The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

立憲主義へのちょっとした疑問:憲法は「国家権力を縛る」ためにあるのか?

「立憲主義」は流行語

 ここ数年で、「立憲主義」という言葉が突如として政治ニュースにおける頻出ワードになりました。もちろん「立憲主義」という言葉自体は私の中高時代の公民・歴史の教科書にも載っていたし、法学の基礎的な教科書にも載っているのでたいていの人が知っているはずです。しかし、もともと立憲主義というのは、17~18世紀の欧米で市民革命を経て憲法に基づく統治形態が樹立されたとか、日本でも19世紀に憲法を制定し議会を設立して近代国家の体裁を整えることが急がれたとかいうような歴史的背景を説明する文脈で登場する言葉です。現実の政治論議で「立憲主義」が論点になることなんてほとんどなく、ここ数年の「立憲主義」ブームはかなり唐突感があります。


 この唐突感は単なる私の印象というわけでもない。たとえば昨年出版された憲法学者・木村草太氏の『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)という本の中では、哲学者の國分功一郎氏がコラムを寄稿して、「ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが『立憲主義』という言葉です」と述べていました。またその証拠に、「憲法」というワードを含む朝日新聞の記事1000件中「立憲主義」をも含む記事の数を集計すると、グラフのように2013年から激増していることがわかります。


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 最近の、たとえばSEALDsのような運動家の発言をみていると妙に立憲主義慣れしてるというか、立憲主義を着こなしてるというか、なんか「護憲論者たるもの『立憲主義』を叫んでおくのが常識だよね」みたいなノリを感じるのですが、実際には護憲派でも「立憲主義」とか言い出したのは最近なんですよね。


 ところで、なんでこんなに唐突に「立憲主義」が盛んに唱えられるようになったか。國分氏は安倍首相の「私が最高責任者だ」発言(記事リンク)が発端だろうと言っているのですが、私が調べた感じでは、恐らく2013年に安倍首相が憲法96条の改正、つまり憲法改正要件の緩和を提案した時に、「それはさすがに立憲主義を根幹から覆すやり方なんじゃないの」というような批判が出たのがきっかけですね(記事リンク)。この96条改正問において「立憲主義に反している!」という安倍批判が始まり、その後の安保法制などの議論においても引き続き、流行語として「立憲主義」が用いられ続けているわけですね。
 
 

教科書の解説

 憲法学の教科書を何冊か読んだことがあるのですが(法学部ではないのでしっかり通読したわけではない)、立憲主義についてはだいたい似たような説明がされていました。
 憲法学の教科書では、最初のほうで「憲法」という概念にもいくつか種類があるということが説明されます。まず憲法というのは広義には「国家統治の根本的な規範」を指していて、この意味での憲法は「固有の意味の憲法」と呼ばれます。単に「基本ルール」って意味ですね。一方、狭義には「人権の保障と権力の分立を定め、国家権力を制限する内容を持つ最高法規」を憲法と呼ぶという用語法があり、この意味での憲法は「立憲的意味の憲法」とか「近代的意味の憲法」と呼ぶことになっています。


 歴史的経緯としては、立憲主義というのは、近代欧米の市民革命において、領主や市民階級が君主に対して「憲法に従った統治を行うこと」を要求し、君主の権力に制限を課していくという流れで登場したものです。フランス人権宣言に「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、 憲法をもつものでない」という条項がありますが、これが近代における憲法の本質を示すものとされており、この意味での憲法にしたがって国家の統治が行われるべきだという考え方を「立憲主義」というわけです。


 ついでに言うと、広義のであれ狭義のであれ、内容に着目して「国家統治の基本原則を定めたもの」として認識されるものを「実質的意味の憲法」と呼ぶ一方で、「◯◯国憲法」みたいな形で明文化された文書(いわゆる「憲法典」)のことは「形式的意味の憲法」と呼びます。「実質的意味の憲法」は、憲法典以外の規範を含むことがあります。イギリスの場合は「憲法典」が存在せず、マグナ・カルタのような歴史的文書や、議会法、王位継承法、人権法などの各種法令が総体として「実質的意味の憲法」を成すものとされているし、日本の場合でも、「実質的意味の憲法」には憲法典の他に、国会法や皇室典範等が含まれるとされる場合があるようです。
 
 

憲法は「国家権力を縛るためのもの」という説

 立憲主義に言及する人はたいてい、「憲法は国家権力を縛るために存在している」と言います。たとえば以下の記事。

憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある。
(2016年4月14日付 朝日新聞)


 これは、上述の分類で言う「立憲的意味の憲法」が標準的な憲法観になっているからですね。
 この憲法観に反対している人もいて、たとえば産経新聞に載ったコラムでは八木秀次氏が次のように主張してました。

 憲法を「国家権力を縛るためのもの」とする考えは、近代初期の「近代立憲主義」と呼ばれるもので、国家の役割を制限することで国民の自由・権利を保障していくという夜警国家、「小さな政府」時代の産物だ。しかし、その後、選挙権が拡大して国家が大衆の要求に応ずる必要が生じ、近代憲法の保障する人権が単に形式的な自由と平等を保障するにとどまり、真に人間らしい生活を保障する役割を果たしていないとの主張を社会主義思想が広めるに従って、国家の役割も憲法観も大きく変わっていった(長谷部恭男著『憲法』新世社、1996年参照)。

http://www.sankei.com/politics/news/140508/plt1405080021-n1.html


 この八木氏の批判には、少しおかしなところもあります。八木氏はこのコラムの中で、「憲法は『国家権力を縛るもの」で、「国民を縛るためのもの」ではない—この種の憲法観がここ数年、静かに広がっている」と言ってるのですが、昔から読まれている憲法学の教科書にもそう書いてあるわけなので、これはここ数年で急に唱えられるようになった憲法観というわけではなく、通説みたいなものです。


 また、「立憲的意味の憲法」を憲法観の中心に据え、国家権力の制限が憲法制定の主目的であると論じている憲法学の教科書であっても、「憲法は国民を縛るためのものではない」と主張しているのかというと微妙です。というのも、「昔と違って今は民主主義の世の中なので、国家権力も国民の多数派の意思に基づいているわけであり、むしろこの国民の多数派が暴走すること、つまりいわゆる『多数者の専制』のようなことが起きるのを防ぐことが大事なのだ」ということが、私が読んだ教科書にはちゃんと書いてあったからです。
 憲法学の教科書が「国家権力を縛る」という時、その「国家権力」には当然民主的なものも含まれています。多数派の横暴によって少数派の権利が蔑ろにされたり、多数派の支持を受けた者への全権委任のようなことが行われて事実上「国民主権」が失われるような事態に陥ることを避けるために、憲法によって「国民の多数の支持を受けたとしても、これ以上のことはできない」という枠をはめておくという話になっているわけです。だからある意味、憲法には「国民が自分で自分を縛る」という側面もあるということが説明されているわけですね。


 ただこれは「教科書」の場合の話であって、確かにジャーナリズムや世論のレベルで唱えられる「立憲主義」論は、八木氏が言うように、「国家権力 vs 国民」というような図式のみを念頭に置いていて、国民に対立するものとしての「国家権力」の制限のみを論じている場合が多いのかもしれません。
 
 

本当に憲法は「国家権力を縛るためのもの」なのか

 2014年に安倍首相が、野党からの「憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」との質問に対して、

考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う。


と答えたことがニュースになり、例えば朝日新聞は社説で「これには、とても同意することはできない」と批判していました。


 私も安倍首相の妙に未来志向な憲法観には違和感を覚えるのですが、「憲法は国家権力を縛るものだ」という意味での「立憲主義」を強く唱える論調も変なんじゃないかと思っています。というのも、また憲法学の教科書の話をすると、たしかに「憲法は国家権力を縛るためのもの」だと解説されている記述はあるのですが、他の箇所を読むとその憲法観にそぐわないと思われるような議論も書かれてあって、立憲主義というのはけっこうあやふやな理念なんじゃないかという気がしてくるからです。


 以下、憲法学の教科書に書いてあることのうち、いわゆる「立憲主義」と整合性あるんだろうかと疑問に思ってしまう点を列挙します。
 なお私は憲法学や法律学の専門家でも何でもないので、理解が間違っている可能性があります。また、これまでの憲法学者たちの専門的研究の積み重ねは尊重したいと思っているし、日本国憲法において人権が重要なテーマになっていることも理解しているので、べつに憲法学にケチを付けたいわけではないです。ただ、「立憲主義というのは、素人が教科書を読むといくつも疑問が浮かんでしまうような、分かりにくいコンセプトである」ぐらいのことは言える気がしています。
 
 

「立憲主義」との整合性が気になる点

 以下4点に分けて「立憲主義」の憲法観に関する疑問を書いておきます。

「国民の義務」の規定

 まず、日本国憲法には「国民の権利」の保障だけではなく、「国民の義務」も規定してあるじゃないかという話です。これは、いわゆる立憲主義に関して素人が疑問を抱く点としては「毎度おなじみ」的なもので、立憲主義派の人たちからすれば「またその話かよ」って感じでしょう。しかし、やはりこの点は不可解なんですよね。


 『憲法 I』(野中俊彦ほか、有斐閣)という教科書を読むと、国民の義務規定については、

国民の憲法上の義務を定めているのは、一二条の一般的義務規定、二六条(教育)、二七(勤労)、三〇(納税)の個別的義務規定であるが、それらは具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは立法による義務の設定の予告という程度の意味をもつにとどまっている。


とか、

日本国憲法の人権保障規定は、生来の人権を強く保障しようとするものであり、この点からみれば、国民の義務の強調には本来なじまない性質のものである。


とか、

国家のなかでの国民の義務は、(中略)法令の個別の定めによって具体化されるものであり、ことさら憲法の人権保障規定の中で規定することの意義は乏しいといわなければならない。


とか、言い訳みたいなことばかり書いてあります。要するに教科書としても「国民の義務」にはイヤイヤ言及しているような感じで、I巻とII巻を合わせると1000ページもある教科書なのに、国民の義務についての解説はたった5ページしかありませんw
 また、手元にある『憲法学読本 第2版』(安西文雄ほか、有斐閣)という教科書も見てみたところ、国民の義務の解説はまるごと省略されてました。
 そんなに重要性が低いのなら、なぜ憲法にわざわざ書いてあるのかと訊きたくなります。憲法に規定することの意義が乏しいなら、規定しなければよかったわけですよね。教科書のこの歯切れの悪い解説からは、「憲法は国家権力を縛るためのもの」という憲法観に縛られ過ぎて、「国民の義務」規定をどう扱ったら良いか頭を悩ませてしまっているという印象を受けてしまいますね。


 そもそも「国民に対する倫理的指針」としての意味を持つというのであれば、憲法を「国家権力を縛るためのもの」と狭く理解する必要はないように思います。少なくとも、「国家権力を縛るためのルールが書いてあると同時に、国民の倫理的指針も書いてある文書」だと言わなければならないですよね。
 また『憲法 I』は、「勤労の義務」規定については、

これを「社会国家の根本原理を定めたもの」、すなわち「働かざる者は、食うべからず」の原理とその根本精神を同じくすると解し、社会国家的給付に内在する当然の条件として、働く能力があり、その機会もあるのに、働く意欲をもたず、また実際に働かない者は、生存権の保障が及ばないなどの不利益な扱いを受けても仕方がないという意味が含まれていると解する説が今日では有力である。


と述べています。日本国憲法には「働かざる者食うべからず」の原理が書き込まれているというのであれば、それを「国家権力を制限して人権を保障する」ために存在する文書だと理解するのは無理があるように思えます。

社会権の規定

 『憲法 I』には、以下のようなとても参考になる解説があります。

一般に、権力と自由の関係は「権力からの自由」「権力への自由」「権力による自由」の三つに図式化しうる。権力からの自由は、権力を制限し権力が個人の自由の領域に不当に介入することを阻止しようとする。権力への自由は、個人が権力に参加し、究極的には自らが権力の主体となることの中に自由を見ようとする。権力による自由は、自由の物質的基礎を権力によって提供してもらうことを求める。


 なるほど。
 近代民主主義の成立過程において、当初はまず「権力からの自由」が問題となり、君主の権力を制限するための協約が結ばれていった。次に時代が下ると、次第に市民による政治参加、すなわち「権力への自由」の実現が問題となった。そして20世紀に入ると先進各国の福祉国家化が進み、国家が社会保障政策を通じて人々の社会権を担保する取り組み、すなわち「権力による自由」が問題となった。実際に各国の憲法は福祉国家化を反映した内容になっており、日本国憲法においても25条*1で生存権・社会権が保障されています。


 ここで「おい待てよ」と私は思うわけです。「権力による自由」などというものが憲法に規定してあるというのだから、やはり「憲法は国家権力を制限するためのものである」などという憲法観は射程が狭すぎるのではないかと。教科書では、その辺りは明確に説明されてはいませんでした。

憲法は授権規範である

 憲法は、「憲法制定権力」が、立法・行政・司法の各機関に対して権限を授ける「授権規範」としての側面を持つと、憲法学の教科書では解説されます。もともと「憲法制定権力」という概念が生まれたのも、シエイエスというフランス革命期の法学者が「憲法を制定する権力」と「憲法によって作られる権力」を区別したことが発端であるとのことです。


 それで、『憲法Ⅰ』には、「国民は憲法を制定することにより授権すると同時に制限するのである」と書いてあります。また、私が学部の1年の頃に一般教養の授業で読んだ『現代法学入門』(伊藤正己ほか、有斐閣)という教科書を久しぶりに見てみると、近代の憲法というのは「権力を根拠づける反面、人権によって権力を限界づけている」と説明されていました。
 これは考えてみれば当たり前の話なんですが、要するに憲法は「権力の源泉」としての役割も担っているのであって、「国家権力を縛る」というのはそれと同時に表れる一つの性質に過ぎないわけですよね。「憲法は、権力を根拠付けると同時に、権力に限界を与える」と言っておくほうが、「憲法は国家権力を制限するために存在する」というよりもバランスが取れた記述であるように思えます。

改正できる

 上述の3点に比べればそう強く言いたいわけではないのですが、憲法も結局、定められた手続きに従って改正することが可能ですよねってのも気になります。
 一応学説上は、どの条文をどのように変更することも許されているのではなく、改正できる範囲には限界があって、憲法の趣旨の根幹部分に対する変更は行えないというのが通説になっているようです。たとえば、国民主権から君主主権に変更するような改正は行えないはずである、と。ある一時の多数派が無茶なことを考えて憲法改正を試みても、ある程度以上は思い通りにはいかないのだよという話です。


 そのような改正限界説は、思想的には理解できるし非常に興味深い議論なんですが、「だったら憲法にそう書いておけよ」感がかなりありますね。日本国憲法の場合について言えば、ここからここまでしか改正を許しませんというようなことは書いてありません。書くのは簡単なのに、なぜ書いていないのかと疑問を持たざるを得ないわけです。
 形式的には、96条の改正手続きによれば何でも変更できるという説を排除することは難しいんじゃないでしょうかね。繰り返しますが、私も「改正には限界があることにしておくべき」という規範的な主張なら理解できます。しかし事実として憲法にはそう書かれてないんだよな〜ってのは気になります。


 そういえば先に述べたように、安倍首相は憲法96条に定められた改正手続そのものを改正しようとしてバッシングされたわけですが、この「改正手続きの改正」が可能か否かについても議論があるようです。たとえば「国民投票は不要!」とするような、実質的に別物の手続きに変えるような改正をしてしまうと、憲法制定権力が憲法の内容をコントロールする経路が絶たれるという事態を招き得るから、それは「背理」であって論理的に不可能という説が多数説らしい。この説は、考え方としてとても興味深いと思うですが、やはり「だったらそう書いとけよ」と……。

 また、改正限界説をとる場合、天皇の権限によって、明治憲法の改正として日本国憲法が誕生し、これによって天皇の主権が否定された(ことになっている)という話はどう説明するつもりなんですかね。8月「革命」説もけっこう根強く、革命だから説明は要らないということかもしれませんが。


 以上のような疑問を踏まえると、「立憲主義」として唱えられている憲法観は必要以上に「憲法」の意味を狭めているのではないかという気がします。現代における憲法の役割を理解する上では、広義の憲法、つまり「固有の意味の憲法」を考えておけばいいんじゃないのかなと個人的には感じます。要は「憲法とは、国家統治の基本ルールである」という理解でべつにいいんじゃないのかなと。「容易には改正できない、大雑把なルールを定めて、秩序だった世の中を作りましょう」ってだけの話でしょう。
 最近「立憲主義」を唱えている人たちは、安倍首相の改憲案等が気に入らないから唱えているわけですが、個々の条文が有益であるか有害であるかを直接議論すればいいのであって、「立憲主義とは〜」とか言って余計な限定を伴う憲法観を持ち出す意味はあまりないように思います。
 
 

結局「運用」にかかってる

 ついでにちょっと話がそれますが、別の論点についても書いておきます。憲法が「多数派の横暴」の抑止を含めて「国家権力を制限する」役割を担っているのだと理解し、立憲主義を唱えまくったとしても、多数派が本気で暴走すれば憲法の縛りなんて割と簡単に崩壊するんじゃないかということです。すごく極端な話をすると、改正限界説どころか明確に「改正が不可能」な憲法を制定したとしても、多数派が「今日からこの憲法はもう無視することにしてしまおう」と言い出したら、憲法は無効ですよね。革命です。
 憲法を「国家権力の横暴から市民を守ってくれる、崇高な存在」みたいに持ち上げたとしても、実際には憲法そのものは単に他の法律よりは改正のハードルが高いという程度の存在なのであって、本格的におかしな民主的権力が登場したら簡単に凌駕されてしまうんじゃないでしょうか。


 法哲学のような議論になるのかなと思うのですが、法に服従する習慣がないところでどんな法律を書いても意味がないということを考えると、憲法も所詮は、憲法それ自身によっては生み出すことも維持することもできない「服従の習慣」によって支えられており、その限りで効力を持つと言えるわけですよね。警察などの暴力装置が〜とかいうのも法秩序の実現手段の一つではあり、それしか無いと思っている人も多い気がしますが、実際のところ服従の「習慣」の力には及ばないと思います。
 立憲主義、というかもっと広く言って「法の支配」が健全な形で機能するためには、憲法に何が書いてあるかというのももちろん大事ではあるものの、根本的には(憲法を含む)法それ自体とは別に存在する、法に従い法を運用する日々の実践の積み重ねがけっこう大事だということになります。


 実際、先ほどの『憲法学読本』という教科書にも、次のようなことが書いてあります。

 国民主権論の名で追究されてきたのは、憲法制定という一回的な権力行使ではなく、日々の国政において、どのようにして統一的な国家意思を継続的に形成し実現すべきか、という息の長い問題だということができる。
 このような観点から、最近では憲法の下での政治を「デモクラシー」と呼び、デモクラシーの制度論・手続論に、国民主権論を解消する傾向が有力になってきた。この傾向では、主権的な『民意』とは、あくまで一定の制度・手続によって形成された政治プロセスが、デモクラシーと呼ぶにふさわしいだけの質を備えているかどうか、ということになる。(p.57)


 そういえば日本国憲法にも、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第十二条)というような規定がありますね。この憲法に書いてあることを守ろうと思ったらガッツがいるぜと、憲法自身が言ってるわけです。
 そういう「運用」の重要性を考えて、「憲法を定めておけばOKみたいな話ではないんだよな」という理解に至ると、憲法というものは「立憲主義」を連呼する護憲派の人たちが言ってるような崇高なものではなく、国民社会の統治の道具の一つぐらいに考えておけばいいんじゃないかという思いになります。

*1:13条も?

長時間労働の問題なのか?

 電通の社員が自殺に追い込まれたという事件が話題になっていますが、気になったのは、「長時間労働」の問題だと捉えているような記事が目につくことですね。


電通新入社員が自殺 広告業界に蔓延するクソ長時間労働の根深い実態を書いておく : おはよウサギ!
電通新入社員:「過労自殺」労基署認定…残業月105時間 - 毎日新聞
そろそろ電通あたりの広告代理店は「ブラック企業」であることを常識にしようよ。


 もちろん、連続20時間会社にいたことがあるとか、月100時間以上の残業というのは明らかに過重労働なのですが、それだけで自殺に追い込まれるものでしょうか。そもそも東大を卒業して電通に就職するような人が、暇な職場を想像していたとも思えないし。
 既にセクハラ・パワハラに該当するような発言もいろいろ報道されていて、そっちのほうが大事なんじゃないかと私には思えます(リンク)。新人に長時間労働を強いたという点以外でも、上司や同僚がいかにクソな人間であったかという問題です。こんな奴らと働いていたら、定時で上がっていても嫌になるってレベルのクズだったんじゃないでしょうか。
 もちろん私はその上司や同僚を私は知らないので、クソな人間であったという証拠はなく、立派な人間であったとしたら申し訳ないですが。
 
 

長時間労働には案外耐えられる

 なんでそんなことを思うかというと、ブラック企業批判が好きな人から文句を言われそうですが、長時間労働そのものは、案外耐えられるものだからです。
 一般論として言えば、月100時間程度の残業を数ヶ月連続でしているような人は業種を問わずザラにいます。広告代理店が特別なわけでもなんでもなく、コンサルやSEも長時間労働が当たり前ですし、何かと嫌われている「霞ヶ関の官僚」もかなり長時間働いてます。
 100時間というのはたしかにかなり多くて、私の職場だと管理者が責任を問われて良いレベルなのですが、かといって耐えられないほどの地獄かというとそうでもない。たとえば週1回休日出社して8時間×4週=32時間、あとは20営業日×3.4時間で100時間に達しますので、18時が定時だとして每日21時半頃には帰れるわけですから、まぁ数ヶ月なら耐えられる人も多いんじゃないでしょうか。もちろん個人によって事情は異なり、家庭があったりプライベートでやりたいことがあると辛いし、体力にも個人差はありますが。


 ちなみに私は入社2年目〜3年目に非常に忙しい仕事があって、ピーク時は180時間ぐらいの残業が2ヵ月続いたこともあります。每日終電までは働いて、帰れそうなら帰るし、帰れなそうだったらもうちょっと仕事して会社で寝るというスタイルでした。土日もこの2ヵ月間は全て出社でした。月曜の朝に出社して金曜の夜に帰宅したこともあります(そして土曜日も出社)。
 当時のチームには私より若い女性社員もいましたが、彼女も家に帰らずそこら辺のイスで仮眠を取っている時がありました。
 2ヵ月ぐらいなら200時間でもいけるわとか言われそうですが、このピークの2ヵ月以外も残業は多くて、20代の頃はなんだかんだで最低でも週1回ぐらいは徹夜や泊まり込みをする程度には長時間労働が常態化しておりました。
 
 

長時間労働になぜ耐えられるのか

 年間を通して毎週のように徹夜作業があるとか、ピーク時の残業180時間とかいう状況に私がなんで耐えられたのか振り返ってみると、一言でいえば「楽しかった」からです。
 私(を含むそのチーム)の場合、仕事の内容が面白かったわけではないんですが、売上につながる業務ではあり、「本社でここまでやっておけば現場から感謝される」的な意味のある仕事ではありました。そしてそれ以上に、当時のチームは上司も含めて「大学のサークル」みたいなノリで仕事していて、パワハラとかはもちろんないし、行動もけっこう自由で、楽しめる職場だったんですよね。
 一方、漫画家のアシスタントとかイラストレーターとかデザイナーとかも仕事がきついと言われますが、そういう人達は、好きでやってる仕事だから他の人より長時間労働に耐えられるっていう面はあるんでしょう。
 いずれにしても、やりがいや楽しさを感じられるかどうかで、長時間労働に対する耐性はかなり変わるわけです。私も、上司や同僚がクソみたいな奴だったら、休日出勤なんて耐えられないですね。


 ちなみに私の場合、休日出勤については残業代を請求してましたが、深夜までやったとしても8時間分にしてました。また、平日の深夜は23時ぐらいまでしか請求していません。これは私以外の人も概ねそうでした。パソコンの使用とかオフィスへの入退室は全部ログが取られているのですが、残業の実績が管理されるシステム上は、23時に帰ったことにしてたわけです。
 べつに上司から強要されたわけでもなく、みんな自然とそうしていました。深夜作業となると、途中でラーメンを食いに出かけたり、サウナに行ったり、「俺眠いからちょっと寝るわ。2時ぐらいに起こして」みたいなこともあったりするので、ずっと働いていたと申告することの罪悪感もあるのですが、それよりは、「俺たちはチームとして頑張ろうと思ってやっているのだから、外野から労働時間管理がどうのこうのとくだらない文句をつけられたくない」というマインドを上から下まで共有していたという感じですね。


 こんなマインドは、本当に不毛な仕事内容だったり、上司や同僚に嫌な奴がいたら維持できないでしょう。何より、「やらされている」という感覚でやっていたわけではなく、むしろ「好きで勝手にやっている」という感覚だったからこそ、可能になったのだと思います。
 私が仮眠を取っているときに、先輩が私の顔をビンタして「起きろ!」と叫んだ場面があったらしいのですが(私は熟睡してたので記憶がない)、職場での話だと「なんてブラックな……」と思われるでしょうけど、大学のサークルの話だとすればそうでもないでしょう。それが笑い話に出来る程度には、信頼関係の築かれた職場だったということです。
 
 

対策を間違えないように

 私はふつうの人より徹夜に強いという自覚があるし(寿命を縮めているとは思いますが)、職場に恵まれたおかげで長時間労働に耐えることができたのであって、それは他のチームメンバーでも同じです。
 しかしこれは稀な例なのかというと、残業月100時間に耐えられる程度に体力と環境に恵まれている人は、世の中にはけっこういるので、長時間労働の話というのは珍しくないわけです。いろんな職場の人が集まって、「うちはこんなにも大変な仕事があった」と「ブラック自慢」をしている場面もよくありますね。


 私は、条件が揃っていて必要なら長時間労働はすればいいと思うし、なくなりもしないと思います。「短時間で成果を出すほうがイケてるビジネスマンだ」みたいな信仰もありますが、多少残業したぐらいでは生産性がゼロやマイナスにはまずならないので、短期的な話としては、「あと1時間働けば、働かないよりは良いアウトプットになる」ことが多いわけです。(例えばエンジニアの場合で、「眠くてプログラムの書き間違いを多発して自分でも気付いていない」ような状態だと、生産性がマイナスということにもなりますが。)
 每日定時上がりで最高の成果を挙げているとかいう人は凄いと思いますが、それこそ恵まれてるんじゃないでしょうか。たいていの職場では、ある程度までは、残業すればその分アウトプットの量も質も向上するはずですし、そのことで満足感と残業代を得て幸せになる労働者もいるわけです。そういう人もいる限り、ある程度の長時間労働は無くしようがないでしょう。


 べつに長時間労働の素晴らしさを説きたいのではありません。減らせるもんなら減らせばいいと思います。私が言いたいのは、長時間労働が常態化していても病人や死人を出さずに上手くやってる職場が至るところにあるのだから、事件が起きるような職場には労働時間以外にも色々と問題があるのではないかということです。労働時間以外に重要なストレスの原因がたくさんあるのに、それらを改善せずに「労働時間の問題だ」というような言い方をしてしまったら不幸でしょう。


 従業員に長時間労働をさせるなら、上述のような、やりがいや信頼を感じられる条件を作り出さなければなりません。そして新入社員に月100時間の残業をさせる程度にやりがいを感じさせ、信頼関係を築くことができる上司や先輩は、世の中にはたくさんいて、そんなに特殊な能力ではないと思います。
 また、やりがいを感じさせることまではできなかったとしても、本人がやりがいを感じていないことを察知するのは難しいことではないでしょう。職場のやり方に合わない人は必ずいるものなので、結果的にやりがいを感じさせることができず相互の信頼関係もないのなら、長時間労働も強いてはいけません。たいていの職場では、そういう人を前線の社畜部隊と同列には扱わないような配慮が自然と行われているわけです。そうしないと、社畜たちも良心の呵責を感じますからね(良心をもった社畜ならば、の話ですが)。


 逆に言うと、自殺者を出すような職場の上司や同僚は、労働時間を縮められなかったという責任もあるでしょうが、それ以前に最低限の良識や良心を持たない人間である可能性があります。今回の電通の事件だと、信頼関係が築けていなかったことと、信頼関係が築けていない若手に社畜たちと同レベルの過重労働を強いたことに加え、セクハラ・パワハラも横行していたみたいなので、文字通り人間のクズどもだったんでしょう。
 電通の件にかぎらず一般論として言うのですが、上司や同僚がクソな奴だったせいで社員が自殺したのに、「労働時間が長かったから自殺した」みたいな捉え方をしてしまうと、対策を間違えるでしょう。「じゃあ残業が少なければそいつらのチームで楽しく働いていけたのか?」って問題です。
 過労の末の自殺者を出した上司に対して、「今後は部下の労務管理をしっかりやるように」という指導をすると、残業は減るかもしれませんが、ろくでもない奴と働いているのだから従業員の「やりがい」が増すわけではないです。労務管理はもちろん徹底すればいいんですが、悲劇を繰り返さないためには、他のチームメンバーもろともクビにするか左遷したほうが良いかもしれません。
 人間のクズと一緒に働くのは、長時間労働より辛いんですよ!
 
 

そうは言っても限界はある

 仕事にやりがいが感じられれば、ある程度の長時間労働には耐えられると思うのですが、そうは言っても限界はあると思います。「これを超えたら、やりがいもクソもない」っていうレベルはあるはず。
 自分の経験でも、あのピーク時の労働もあと2ヵ月ぐらいなら続けられた気がしますが、半年連続で休日が1日もないとかになってくるとさすがにギブアップすると思います。鬱になるというより、仕事を放り出して辞めると思いますが。
 徹夜作業も、週1回ぐらいならべつにそれが数年続いても(実際続いてましたが)余裕ですが、週3回だとさすがに嫌になるでしょうね。どっちかというと、精神面より身体にガタが来そうですが。


 内容的・体力的に辛い仕事であったとしても一時的には耐えられるものですが、重要なのは「これは一時的なものだ」と本人が理解していることだと思います。経理の担当が決算の直前に忙しいとか、IRの担当が株主総会前に忙しくなるとか、そういうのはどこの会社でもあると思うのですが、そういう季節的なもので「この2ヶ月を乗り切れば終わる」ことがわかっていれば、さほど辛くないように思います。季節的なものでなくても、たいていの辛い仕事は永続的ではないので、「そのうち終わる」と思ってやる分には頑張ることができます。
 逆に、同じ労働でもいつ終わるのか分からないと耐え難いわけですが、新人の頃は「この辛い仕事がいつまで続くのか分からない」っていう感覚で暗い気持ちになることがけっこうあると思います。


 上司や先輩は何年も働いているから、辛い時期があってもそれが「終わる」という経験を何度もしているし、最悪の場合の「終わらせ方」を知っていたりもします。しかし新人にはそれがありませんので、「逃げ出さない限り、今の辛さが永遠に続くのでは」みたいな気分になってしまうことはあると思います。
 そのせいで新人や若手社員については、過重労働に耐えられる「限界」も低めに見積もっておかないといけないと思うのですが、新人だからこそバシバシ働かせようというようなアホなことをやってる職場はけっこうあるかもしれません。
 私の職場に、「あいつはまだ徹夜の身体ができていない」みたいなことを言うベテランがいました。徹夜が状態化していることを示すヤバいセリフですが(笑)、鍛錬と淘汰を経た「選ばれし中堅・ベテラン」だけが長時間労働をすべきであるというのはある意味正しいような気もします。

長谷川豊氏の炎上記事は、事実認識や言い方だけでなく“論理展開”も変なのでは?

炎上して当然

 長谷川豊氏が人工透析患者を罵った例の炎上記事は、

  • 人工透析患者の大半が「自業自得」であると断定したこと
  • だから扶助は必要なく自己負担で治療せよと「自己責任論」を振りかざしたこと
  • それができないなら「殺せ」と不穏当な言葉で病人を罵ったこと


 などが多くの人の癇に障り、騒ぎになりました。それで長谷川氏は、
 「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」
 というタイトルを
 「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」
 に変更したりしたみたいですが、結局テレビ番組を降板させられるまでに至った(記事リンク)そうですね。


 1つ目の「自業自得」論については、長谷川氏がいうほど「自業自得」な患者の割合は多くないのではないかという反論があり(記事リンク)、2つ目の自己責任論については「そうは言ってもやはり病人は助けにゃならんのだよ」という反論があり(記事リンク)、3つ目の「殺せ」については長谷川氏の人間性に大きな問題があるとして多くの人が憤ったわけです。
 ついでに、長谷川氏のブログ記事には、人工透析患者のブログからの無断コピペがあったことが指摘され(記事リンク)、長谷川氏は

「このブログは炎上することが分かっているので、僕に協力していると捉えられたら、当然相手にも攻撃が絶対行く。そのため使わせていただくことを断りたく連絡したのですが、連絡がつかなかった。連絡がつかないのに名前を勝手に引用して迷惑をかけてもしょうがないし、本記の中でそれほど大事なところでもなかったので、いわゆる部分引用に。単なるコピー&ペーストではなく、改行をしたりして『自分の著作物』という形にした」
 
(3/4) 長谷川豊氏、「人工透析」ブログの「真意」語る 全腎協の謝罪要求は「断固拒否」 : J-CASTニュース

という果てしなく意味不明な言い訳をしておりました。


 まぁ恐らく大半の人は、3つ目の「言い方」や「人間性」の問題を重く見て、「こんなひどい奴は人前に出てこないで欲しい」と思って叩いていたんでしょう。テレビ番組で共演者から「言い方言い方!」と注意されたらしいし(記事リンク)、長谷川氏本人は「拡散してもらいたくて『殺せ』と書いたが、これはミスだった」と言い訳しているし(記事リンク)、「興味を引くためなら何でも言って良いわけないだろ」という冷静なツッコミもあって(記事リンク)、全体としては「言い方がひどい」という問題になっているわけです。テレビ大阪による降板理由も「行きすぎた表現があり、多くの人に著しく不快感を与えた」ですしね(記事リンク)。
 「殺せ」とかいう言い方がひどいのはもちろんだし、炎上してもなかなかそれを取り消さなかったところをみると、以前紹介した「良心を持たない人々」(以前のエントリ)の趣があり、人間性に疑いが持たれて炎上するのは当然でしょう。
 
 

人間性の問題は措いておいて・・・

 しかし「長谷川豊はひでぇ奴だ」という人間性に関する批判は飽きるほど出ているので、ここでは長谷川氏が言ってることの論理構成上の問題を検討しておこうと思います。
 改めてまとめると、長谷川氏が言ってるのは、


① ほとんどの人工透析患者は「不摂生」が原因となって重病を患うに至っている。
② だから、人工透析を受けているのは「自業自得」である。
③ だから、保険料なんか充ててやらずに「自己責任」で治療させるべきである。


 ということです。
 ①の事実認識がそもそも間違ってるのではないかとの指摘もあったわけですが、仮にこれが正しかったとして、①⇒②や②⇒③の流れは必然的に成り立つのでしょうか?
 恐らく「成り立つ」と考える人が多いのではないかと思います。だからこそ批判の大半が、「殺せ」という言動の不穏当さや、①の事実認識についての指摘に集中していたんじゃないでしょうか。しかしここでは、これらの論理展開が成り立たないかもしれないということを考えてみたいと思います。

「自業自得」であることを示すのは意外に難しい

 長谷川氏は例のブログ記事の注釈で、

※注:本コラムは記事内にもありますように「先天的な遺伝的理由」で人工透析をしている患者さんを罵倒するものでは全くありません。誤解無きようにお願い申し上げます。

 と言っています。長谷川理論では、遺伝が関係していれば「罵倒」の対象から外してもらえるらしいです。
 一見、これ自体は真っ当なことを言っているように思えますが、「遺伝ならOK」という基準はじつはあまり筋が良いとは言えず、強力な論理を築けません。


 たとえばfujiponさんは、遺伝病を発症するような直接的な影響の他にも、遺伝の間接的な影響があることを指摘しています。どういうことかというと、「糖尿病のなりやすさ」に関して遺伝的(先天的)に差異があるので、同じ程度に摂生(不摂生)していても、病気を防ぐ(促す)効果があったりなかったりするというわけです(記事リンク)。
 糖尿病に比較的なりやすい体質であるという意味では先天的だが、一応、完璧な摂生をすれば糖尿病の発症が防げるという意味では後天的な努力にもよるというケースがあるということです。これは、長谷川理論ではどう扱われるのでしょうか。「この人は25%ぐらいが遺伝のせいで、あとの75%が本人の努力だから、25%は保険で賄ってあげるよ」とか長谷川氏が判断してくれるのでしょうか。


 また、上記のfujiponさんの話を読んでて思ったのですが、別環境で育った一卵性双生児についての研究例がよく取り上げられるように、「性格」についてもけっこう遺伝によって生得的に決まる部分があるということがどんどん明らかになっているわけですよね。このことを考えると、さらに「自業自得」論を主張するのが難しくなります。
 性格が生得的にある程度決まっているということは、例えば「摂生の努力ができるタイプかどうか」も最初から決まっているのかも知れず、だとすれば「自業自得」と言われたって自分ではどうしようもないのだという話になります(笑)
 自分に原因があるのは確かですが、その原因は先天的に与えられた性格なので、それを責めるのであれば、遺伝的に身体が弱い人についても「自業自得だ」として非難しなければならなくなります。


 性格や知能が遺伝の影響を受けるという説は「差別を助長する」として、その研究自体が暴力的に妨害されてきた歴史があり、心は「空白の石版」であると考える人も多いようですが、最近は心の中身も生得的にある程度決まっているという証拠がたくさん集まってきているようです(参考文献)。
 また、「生まれか育ちか」論争とも呼ばれるように、性格や人格が「遺伝的にかなり決まる」という説に対抗するのは、「環境によって決まる」という説です。しかしそっちの説を取ったところで、環境により影響されるというのであれば、それもやはり「本人のせい」ではないということになります。


 性格遺伝説を持ち出すとけっこう屁理屈度が高い話になってしまい、半分冗談のようにも聞こえるでしょうし、私も自分の責任逃れの言い訳に使おうとは思いません(笑)
 しかし実際問題として、遺伝の影響は次々に明らかにされているし、環境の影響があることを疑う人はいないので、これらを考慮に入れると「自業自得」論を主張するのは簡単ではなくなります。「遺伝的に決まっている性格」と「環境の影響で形成された性格」を除いたら何が残るのかと冷静に考えてみると、案外「お前が悪い!」と非難したくなるようなありありとした主体は残っていないと言えるのです。
 「遺伝の影響がどの程度か」「環境の影響がどの程度か」は個別に議論されるとして、少なくとも「遺伝ならOK」というような単純な基準は、長谷川氏が「罵倒」すべき対象を選別する上では機能しないことはわかります。
 これは、実はけっこう哲学的にも難しいテーマだと思います。「自分のせい」っていうときの「自分」ってどこからどこまでを指すんですかね?そして、身体が弱いと助けてもらえるのに、心が弱いと罵られるのはなんでなんですかね?
 
 

「自己責任」論は合理的なのか

 次に、こっちのほうが本題ですが、不摂生はやはり本人のせいであり自業自得なのだと仮に理解できたとして、治療費を全部自己負担にさせるべきだという主張は導き出せるのでしょうか。
 規範的な議論においては、何を究極の目的に据えるかを慎重に考えないといけないですが、究極を考えるのは難しいのでひとまず「不摂生により人工透析に至る人の数を減らすこと」が目標だとします。その場合、議論すべきなのは間違いなく、「どうやったら人は摂生してくれるのか」です。
 すでに人工透析に至っている人は今さら摂生してくれてもどうにもならないかも知れませんが、長谷川氏も将来の話をしているので、明らかに「今はまだ元気な人に、いかに摂生させるか」が最大のテーマになるはずです。


 で、人々に摂生してもらうために何をすればいいのかと考えると、その手段は多様であり人にもよるので、単純な議論では済まないことが誰でも分かると思います。長谷川氏は「保険の対象外にしろ」としか言ってないのですが、であれば長谷川氏は少なくとも、それによって人々が摂生してくれるようになるのだということを論証なり実証なりする必要があります。
 行動経済学とか心理学で色々研究が蓄積されていると思いますが、自己負担の引き上げが摂生インセンティブとして効果を持つ場合はもちろんあるでしょう。しかし治療費を自己負担にしたところで、長谷川氏が例に挙げているモンスター患者みたいな素質をもった若者が、「年をとってから人工透析になると保険が適用されず医療費がかさむから、今日酒を呑むのをやめよう」と合理的に行動してくれるかというと怪しいですよね。あるいは逆に、あるブログ記事(リンク)に書かれてましたが、「人工透析になっても保険で賄われるから、ガンガン呑みまくろう」と考えてる人もべつにいないでしょう。
 不摂生による健康リスクは他にも色々あるわけだし、そもそも長期的なリスクに鈍感だからこそ不摂生をしてるわけですよね。ペナルティは重要なインセンティブですが、少なくとも酒を飲んだりするときにすぐ与えるとかでないと意味ないと思います。


 子どもに宿題をやらせる時なんかを考えると分かりますが、人から最大限のモチベーションを引き出そうと思ったら、「これをやらなかったらこんな罰がある」みたいなムチによる方法以外に、いろんな手段を駆使する必要があります。また、モチベーション(精神力)に頼るのではなく、環境をうまくデザインしてやれば嫌でも摂生せざるをえないような仕掛けを作れるかもしれません。
 今その具体論を議論したいのではありません。私がここで確認しておきたいのは、「不摂生を最小化するような制度や環境の設計」を我々は考えるべきであり、それは色々なものがあり得るはずなのに、長谷川氏の記事には不摂生抑制の手段をあれこれ比較検討した形跡がないということです。あの「全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」は、「不摂生を抑制する効果的な制度設計」として提案しているというより、単に「嫌いな奴らへの報復」を叫んでいるだけのように見えます。
 ここが、長谷川氏の議論で一番変なところだと私は思います。
 
 

まとめ

 以上見てきたように、人に責任があるかどうかというのは一筋縄でいくテーマではなく、「自業自得」を主張するのは案外難しいです。私はべつに、「自己責任」という概念や、それを重視する感情を捨て去るべきだと思っているわけではないし、「責任」の観念が法律を始めとする社会のルールの根底に流れているのは事実であると思います。しかし、よく考えもせずに声高に叫ぶべきものでもないと考えます。責任とはなんぞやとか、それを負う主体とはなんぞやみたいな哲学的な考察を経ないと、「自業自得」が何を意味するかも実はよくわからないのです。
 だから、哲学的な思索になど関心がない多くの人々(長谷川氏を含む)が議論すべきなのは、よく説明できもしない不摂生の「責任」とやらを追及することではなく、「どのように制度や環境をデザインすれば自分や他人が摂生できるか」だと思います。そしてそれは、少し考えれば、「自己負担にしろ!」と叫んでいれば済むようなものではないことが分かるはずです。


 長谷川氏の炎上記事は、「殺せ」などの不穏当な物言いに問題があったことは間違いないし、事実認識も誤っていたのかもしれませんが、それに加えて「不摂生抑制の手段の検討」になっていないことによって、単なる罵倒としか理解できない代物になっています。長谷川氏は後続のエントリで、「ほらこんなにも自業自得な患者がいるんだよ」と追加情報を示してますが(記事リンク)、それは意味がないんですよね。不摂生抑制の手段を多面的に検討せず不摂生の例示ばかりするということは、要するにその人たちを罵りたいだけなんでしょってことです。


 私は基本的に「叩かれている側」を応援したくなる性格なのですが、今回の件で長谷川氏を応援したいという気持ちには全くなりませんでした。で、「人間的にひどい」みたいなことは当たり前すぎて書く気になれなかったのですが、理屈の流れは一応確認しておきたかったので、整理のためにエントリを起こしました。
 
 

「土浦全国花火競技大会」を観覧する人のための攻略法

土浦花火大会の観覧は大変

今週土曜日(10/1)に、土浦全国花火競技大会がありますね。
今年は福島の会津若松市でも競技会があるようですが、伝統的に、花火師の競技会としては、秋田の大曲のものと、この茨城県土浦市のものが有名です。
競技会つっても、客からすれば要するに花火大会の観覧なのですが、職人が技術を競うものなので極めて多様かつ派手な作品が見られて面白いです。マンガのキャラクターの形に見える花火とかもたくさん上がります。


この花火大会の日はめちゃめちゃ混雑して、周辺の路上も椅子やシートで埋まりますので、いつ出かけてどこで観覧していつ撤収するのかという計画性が要求されます。間違っても「2時間前ぐらいに着けるように、クルマで出発して、駐車場は適当に探そう」なんて甘い考えで臨んではいけません。
なにしろ、市の人口が14万人しかいないのに、その日は駅周辺の花火会場に70~80万人もの観覧客が集まるわけです。普段から人の多いところではないので、色々なものがパンクするわけです。(といっても長年やっているイベントなので、周辺地域が一丸となって何とか回しており、感心します。)


私は学生時代、土浦市の隣のつくば市のファミレスでバイトしてましたが、20:30頃に花火大会が終わると21:00頃から混み始めて、一瞬たりとも休む暇がないぐらいの勢いで24時ぐらいまで回転しまくり、1年で最も売り上げの立つ日でした。飲食店で働いたことがある人は、「ランチ」のピークの最も強烈なやつが3時間ぐらい続く感じと思ってください。普段の2倍ぐらいのスタッフを配置し、かつ「土浦花火の日のシフト」経験者が必ず何名か入っていないと絶対に回らないオペレーションです。
しかもこれ、花火会場から10kmぐらい離れた場所の店での話ですからねw
そのぐらい混むイベントだということです。


結論から言うと、何回も行かないと勝手が分からないものなので、どこで見るか迷っているうちに始まってしまい、結局見づらい場所で見るハメになるという人も多発すると思います。
一応このエントリでは、隣のつくば市に13年間ぐらい住んでいる者として、最近何年かの参加経験から「私が今年も行くならこうする」っていう攻略法を書いておきます。
私自身はお祭り騒ぎが好きなわけではないので、最近は誰かに誘われるとか誰かを案内するとかじゃない限り行かないし、今年は当日用事がありそうなのですが・・・。


なお、私も自分の個人的な経験だけで書いており、これがベストな選択というわけではないと思います。おそらく、何十通りもある攻略パターンのうち1つを紹介しているという感じです。
なので他の情報もググるか、地元民に聞いてください。とにかく調べて、計画的に参加することです。私がググった感じだと、そんなに使える情報はなかったかなぁという印象ですが。

交通アクセスについて

土浦花火競技会の攻略法の9割は、交通手段です。とにかく混むし、みんな普段来ないところに来るから、勝手が分からないと思うんですよね。


まず、現地の状況に通じている人じゃない限り、クルマで会場付近まで行くのは諦めたほうがいいです。知り合いの駐車場が借りられるとかなら別ですが(それでも渋滞をどう抜けるかという問題はある)、停める場所がまず見つかりません。
だいたい当日の昼ぐらいから周辺地域の道路が混み始めて、開始直前になると近寄ることもできませんし、封鎖されている道路もあるのでナビもあてになりません。
根性で昼ぐらいに接近して、どこかに停めることができたとしても、帰りがまた猛烈に混むのでしばらく動けなくなります。もちろん地元の住民であればここの道は通れる等の知見があるのですが、外部の人にはリスクが大きすぎます。


基本は、電車で行くことです。常磐線の土浦駅を使う人が多いと思います。
常磐線は花火用の臨時便が何本も出ていますが、夕方以降はどれも超満員だと思ってください。パンパンなので、途中の駅でドアが開いても1人も乗れないみたいなことが多発するレベルです。
ちなみに私は、土浦から2駅隣のひたち野うしく駅にクルマを停めて、電車で向かうのがいつものパターンです。昔はひたち野うしく駅周辺に個人経営みたいな駐車場がたくさんあって、夕方に行っても普通に停めることができたのですが、近年再開発が進んでいて駐車場が減りました。
そのかわり、ひたち野うしく駅前の西友の駐車場に停めることができます。無断で止めるのではなく、花火客向けの料金がちゃんと設定されています(今年も駐車可能であることは、店に電話して確認しました)。けっこう余裕があり、去年は16:30ぐらいに行きましたが普通に停めれました。


で、ひたち野うしく駅から乗るんですが、来る電車が既に超満員なので、すぐに乗れるとは限らず、2~3本見送ることが多い感じですね。そして土浦駅で降りてからがまた大変で、ホームも2階の改札も人の海なのでなかなか動けず、電車を降りてから駅を出るまでに(測ったわけではありませんが)15分~20分ぐらいは人ごみに揉まれるんじゃないですかね。
子どもやお年寄がいる場合は、満員電車でただでさえ疲れているので、電車を降りたらホームの隅に観覧用の椅子を展開して一時休憩するのがお勧めですw(そんな人はあまりいませんが、ほんと疲れるので。)


なお、常磐線よりつくばエクスプレスで行きたいという人も多いと思われ、つくば駅から土浦までのバスも出てるはずですが、これはどうなのかな。花火当日に乗ったことが無いけど、当日の道路の混雑を考えたら、けっこう到達に時間がかかってるんじゃないですかね。

観覧場所の確保

駅から出たら、まともに観覧できるところまで10~20分ぐらい歩くと思ってください。駅前から観覧エリアの中心部までシャトルバスが出ていますが、待つのも面倒なので歩いていく人が多いんじゃないかと思います。
みんな移動しているので、迷うことはありませんが、どの地区で観覧するかによって行先は分かれますので、事前に計画したほうがいいですね。


ちなみに場所取りで何時間も待ちたくない人向けに私が個人的にお勧めな観覧場所は、下図のとおり川の南側の芝生です。歩いて移動します。


f:id:midnightseminar:20160927123935j:plain


多くの人は、打ち上げ場所の北~北西~東の道路及び川岸に集中しているイメージで、対岸側がわりと空いてる印象です。
まぁ、もっと近くで綺麗に見える場所もあるんですが、早く行かないと良い場所が取れないんですよね。私はせいぜい1時間とかしか待ちたくないので、この場所で十分です。ここだと人ごみにならないので、かなり直前に行っても椅子やシートを自由に広げることができますし、ちょっと遠いものの十分綺麗に見えます。簡易トイレもありますし。


逆にいうと、(桟敷席を除く)ベストポジションでどうしても見たいとかじゃない限り、昼から場所を取るような必要はないということです。開始1~2時間前が到着人数のピークだと思いますが、そのタイミングでもそこそこ観覧できるし、3時間前ぐらいに行けば少し余裕があります。


なお、私が川岸をお勧めするのは、市街地(たとえば打ち上げ場所のすぐ南のイオンなんかも観覧スポットと言われる)だと地図で見るよりも自由度が低いからです。すでに人がたくさんいるし、そもそも公道や店舗・住宅があるところで自由に椅子やシートを広げられるわけではありません。また、建物や電柱や橋が障害物になるので、ちゃんと見通せる場所をみつけるのは、地図からイメージするより難しいんです。観覧経験がないと、「どの角度なら見通せるか」も分からないわけなので、花火が始まるまで「ここからちゃんと見えるのかな?」と落ち着かない時間を過ごすことになります。
そういう意味でも、上図の川岸を目指しておけば、障害物はべつにないし場所取りも自由度が高いので、経験の浅い人でも安心できると思います。

観覧

見るだけです。綺麗です。

持ち物

まあこれは別にアドバイスも必要ない気はしますが、一応書いておきます。

  • 上着
  • ウェットティッシュ
  • 普通のティッシュ
  • ゴミを入れる袋
  • レジャー用の椅子(運ぶ体力に自信がなければシート)
  • 飲食物


まず季節的に10月1週目というのは微妙で、暑い年もあれば寒い年もあります。去年は寒かったです。天気予報を見て暑そうであれば問題ないですが、一応上着はあったほうがいいかもしれません。


ウェットティッシュとゴミ袋は、こういうレジャーの時は絶対あった方がいいのですが、もってこない人が多いので、一応書いておきます。手を洗えるところが近くになかったり、ゴミ箱が近くになかったりして、そんなものを探すのは面倒なので、自前で用意したほうが楽です。


ちなみに簡易トイレみたいなものが設置されますが、手洗い用の水道はありませんし、確かトイレットペーパーもほぼ無かったと思います。コンビニのトイレとかは混むのであまりあてにしないほうがいいと思います。
待機時間を入れても3時間程度のイベントなので、事前に用を足しておいて我慢するのが基本ですが、どうしてもという場合は下記のトイレを利用します。
http://www.tsuchiura-hanabi.jp/kantan/data/doc/275/CTwdBu8jcxCjgOEu.pdf


レジャー用の椅子について、観覧場所付近までクルマで近づくなら持ち運びは大変じゃないだろうと想像するかもしれませんが、すでに述べたように現実的にはクルマで近づくのは大変で、強いて言えば当日午前中ぐらいから行く必要があります。大半の人は電車で土浦駅に行って、歩きかバスで観覧場所に移動するわけで、しかもけっこう距離があって15分とかは歩くので、椅子を担いで移動するのはけっこう疲れます。体力がないならレジャーシートで妥協したほうがいいですね。
当然、椅子のほうが圧倒的に見やすいのですが。
また、電車はとても混むので、椅子もなるべくシンプルなものにすべきです。無理にパラソルとかテーブル付きのやつを持っていこうとすると電車に乗りにくくて大変だと思います。


飲食物ですが、土浦駅から観覧場所まで歩いていく路上では、いろんな店がいろんな食べ物を販売しています。野球場の外みたいな感じです。から揚げとか焼きそばとかおでんとか。
なので食べるものはそこで買えばいいとは言えますが、コンビニで売っているようなものを持っていきたいのであれば、土浦駅に着いてからではなく、なるべく電車に乗る前に買ってください。土浦駅周辺のコンビニはめちゃめちゃ混むし、売り切れも出ますので。

撤収

初めて参加する人は最後まで見たいと思うのですが(最後の方になんかデカいやつもあったと思う)、私は何回も見ているので、だいたい20時過ぎには撤収します。撤収タイミングを少し早めるだけで、土浦駅からの電車にある程度スムーズに乗れます
ただ、そうは言っても、電車は超満員で座れることはまずありません。2駅しかないので別にいいんですが。
 
 

おわりに

以上、土浦花火競技会観覧の攻略法でした。
私はとりあえずこの流れで安心して観覧できると思っていますが、冒頭でも述べたように、あくまで数ある攻略法の1つでしかないはずだし、今年は何か事情が変わっているかもしれないので、他にも色々調べて参加してください


ただ一つ言えることは、打ち上げられる花火は世界最高レベルの作品であり、数も2万発と多いので、仮に計画性が足りずあたふたしている間に中途半端な場所で観覧することになったとしても、かなり楽しめるということです。地元の住民だと、何も毎年行く必要もないので、10kmぐらい離れたところでベランダとか屋上から見たりもするぐらいですw

人文社会科学の必読古典文献リスト(知人向け)

必読書リストについて

 大学の教員をやってる友人から、人文社会科学の必読書の一覧はないかと言われて、このエントリを書いています。
 ニューアカというかポストモダン系の人たちがまとめた『必読書150』っていうブックガイドがあるんですが、私はポストモダン思想に共感はしないものの、文系の大学生・大学院生が読むべき古典の一覧表としては、今のところこれが一番なんじゃないかと思っています。
 「必読書リスト」みたいなものを掲げると、まぁみんな色々言いたいことが出てくるものです。「これは不要」「あれが入ってない」など好みに基づく各論もあれば、そもそも「古典偏重の教養主義は時代遅れ」とかいう批判もあります。でも私はやはり、「よく言及されているので、読んでるに越したことはない本」の一覧はあった方が良い思っています。
 過去のエントリで、必読書リストについて思うことや、古典を読むことの意義についても書いたことがあります。
 
 
 『必読書150』の一覧表はここに載っています。
 必読書150のリスト ついでに 東大教師が新入生にすすめる100冊:品川心療内科-日録-SMAPG-Panalion:So-netブログ

 
 
 また、Google Scholarの被引用数に基づく文献リストをまとめたブログ記事があって、かなり参考になります。
 何を読もうか迷った時のために→Googleが選ぶ世界の名著120冊(2013年版) 読書猿Classic: between / beyond readers

 
 基本的には、これらのリストを参考にするべきだと思います。(Googleのほうは人文社会科学という限定ではないですが。)
 以下に、これら(主に必読書150のほう)を参考にしながら出し入れした個人的な必読書リストを掲げますが、こういうのはリストを作っている人物に信用がないと意味がありませんので、本来は私のブログなんかに載せるようなものではないです。
 ただ、知人に伝えるにもブログエントリにしておいたほうが便利だし、ここに書いてある文献名をググってみて読む価値があるかどうか自分で判断して頂くこともできると思って、エントリを起こすことにしました。
 
 

必読書リスト

 以下の文献リストは、『必読書150』の「人文社会科学」カテゴリの必読書リストから、個人的に不要だと思ったものを削り、必読だと思うものを追加したものです。また、『必読書150』の「海外文学」「日本文学」カテゴリからも数偏拾っています。なお、自然科学に属するものも含まれています。
 内容が素晴らしいからとかではなくて、よく言及されるから知っておいたほうがいいという観点でリストアップしています。なので、私自身が読んでいなくて判断が付かないものでも、よく言及されているものは入れています。個人的に名著だと思う本が入っていなかったり、好きになれなかった本が入っていたりもします。ただ、個人的な関心や好みの偏りもある程度反映されていることは間違いないです。


 こういう古典文献は、それぞれを味わって自分の頭でよく考えながら読むことも大事ですが、ある程度は、理系の学生が数学の勉強をするような感じで、最低限のリテラシーとしてノルマ的に読んでいく必要もあると思っています。苦痛を覚えることもあります。なので、労力をイメージしながら読み進められるように、ページ数を付記しておきました(笑)。まぁ内容の難易度も異なるので、薄いから楽ということもないですが。
 専門知としてではなく教養として読むものなので、邦訳を読めばいいと思います。思想書のたぐいは、日本語訳だとややこしくて英語(英訳)版の方が分かりやすいみたいに言われる本もよくあるのですが、岩波文庫なら数百円で買えるものが洋書だと数千円するので、とりあえず邦訳版優先で読めばいいんじゃないでしょうか。
 なお、邦訳書でも買うと高いやつは値段を書いておきました。手元にあるものの値段をみたり、Amazonで調べたりとソースがマチマチなので、目安程度と思ってください。

  • プラトン『饗宴』(181p)岩波文庫
  • プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』(117p)岩波文庫
  • プラトン『国家』(456+493p)岩波文庫
  • アリストテレス『詩学』(356pの半分ぐらいかな?) 岩波文庫
  • アリストテレス『形而上学』(419+457p)岩波文庫
  • アリストテレス『ニコマコス倫理学』(294+306p)岩波文庫
  • アリストテレス『政治学』(494p)京都大学学術出版会,4410円
  • アウグスティヌス『告白』(329+302p)岩波文庫
  • パスカル『パンセ』(644p)中公文庫
  • スピノザ『エチカ』(295+180p)岩波文庫
  • カント『純粋理性批判』(371+357+431p)岩波文庫,他に平凡社ライブラリー,以文社(以文社のものが良いと言われている)
  • ヘーゲル『法の哲学』(404+460p)中公クラシックス
  • ヘーゲル『精神現象学』(491+455p)平凡社ライブラリー
  • ヘーゲル『歴史哲学講義』(363+381p)岩波文庫
  • ショウペンハウアー『意志と表象としての世界』(369+347+308p)中公クラシックス
  • キェルケゴール『死に至る病』(237p)岩波文庫
  • キェルケゴール『不安の概念』(299p)岩波文庫
  • ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(275+365p)岩波文庫
  • ニーチェ『道徳の系譜』(216p)岩波文庫
  • ニーチェ『善悪の彼岸』(326p)岩波文庫
  • ニーチェ『この人を見よ』(222p)新潮文庫,岩波文庫
  • フロイト「快楽原則の彼岸」(『自我論集』所収)ちくま学芸文庫
  • フロイト『夢判断』(530p+527p)新潮文庫
  • ラカン『精神分析の四つの基本概念』(384p)岩波書店
  • ブルトン『シュルレアリスム宣言』(286p)岩波文庫
  • ハイデッガー『存在と時間』(524+490p)ちくま学芸文庫,岩波文庫,中公クラシックス
  • ハイデッガー『ヒューマニズムについて』(398pあるけど本文は100pもなかったと思う)ちくま学芸文庫
  • ウィトゲンシュタイン「哲学探求」(『ウィトゲンシュタイン全集8』所収,479p)大修館書店,4725円
  • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(256p)岩波文庫
  • フッサール『論理学研究』(341+298+378+302p)みすず書房,計2万5000円ぐらい
  • フッサール『イデーン──純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(434+484+227p)みすず書房,計3万円ぐらい
  • フッサール『デカルト的省察』(390p)岩波文庫
  • フーコー『言葉と物』(474p)新潮社
  • フーコー『監獄の誕生』(345p)新潮社,5565円
  • フーコー『知の考古学』(367p)河出書房新社,3045円
  • フーコー『狂気の歴史』(649p)新潮社,6300円
  • デリダ『根源の彼方に──グラマトロジーについて』(395+412p)現代思潮新社,計 7980円
  • ベイトソン『精神と自然―─生きた世界の認識論』(325p)新思策社

 

  • マキァベッリ『君主論』(390p)中公文庫BIBLO,岩波文庫
  • モア『ユートピア』(210p)岩波文庫
  • デカルト『方法序説』(137p)ワイド版岩波文庫
  • ホッブズ『リヴァイアサン』(398+471+522+355p)岩波文庫
  • ルソー『社会契約論』(246p)岩波文庫
  • ルソー『人間不平等起原論』(282p)岩波文庫
  • ロック『市民政府論』(253p)岩波文庫
  • マルクス『資本論』(307+536+433+522+285+529+457+329+207p)岩波文庫
  • マルクス,エンゲルス『共産党宣言』(116p)岩波文庫
  • ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(436p)岩波文庫
  • デュルケーム『自殺論』(568p)中公文庫
  • テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(225+234p)岩波文庫
  • トクヴィル『アメリカの民主政治』(432+505+613p)講談社学術文庫
  • シュミット『政治的なものの概念』(128p)未来社,1365円
  • ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』(632p)東洋経済新報社,5184円
  • シュンペーター『経済発展の理論』(362p+275p)岩波文庫
  • シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(689p)東洋経済新報社,4752円
  • ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(482p)東洋経済新報社,3672円
  • マンデヴィル『蜂の寓話』(404p)法政大学出版局,4860円
  • ハート『法の概念』(553p)ちくま学芸文庫
  • アレント『全体主義の起原』(245+308+345p)みすず書房,計1万4805円
  • アレント『革命について』(478p)ちくま学芸文庫
  • アレント『人間の条件』(549p)ちくま学芸文庫
  • レヴィ=ストロース『野生の思考』(396p)みすず書房
  • レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(339+449p)中公クラシックス
  • レヴィ=ストロース『親族の基本構造』(912p)青弓社,1万4700円
  • レヴィ=ストロース『構造人類学』(475p)みすず書房,6930円
  • マクルーハン『グーテンベルグの銀河系――活字人間の誕生』(504p)みすず書房,7875円
  • バトラー『ジェンダー・トラブル』(300p)青土社,3024円
  • ウォーラーステイン『近代世界システム』(296p+298p)岩波書店
  • サイード『オリエンタリズム』(456+474p)平凡社
  • アンダーソン『想像の共同体』(358p)NTT出版
  • モンテスキュー『法の精神』(463+433+533p)岩波文庫
  • ミル『自由論』(288p)岩波文庫
  • オークショット『市民状態とは何か』(238p)木鐸社,3150円
  • オークショット『政治における合理主義』(416p)勁草書房,4410円
  • ロールズ『正義論』(482p)紀伊国屋書店,6830円
  • パットナム『哲学する民主主義』(318p)NTT出版,4212円 ←古典とは言わないかな…
  • ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(477p)中公文庫
  • ベル『主本主義の文化的矛盾』(261+201+277p)講談社学術文庫
  • ハーバーマス『公共性の構造転換』(357p)未来社,3990円
  • ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』(371+356+434p)未来社,5040円 ×3
  • パーソンズ『経済と社会』(293+239p)岩波書店
  • モース『贈与論』(305p)ちくま学芸文庫
  • ヴェブレン『有閑階級の理論』(391p)岩波文庫
  • ヴェブレン『企業の理論』(332p)勁草書房

 

  • ホメロス『オデュッセイア』(394+365p)岩波文庫
  • 旧約聖書『創世記』(272p)岩波文庫
  • シュペングラー『西洋の没落』(393+414p)五月書房,3990円×2
  • ガンジー『ガンジー自伝』(512p)中公文庫
  • ヒトラー『わが闘争』(506+418p)角川文庫
  • ル=ボン『群衆心理』(302p)講談社学術文庫
  • ソシュール『一般言語学講義』(523p)岩波書店
  • ピカート『神よりの逃走』(212p)みすず書房
  • ピカート『われわれ自身のなかのヒトラー』(294p)みすず書房
  • ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(325p)紀伊国屋書店
  • ボードリヤール『象徴交換と死』(565p)ちくま学芸文庫
  • サルトル『嘔吐』(338p)人文書院
  • ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』(187p)晶文社クラシックス

 

  • クーン『科学革命の構造』(293p)みすず書房3024円
  • ユクスキュル『生物から見た世界』(166p)岩波文庫
  • シュレーディンガー『生命とは何か』(215p)岩波文庫

  

  • 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』(285p)岩波文庫
  • 内村鑑三『代表的日本人』(208p)岩波文庫
  • 夏目漱石『漱石文明論集』(378p)岩波文庫
  • 坂口安吾「堕落論」「続堕落論」「日本文化私観」(『堕落論』というタイトルの評論集に入っており、それぞれ20〜30pぐらいかな)新潮文庫,角川文庫,岩波文庫
  • 岡倉天心『東洋の理想』(221p)講談社学術文庫
  • 岡倉天心『茶の本』(95p)岩波文庫
  • 西田幾多郎『善の研究』(254p)岩波文庫
  • 九鬼周造『「いき」の構造』(190p)岩波文庫
  • 和辻哲郎『風土』(299p)岩波文庫
  • 柳田國男『遠野物語』(144p)新潮文庫ほか
  • 福沢諭吉『学問のすすめ』(206p)岩波文庫
  • 福沢諭吉『文明論の概略』(391p)岩波文庫
  • 福沢諭吉『福翁自伝』(346p)岩波文庫
  • 新渡戸稲造『武士道』(159p)岩波文庫
  • 林房雄『大東亜戦争肯定論』(487p)夏目書房,3990円
  • 丸山眞男『日本の思想』(192p)岩波新書
  • 丸山眞男『現代政治の思想と行動』(585p)未来社,3675円
  • 丸山眞男『日本政治思想史研究』(420p)東京大学出版会,3570円
  • 『近代の超克』(341pのうち有名な座談会は半分ぐらいだったかな)冨山房百科文庫
  • 今西錦司『生物の世界』(208p)講談社文庫
  • 正岡子規『歌よみに与ふる書』(180p)岩波文庫
  • 石川啄木『時代閉塞の現状(他11編)』(206p)岩波文庫
  • 小林秀雄『小林秀雄全作品』シリーズ,新潮社(小林秀雄は短い評論文がメインなので、このシリーズの目次をみて気になったタイトルの文章を適当に読めばいいと思う)
  • 保田與重郎『日本の橋』(179p)新学社保田與重郎文庫
  • 吉本隆明『転向論(他12編)』(374p)新潮文庫
  • 江藤淳『成熟と喪失』(301p)講談社文芸文庫

 
 
 古典文献を挙げるとどうしても、思想系が多くなりますね。社会科学に関していうと、政治学にしても経済学にしても社会学にしても、「基礎」を勉強したいなら「教科書」を読んだほうがいいです。古典を読むことは「教養」として必要だと思いますが、その学問の「基礎」をマスターすることとは別の意味を持つ読書だと思っています。
 
 

『必読書150』の「人文社会科学」リストに載ってたけど外したもの

  • ケージ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(270p)青土社
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(293+362p)岩波文 庫
  • アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(422p)岩波書店
  • ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』(545p)河出書房新社
  • 柳田國男『木綿以前の事』(310p)岩波文庫
  • 時枝誠記『国語学原論』(260p)岩波書店,絶版
  • 宇野弘蔵『経済学方法論』(323p)東京大学出版会,絶版
  • 西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集I・II・III』岩波文庫
  • ヴァレリー「精神の危機」(『ヴァレリー・セレクション(上)』所収,10編中の1 編)平凡社ライブラリー,1260円
  • シュミット『政治神学』(208p)未来社,1890円
  • 本居宣長『玉勝間』(396+330p)岩波文庫
  • 上田秋成『胆大小心録』(122p)岩波文庫

よく耳にするけど絶対ヘンだと思うビジネス用語

変なビジネス用語

 今日、朝日新聞のニュース記事で「ほぼほぼ」という表現が市民権を得てきたみたいな話があり、はてぶのホットエントリに上がっていた。
 
www.asahi.com
 
 これはべつにビジネス用語として紹介されているわけではないんだけど、ビジネスマンがよく使ってるというイメージがある。就職するまでこんな言葉聞いたことなかったし、テレビでも耳にしないので、私のなかでは「変なビジネス用語」の一つとして認識されている。


 ちなみに私自身は「ほぼほぼ」という表現は全く使わない。べつに意図的に避けているわけではないんだけど、自分の口から出てくることは絶対ないなという感じ。「ほぼほぼ」と言っている人に文句をいいたいわけではないものの、どうしても気持ち悪いという感覚があって、どんだけ耳にしても自分の口から出ることはないなと。
 

 こういう、「ビジネスマンが使うヘンな言葉」ネタはたびたび盛り上がっていて、たとえば以前はこんな記事↓を読んだ。ビジネスマンがムダに横文字を使おうとして変になっているという話だ。


http://matome.naver.jp/odai/2142173791626860501matome.naver.jp


 似たような記事はいくつか見たことがあって、例えばほぼ日に載っていたこの記事↓なんかは、とてもおもしろく、かつ「これらの表現はネタとして扱われるべき変な日本語である」という判断にとても共感できる。かなりオススメな連載です*1

ほぼ日刊イトイ新聞 - オトナ語の謎。


なるはやで、紙に落とし込んでいこうではありませんか。
いったんペンディングしたものを、
仮にフィックスして、うしろの時間を見ながら、
アバウトに丸投げしていこうではありませんか。


 さて、ほぼ日の記事に載ってるものが多いのだが、私自身が仕事上よく耳にするものの自分では絶対に使わないビジネス用語について、以下にメモしておく。


「チャリンチャリン」

 何か具体的なサービスや事業のビジネスモデルの話をしているときに、手数料・利用料などの収入のことを「チャリンチャリン」という人がけっこういる。賽銭箱にお金が放り込まれるようなイメージなんだろうか。


 不思議なことに、作業委託費の収入とか製品の販売収入とかは、チャリンチャリンとは言わない。
 なんというか、「いったん仕組みを作ってしまうと、ほっといても自然にお金が流れてくる」的なビジネスモデルの場合に*2、「チャリンチャリン」という言葉が使われるようだ。何かを1回利用するごとにお金の支払いが発生する様子が、「チャリン」という音で表現されているのだろう。


 たとえば、ECモール事業で出店者からモール運営者に入るシステム利用料みたいなのは、「チャリンチャリン」と呼ぶことが可能。そういう事業のことを「チャリンチャリンビジネス」と呼ぶ人もいる。


「お願いベース」

 「お願いベース」は、人や企業に何かを頼む時に、へりくだった感じを強める目的で用いられる。頼みごとの際の「申し訳なさ」や、「無理だったら別にいいです」感を強調する表現だと言えば分かりやすいだろうか。
 「本当はこんなことをお願いできる義理ではないのだが、ここは一つ、なんとかお願いしたい。しかしまぁ、本来無理なお願いであることは承知しているので、ダメならだめで諦めるつもりですが」というニュアンスを表現する際に、「お願いベース」が用いられる。


 「これはもうほんとに、お願いベースなんですけど、できれば来月までに◯◯をして頂けますと弊社としては大変助かるところでして・・・」みたいな。ベースって何なんだよ。
 ベースって何だよ感は「正直ベース」(頻出)にも言えることです。


「おいくら万円」

 「幾ら」の意味。だいぶ変な日本語だけど、ビジネスマンの間ではごくふつうに使われている。
 見積もり依頼するときに、「いったんこの部分の要件をこちらで決めてしまえば、開発費がだいたいおいくら万円というのはすぐに出していただけるんですかね?」みたいな。
 万単位ではなく億単位になりそうな場合でも、「おいくら億円」とは言わず「おいくら万円」が用いられる。


「いまいま(のところは)」

 これは「ほぼほぼ」と同じ繰り返し系ビジネス用語で、単に「今のところは」の「今」を繰り返したもの。
 「このオプションサービスは、いまいまのところは無償提供でも構わないが、いずれ利用料を取るようにして、チャリンチャリンビジネスとして育てていくべきだ」みたいな。


 「今のところは」という表現は、「将来は状況が変わるかもしれないけど、現在のことに限定していうと」というニュアンスを持っているわけだが、これが「いまいまのところは」になると、たぶんその「限定」感が強められるのだろう。つまり「ぶっちゃけ来月にはどうなってるかホントわからないんだけど、少なくとも今はそう言える。今はね」みたいな状況で、「いまいまのところは」が用いられるわけである。
 「のところは」に繋げず「いまいまの状況をお伝えしますと…」みたいな使い方もある。


「込み込み」

 これも繰り返し系のビジネス用語の一つ。たいていは、金額に何かが含まれていることを言う時に用いられる。
 「保守料と回線費用も込み込みで、月額◯万円になります」みたいな。「込み」でええやんと思うけど……。「全部含めて」感を強めたいのだろうか。


「共有」=「連携」=「展開」

 情報とか資料をあげる/もらうことを、ビジネスマンは「連携」と言ったり「共有」と言ったり「展開」と言ったりする。
 「共有」はまぁ自然だと思うけど、「連携」とか「展開」とか言いたがる人もけっこういて、変な日本語だなぁといつも違和感を覚える。


 「それでは貴社内の方針が固まりましたら、我々にも連携いただけますと・・・」
 「先日◯◯様よりご提示頂いた資料を、関係者の皆様に展開いたします」(と言ってメールに何か添付されてばらまかれる)


 みたいな。IT企業の人がよく使っているイメージがある。


「〜いただきたく。」

 ビジネス用語というわけではないかもしれないけど、メールとかで何かをお願いするときに語尾を「〜いただきたく。」で止める人いるよね。「◯月末までにはご決定いただきたく。」みたいな。


 かなり上から目線で強要してるように感じられるので、私は絶対そういう表現は使わないんだけど、人によってはメールで何かを依頼する時に常に「いただきたく」止めをしている。
 まぁ発注者が受注者に対して使う分にはいいかも知れないけど、逆の立場で使っちゃってる人もいるから驚く。しかもそういう人は、「いただきたく」止めを、デキるビジネスマンの表現だと勘違いしてる節があったりもする。


「仁義を切る」

 これは本当におかしい。ビジネスマン(役人の人もよく使うが)が「仁義を切る」という時、その意味は「隠し事になってしまわないように、事前に知らせておく」という意味だ。
 たとえば、あるプロジェクトをA社との間で進めていたところ、じつは並行してB社との間にも似たようなプロジェクトが生まれることになったとする。A社が「自分たちだけがやっている」と思い込んでいるまま、B社とのプロジェクトのほうが先に世に出てしまったりすると、A社としては浮気されたような気になってヘソを曲げてしまいかねない。だからそういう場合は、B社とのプロジェクトが本格化する前に、「A社に仁義を切っておく」のだ。


 しかし本来「仁義を切る」というのは、ヤクザの世界における「初対面の挨拶」のことだ。Wikipediaにも詳しく載っている(リンク)が、「お控えなすって」とかで始まる定型的な挨拶の仕方があるわけ。そういえば昔YouTubeで見たことがあるんだけど(今は消されてる。ここにテキストが載ってた。)、中国地方のヤクザに密着取材したテレビ番組があって、親分が「最近の若い者は、仁義の切り方も知らない」と嘆いて、子分に対して仁義の切り方を実演しながら指導していた。腰を低くして、片手を差し出して手のひらを見せるようにし、ドスのきいた声で「お控えなすってぇ!」とやっている姿は、けっこう迫力あってかっこよかったな。
 方言によって変わるみたいだが、


 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「それじゃぁご挨拶になりません、まずあんさんからお控えなすってぇ」
 ヤクザ2「……」
 ヤクザ1「早速のお控え、ありがとうござんす」


 みたいな感じで、相手に控えてもらった上で、自分から先に自己紹介を切り出すのだ。ググると色々なバージョンが出てくるけど、日本語としてもリズム感があって美しい。


 それが「仁義を切る」ということなのに、会社で部長とかが「A社には俺が仁義切っとくから安心して」とか「A社に仁義は切ったの?」とか言ってるのは本当に滑稽。



他にも何か思いついたら追記します。

*1:ヘンな言葉を集めた連載ではなく、就職したら耳にする言葉を集めたものなので、収録されている言葉は別におかしくはないものが大半だけどね。

*2:本当にほっといてもお金が流れてくるビジネスなんてあまりないけど。

日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について」がたいへん子供っぽい件

子供っぽい理事会提案

 日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)」という提案文が、にわかにはてブのホットエントリに上がっていた。(もともとは去年の9月に公表されたものみたい。)


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)


 私は、利益相反の懸念を重視して「タバコ資金」の助成を受けた「タバコの健康への影響に関する研究」を受け付けないというのは、ある面では合理的な判断であり得ると思う(研究テーマ等と関係なく資金源を基準に排除するのは過激だと思うが)。だからこそ、どんな分野でも査読者の選定には注意が払われているわけだし。また、学会が特定の価値観へのコミットメントを宣言し、それと対立する価値観を学術的討議の場から排除することも、「まぁそういう所があってもおもしろいんじゃないの」ぐらいに思っている。
 しかしこの理事会提案は、文面が穏やかでないというか、子供っぽいのが気になった。明らかに冷静さを欠いていて、言わなくていいことを言い過ぎという感じだ。

タバコ会社は人の命を奪うタバコを販売することによって経営が成り立っています

JTが提供する研究資金はほとんどすべてタバコ売上の利益によるものであり、ヒトの命を奪って作られたものであると考えるべきです。

人の命と引き換えに生み出されたそのような資金


 とかいうのはあまりにも文学的だし、
 

最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。

現状の日本のタバコ会社による研究助成がタバコを売るための謀略であり違法なものである


 みたいな勘ぐりを、学術団体が理事会名義で公言するのは異常なのではないだろうか。

受動喫煙の健康影響の有無について1980年から1995年の間に発表された総説論文106編を解析したところ、うち39編(37%)が受動喫煙の健康影響を否定していましたが、そのうちの29編(74%)の著者はタバコ会社との関係がありました。多変量解析で受動喫煙は健康影響がないとする論文の様々な要素・特徴ごとのオッズ比を調べると、唯一有意に関係していたのは著者がタバコ会社と関係が有るか無いかで、そのオッズ比は88.4(95%信頼区間16.4-476.5)でした。従って客観的であるはずの科学研究においても著者のタバコ会社との関係性が大きな影響を与えており、タバコ会社から資金を得てなされた研究は、タバコの害を低く評価する方向にバイアスしている可能性があると考えられます。


 というような記述も悪質だ。週刊誌レベルの文章なら、「受動喫煙の健康影響を否定する結果が得られた研究は、タバコ会社関係者によって行われたものが多い」という事実から「これはタバコ会社の謀略だ!」と論じても許される気はする。しかし科学者の団体が、論文の内容を精査するわけでもなく、「タバコ会社の関係者だから、研究結果も捏造に違いない」という予断だけを振りまくというのは、尋常ではないと思う。
 上記のようなデータはたしかに興味深いものではあるが、そのことをもって個々の研究結果を否定できるわけではないはずだ。「バイアスしている可能性がある」としか言っていないが、印象を誘導しようとしているのは明らかな文面である。
 そもそも、「世間一般の風潮が『禁煙ファシズム』に支配されてバイアスを有しており、タバコ会社関係者だけが冷静な研究をできているという解釈もできる」とか言われたら水掛け論にしかならないので、こういう議論は不毛である。


 ある一つの理論的な仮説を実証するのにたくさんの研究の蓄積が必要な場合はけっこうある。「こんな実験をやってみたら、仮説を支持する結果が出た」「でもこういう実験だと、仮説は支持されなかった」みたいなのが、多数の研究者によって長年繰り返された上で、「少なくともこういう点については、過去の大方の研究で結果が一致している」みたいなことが言えるようになるわけだ。
 数学の研究とかなら論文1本で明快な真理を導き出せるのだろうが、研究の「蓄積」を踏まえて総合的に判断することでしか、何が真理であるのかを検討できないような研究領域は多いはずである。そういう領域では、実験や調査で対立する結果が得られることについてはある程度寛容であるべきで、文句があるなら研究内容を精査したり、メタ分析を実施したりすべきだろう。
 
 
 何も論文を読まずに勝手に想像で言うと、たとえば受動喫煙の悪影響を調べるにあたって、収集したデータに対し「受動喫煙の悪影響はない」という帰無仮説の検定を行って、悪影響ありとかなしとか論ずる場合が多いとすると、あるデータにおいてこの帰無仮説が棄却されなかったことを報告しているだけであれば、実験デザインに細かいツッコミを入れることで、色々反論は可能なはずだ。そんな研究は腐るほどあり、そういうものを含めて「研究の蓄積」が進み、論争を重ねることによって、学術的な真理に近づいていくものだと思う。


 今回の理事会提案は資金源のみを基準に研究発表を排除するというもので、それがタバコの健康への影響を扱うものかどうかは関係ないというふうに読める。利益相反を排除するのが目的であれば、研究テーマとの組み合わせでルールを設定するのが合理的である。それをしないということは、学術研究における利益相反を排除しようとしているのではなく、とにかく特定の団体と戦うことが目的だと言っているわけだ。それはそれで面白いので頑張ってくれたらいいと思うが、学術的に真理を探求する際の態度として合理的かというと、怪しいだろう。

この概算にもとづけば、JTの調整後国内営業利益2,387億円から支給される補助金は340万円ごとに、ひとりの日本人の命が奪われた結果であることになります。


 に至っては意味不明なので、誰か解説してほしい。
 
 

パブコメは反対意見のほうが冷静

 これに対して、既に寄せられているパブコメにもヤバイものがある。


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についてのパブリックコメント


 どうでもいいが、上記リンク先のURL末尾が「tabacco-opinion」となっていて、英語での綴りは「tobacco」だと思うのだが、あえてイタリア語を混ぜてみたのだろうか?
 内容的には賛成意見が多いのだが、賛成意見と反対意見を比べると、賛成意見のほうが子供っぽいと感じる。

貴会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止」について
うれしかったのでご連絡差し上げました。大賛成です!!!
趣旨につきましても大いに賛同いたします。どんどん広まっていくことを
期待しております。
応援しておりますのでぜひがんばってください。


 「大賛成です!!!」程度ならTwitterで言ってればいいのではないか。

タバコ試験で行われた研究の規制の件ですが、賛成です。
この時代、そして、これからも禁煙に向けて動いてくと思います。
したがって、規制するのは当然だと思います。


 漢字変換からしてミスっとるし・・・。

今回の提案に関して,全面的に賛意を表明します.
さらに,追加をしていただきたい点を列記いたします.
● 提案にも記載されている「JTが経営する医薬品事業」は「鳥居薬品」の事だと思われますが,わが国の学会の学会プログラム・抄録集への広告掲載例が見られます. その他,学会時の企業展示としてブースが出されている場合もあります.さらに冷凍食品メーカーであるテーブルマークも子会社化していますので,これらのグループ企業を含めて協賛の禁止を謳っていただきたい.
● 他の学会ではありますが「JT生命研究所」および「JT」の研究員が発表している事例があります.これに関しても内容にかかわらず所属を明記しての発表は禁止としていただきたい.


 ここまで来ると本格的にファシスト臭が漂ってきますね。

2. 「喫煙科学研究財団」は、喫煙と健康問題の科学的解明を進めるために研究事業をおこない,毎年採択課題は160もある。これらに基づいてJTは,まだまだ発展途上の研究が多いため「たばこの有害性は科学的に証明されていない。」と主張している。また研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている状況である。


 主張に反論すればいいのに、「研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている」ってそんな断定していいんだろうか。


 これに対し、反対意見は冷静なものが多い。

理事会(案)に反対です。


1. COIを明確に示していれば、民間からの助成を受けていても中立の立場からの研究と言えるので、タバコ業界からの助成を受けた論文投稿に限定してこれを排除する理由が明確でない。
2. タバコ関連業界から助成を受けた論文を一方的に受理しないことにより、色がついている可能性のある研究論文を予め排除することが可能ではあるが、色の識別は雑誌の査読者がしっかり内容を精査することで対応できるはずである。
3. タバコが健康を害する大きな要因であるのであれば、衛生学会会員の興味もタバコの影響に傾いているはずであり、今回の措置をとればむしろ喫煙の影響に関する論文投稿が少なくなる懸念がある。
4. たとえタバコ関連業界から助成を受けていたとしても、タバコの影響を論じた研究論文を審査しないことそのものが、「日本衛生学会タバコ対策宣言」あるいは、禁煙を推進することに繋がるとは思えない。
5. タバコ以外にも自動車工業界からの直接投稿された論文も受理されている。大気汚染の原因となっている業界からの論文だからといって拒否されてはいない。
6. 本趣意書に「最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。」と記載されている。この記述は禁煙運動を進める1団体としての意見としては問題がないであろうが、学会としての意見書としては如何なものであろうか。上記述が確証に基づくものでなければ、中立的立場にあるべき学会が想定でものをいう団体と見做される危険がある。

代替意見(案)
タバコ関連業界から助成を受けた論文に関しては、投稿時にCOIをさらに厳格化することとする。助成を受けた金額、期間、ならびに内容は業界の意見を反映していないことを正確に記載することを求める。

論文はフォーマルで公平な議論のためのツールであり、あらゆる研究に対して開かれたものであるべきだと考えます。そのため、今回のご提案については賛同しかねます。

まず第一に、研究成果の公表と議論を無用に抑圧してしまう可能性が懸念されるからです。COI管理のコンセプトからも、COIがあるからといってその論文が公表されるべきではないとは考えられません。あらゆる研究結果について、COIをしっかりと開示し、それを読者が加味して論文の内容を検討すできるようにすることが重要視されており、私もこの考えに賛成です。


タバコ等、大きな寄与的健康被害の原因となっているであろう製品やサービスの提供者からの資金援助についても、それを積極的に公表したものであれば、他の研究と同様に歓迎されるべきと思います。十分な情報開示を伴った形で論文を掲載し、議論の材料とすることで衛生学の発展に貢献できるのではないかと考えます。 


第二に、健康への脅威となるか否かという価値判断は相対的であり、時として困難なため、タバコ産業への特別措置をすることで、他の産業への対応も求められ、泥沼的な対応が迫られるのではないか、という懸念があるからです。タバコ産業を絶対的な脅威とすることは難しいと思います。たばこ産業によって経済的利益や社会的役割を得、生活している人もいます。ポテンシャルとして健康への脅威を与えうる産業は他にもたくさんあります。すべての産業といってもいいかもしれません。たとえば、軍事産業、ジャンクフードを販売する食品会社、アルコール飲料製造メーカー、自動車メーカー(交通事故の脅威)なども考えられます。

学術学会根本的な存在価値のひとつは、「自由な研究発表の場」であり、「レッテル貼り」や「特定の価値・立場の排除」というような原理主義的な立ち位置に、学術学会は陥ってはならないと考えます。科学的に明らかな誤りは、査読の過程や他研究者による検証の過程で正されるべきものであり、提案理由に記載されている3つの内容は理解できますが、それを盾に、最初から「ドアを閉じること」は妥当とは思いません。昨今ようやくCOIの考え方が理解されて広まり、タバコ資金に限らず研究資金の出所を明示することが一般的になっています。COIを明示するだけでは不十分でしょうか。

タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についても同様に言論の自由を記した憲法21条との法的整合性との関係で、問題になるはずである。
(中略)
納税が免除されている公益社団法人である日本医師会に日本医学会が置かれ、その分科会の一つが日本衛生学会である。したがって、日本衛生学会は納税が免除されている公的組織であるから、私的な任意の組織とその性格が異なるはずである。公的機関の運営や内規などは、憲法との整合性が必須になるが、私的・任意組織ではその縛りがほとんどなくなるはずである。本件を本学会の制度とするならば、本学会を日本医学会の分科会から離脱させれば、憲法21条との法的整合性が問われなくなるはずである。ただし、一般法人の場合、納税義務が生じる。


 最後の憲法の話が、実際の法解釈として正しいかは知らないけど、論旨としては説得力がある。


[追記]
 ブコメで

自分が分かるところだけですが、憲法21条の下りは蛇足で説得力もありませんー。集会結社の自由に対する制約はごく限定的で、「強制加入の税理士会が政治団体に寄付をする」くらいまで行かないと制約されません。

というご指摘を頂きました。
[/追記]
 
 

個人的に思うところ

 私自身はタバコを吸わないので、喫煙を擁護したいというモチベーションはべつに無いのだが、他人のタバコの煙があまり気にならない人間なので、喫煙者を叩くモチベーションもない。
 また、「ヒトの命を奪っている」というが、太く短く生きる権利は認められるべきだし、タバコによってストレスが軽減されたりするヒトがいるのであれば、吸ってりゃいいじゃんと思う。こないだ同僚が使っているのを見たのだが、副流煙が出ないようにする装置も最近は売られているらしいので、「周りに迷惑をかける」みたいなのも今後はさほど重要ではなくなってくるのかもしれない。

 
 「禁煙ファシズム」というようなひどい状況なのかはよく知らないのだが、高校の世界史でも習うアメリカの「禁酒法」みたいな例もあることだし、一種の極端な潔癖症が公認の価値観とされる時代があること自体は、不思議なものではないと思っている。なので、全世界的に禁煙運動が支配的な潮流になったとしても、空気に合わせるのではなく、それが本当に合理的なものであるか常に疑い続ける必要はあると思う。
 さらに、個人的には、常に「叩かれている側」を応援したくなってしまうので、衛生学会に対するJTの反論や、世の中の空気に抗って「タバコは無害」説を主張する研究者に期待している。


 冒頭でも述べたように、利益相反の懸念排除を学術誌の論文投稿基準に加えるのは、考え方としてはあってもいいと思う。
 また、学術研究といえども特定の価値観から完全に自由ではあり得ないし、むしろ特定の価値観と結託することがある種のクリエイティビティを加速するかもしれないと思っているので、特定の価値観へのコミットメントを学会として宣言することがあってもべつにいいだろうと思う。


 しかし研究者というのは、「厳密には特定の価値観から自由ではあり得ない」のだとしても、相対的に、価値観によるバイアスを除去する努力を熱心に行うことが期待されている人種ではあるはずだ。だから、「利益相反の懸念を徹底的に排除したい」というだけならまだ理解できるものの、今回の理事会提案のように「人の命と引き換えに生み出された資金」だの「謀略」だの「カモフラージュ」だのといった誹謗中傷の類を並べ立てるのは異常だと思う。


 ただ、結論としては、そのような異常な学会があってもそれはそれで面白いと思います。