですが、重要なのは「これは一時的なものだ」と本人が理解していることだと思います。経理の担当が決算の直前に忙しいとか、IRの担当が株主総会前に忙しくなるとか、そういうのはどこの会社でもあると思うのですが、そういう季節的なもので「この2ヶ月を乗り切れば終わる」ことがわかっていれば、さほど辛くないように思います。季節的なものでなくても、たいていの辛い仕事は永続的ではないので、「そのうち終わる」と思ってやる分には頑張ることができます。
 逆に、同じ労働でもいつ終わるのか分からないと耐え難いわけですが、新人の頃は「この辛い仕事がいつまで続くのか分からない」っていう感覚で暗い気持ちになることがけっこうあると思います。


 上司や先輩は何年も働いているから、辛い時期があってもそれが「終わる」という経験を何度もしているし、最悪の場合の「終わらせ方」を知っていたりもします。しかし新人にはそれがありませんので、「逃げ出さない限り、今の辛さが永遠に続くのでは」みたいな気分になってしまうことはあると思います。
 そのせいで新人や若手社員については、過重労働に耐えられる「限界」も低めに見積もっておかないといけないと思うのですが、新人だからこそバシバシ働かせようというようなアホなことをやってる職場はけっこうあるかもしれません。
 私の職場に、「あいつはまだ徹夜の身体ができていない」みたいなことを言うベテランがいました。徹夜が状態化していることを示すヤバいセリフですが(笑)、鍛錬と淘汰を経た「選ばれし中堅・ベテラン」だけが長時間労働をすべきであるというのはある意味正しいような気もします。