The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

日本人は「アイデンティティ」という概念を理解できない?

Identityについて語ってしまった

 昨日、仕事中に、なぜか業務のメールで「日本人はアイデンティティという概念をなかなか理解できないのではないか」というような話をくどくどと語ってしまった。これは昔から気になっている問題だったので、つい考えこんでしまったのだ。


 考え込んでしまったきっかけは、WebサービスのID連携に関する用語の整理をしていて、いくつか文書を読んだこと。
 たとえばこれ*1
 Provisioning and deprovisioning in an identity federation
 会員制のWebサービスどうしでIDを連携して、ユーザが1セットのID・PWで両方のサービスを使えるようにしてやることをSSO(Single Sign-on)というのだが、この文書はそのSSOを実現するためのSAMLという方式について書かれたものである。


 SAMLの具体的な方式については本エントリにおいてはどうでもいいのだが、上記資料のなかで"IdP"とあるのは"Identity Provider"の略で、簡単にいえばSSO連携するときに、実際にユーザが使うID・PWを管理している方のサービス、つまり親になる方のサービスをIdPと呼ぶ。
 問題は、ここで"Identity"を"provide"するというときの、Identityという言葉が指しているものは何なのか(あるいは指している範囲)を正確に理解できるかということだ。
 また、上記文書のタイトルの中に、"Identity Provisioning"という言葉が入っている。これは親になるサイトに既に登録してるユーザが、子になるサイトのアカウントは持ってないとして、新たに子サイトのアカウント開設をしつつ同時にSSOを実現するような場合に*2、Identity情報が親サービスから子サービスに供給(provision)されることを指している。ここでも"Identity"という言葉が指している物事の範囲を正確に理解するのはじつは簡単ではない。*3
 
 

Identityの定義

 たとえば、Wikipediaの「デジタルアイデンティティ」の項をみると、「ISO/IEC 24760-1は、アイデンティティを「実体に関する属性情報の集合(set of attributes related to an entity)」と定義している」という引用がある。この例に見られるように、「属性の集合」として理解する人はそれなりに多いだろう。名前、住所、メアド、年齢、性別といった、会員サービスのプロフィール欄に登録されているような情報の束のことを、「そのユーザのアイデンティティ」と呼ぶということだ。
 しかし、あとで述べるが、「具体的な属性の束」をアイデンティティと呼んでしまうと、アイデンティティという概念の意味合いを見失ってしまうと私は思っている。


 「Identityってどういう意味ですか?」と訊かれて、即答できる準備ができている人はそう多くないだろう。一応、翻訳としては「同一性」と訳されており、この訳で良いと私も思うのだが、「同一性」と言われてイメージされる物事にはけっこう幅がありそうだ。
 また、我々が日常的に「アイデンティティ」という言葉を目に(耳に)するのは、「日本人としてのアイデンティティを大事にし・・・」とか「それは彼のアイデンティティだから・・・」みたいなフレーズにおいてだが、これを「同一性」という日本語に置き換えるとよく分からない文章になる。ちなみにこれは、「同一性」という訳が悪いのではなく、文例の方がやや混乱していると私は思う。


 結論から言うと私自身は、Identityを、短く言うなら「あるものの、そのもの性」とか「それ性」というぐらいに理解するのがいいと思っている。
 もっとくどく言って良いなら、「あるものが、他のものから区別してそれと認識される際の、とりわけ繰り返しそう認識される際の、その『区別してそれとして特定されているという状態』(に関する認識)のこと」と言えばいいと思う。
 「同定」という言葉にある程度なじみがある人に対しては、「同定されてる感」とでも言えば伝わると思う。「被同定性」とかでもいいかもしれない。
 
 

いろんな用語法

 Wikipediaの「同一性」の項を見てもわかるように、Identity(同一性)の概念は哲学の領域でしつこく論じられてきている。私も系統立てて勉強したわけでは全くないので、イマイチ理解はできていないし、学説史的な経緯もよく分かってないのだが、同一性を上述のような「属性情報の束」と理解するだけ*4で議論終了というわけにはいかない、とは言って良いだろう。


 たとえば、個人主義者が「パーソナル・アイデンティティをたいせつにしましょう」みたいな綺麗事を述べ立てる際の「アイデンティティ」は、こういう抽象的な意味合いではなくなっている。いや、本質的には、上の哲学的な検討などを踏まえていわゆる「パーソナル・アイデンティティ」の概念を厳密に議論することも可能だと思うのだが、多くの場合、「同一性」という抽象的な概念の理解は放棄されていて、そこに色々な不純物を混ぜて具体化したある印象を、何となく「アイデンティティ」と呼んでいる感じだ。


 たとえば、このYahoo!知恵袋の回答などは、私はかなりヘンな用語法だと思うのだが、こういう感じで理解してる日本人はかなり多いだろう。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

自分が自信をもっていること、自分自身のよりどころ、のようなことだと思います。
たとえば、勉強ができてそれが誇りだ、とか、サッカーが得意だ、ということを自認をもっている人は、それらで自分に自信をもつことができ、他のことで多少何かあってもへこたれないですみます。そういうものがアイデンティティだと思います。


 べつに、こういう説明が「間違っている」と言いたいのではない。そんなもん定義次第なので、「私はそういう意味でつかってるんです」と言われたら「そうですか」としか言いようがない。
 しかし、抽象的なレベルでアイデンティティという語の意味する範囲にこだわってよく考えた人ならば、「自分自身のよりどころ」のことをアイデンティティと呼ぶことはなく、そういうよりどころを通じて形成されている、自我の安定性のことをアイデンティティと呼ぶはずだ。


 実際、心理学では、エリクソンという人が「安定した自己イメージ」ぐらいの意味でアイデンティティという概念を用いたのが有名で、心理測定尺度*5にも、自己のアイデンティティの確立の度合いを測るものとして開発されているものはいくつかある。


 保守系の政治家や評論家が「日本人としてのアイデンティティ」とかいう場合は、たぶん、安定的な自己イメージの構成要素として「日本人である」という属性が明確に意識されているべきであるということが主題になっている。(東京都の教育研修資料の4ページの図がそれを意味している。)
 堀義人とかいう人が書いた記事(参考リンク)を読んだら「「武士道」という精神は、今の世界で日本と日本人が役割を果たすうえで改めて学び直す必要がある、日本人のアイデンティティを凝縮した道徳観念だろう」とか書いてあって、そもそも改めて学び直す必要があるならそれはもはや我々のアイデンティティの構成要素ではないじゃないかとも思うのだが、それはともかく、アイデンティティが凝縮されて武士道になっているのではなく、武士道精神を含む諸々の性質が、総体として自己の安定的なイメージを確立しているときに、そのイメージの明確性や安定性や(他者からの)識別性のことをアイデンティティを呼ぶのだと言いたい。
 
 

Identifier、Identified、Identity

 あるものが、他のものから区別してそのものと認識される(同定される)という場合に、


(1) Identifier(同定の材料となる情報)
(2) Identified(同定された実体)*6
(3) Identity(同一性。)


 を区別しておくと、理解がしやすくなるだろう。
 Identifierはたとえば人物の見た目であったり、名前であったり、住所や年齢であったり、Webサービスで使っているアカウント名だったりする。それを手がかりに、その人であることを繰り返し認識することが可能になるような情報のことだ。
 Identifiedは、同定された実体のことで、たとえばそのWebサービスを使っているその1人の人物とか。住所や氏名などは、この同定された実体の属性情報だと考える場合には、Identifiedの一部を構成しているとも言える。
 一方Identityというのは、そういう具体的なIdentifierがきっかけとなって、ある具体的な実体としてのIdentifiedが、それとしてIdentifyされた場合の、その「Identifyされてる感」のことだ。


 冒頭のドキュメントで"Identity Provisioning"と言われるとき、どういう出来事を指しているのかというと、IdPが「とある人物が存在するという事実認識」(及び、場合によってはその人物が何者であるかを示す各種の属性情報)を、「他の人物から区別してその人物を特定するための手段」とともにSPに伝え、それ以後SPが実際に、その人物を「他の人物からは区別される、その人」として認識できるようになるということだ。
 ここでIdPからSPへprovisionされたものがIdentityなのだが、より直接的な表現をむりやりこしらえるならば、とある人物についての"Identifiability"であると言っても良いだろう。具体的なIdentifierが供給されたことに着目するのではなく、その人物を特定できる能力ないし可能性が、IdPからSPへと供給されたという点に着目する。そういう見方をしておくと、Identityの概念も理解しやすくなる。 
 
 念のため言っておくと、Identityという言葉を常に純粋に抽象的な概念として用いる必要はなくて、ある具体的な文脈でidentityという言葉を使うときは、種々のIdentifierやIdentifiedを含んだ、雑多な印象を指すものとして用いられることも多いだろう。たとえば「彼のアイデンティティ」という言い方をする場合、「同一性」という抽象的な意味合いと、具体的な彼の「属性の束」が、同時にイメージされることが多いだろうし、それで構わないと思う。何らか(何者か)の"Identity"が実際に把握されるときというのは、手がかりとしての"Identifier"や中身としての"Identified"が必ず伴うので、IdentifierやIdentifiedを含めた意味でIdentityと言う用法があってもべつにいい。
 ただ、そうであるにしても、一応上記(1)(2)(3)のように区別するよう努めておいたほうが、概念が綺麗に整理され、ひいては物事を深掘りして考えやすくなるとは言えると私は思う。
 まぁ、このエントリの内容自体、十分勉強して書かれたものでは全くないので、哲学者に言わせれば「綺麗に整理されている」とは言えないだろうけど。
 
 

少なくとも日本では混乱がみられる

 じつは、べつに哲学書でなくとも(それこそ技術の解説であっても)、英語の文献の場合は、Identityという言葉を、具体的なIdentifierやIdentifiedの集合を超える抽象的な概念として用いているような節が、けっこうある。冒頭に挙げたPDFのドキュメントにしても、attributeをprovisionするとは決して言わず、わざわざIdentityをprovisionすると言っているわけで、具体的な属性情報そのものではない、抽象的なカテゴリとしてidentityという語を用いているように見受けられる。


 日本語の文献でももちろんそれはあるのだが、自分が読んだことのある狭い範囲だけで独断を下しておくと、割合としては少ないように感じる。
 まぁ、外国の実際の事情は知らないし、英語圏と日本語圏の比較をしてもべつに嬉しいことはないので、どっちがどうというような議論には私はあまりこだわりはないのだが、少なくとも日本において概念の混乱がけっこうみられるということは指摘したい。


 「日本人は抽象的な思考が苦手」とは全く思ってないし、漢語まで含めれば「日本語は抽象的、論理的な表現に向かない」とも全く思わない。私が言いたいのは、少なくともこのIdentityという概念に関しては、日本人の用語法は、具体的にイメージ可能なIdentifierやIdentifiedのほうに引っ張られ過ぎで、抽象概念としてそれを把握することに失敗している場合が多いように思う、ということである。



 ・・・というような話を昨日、同僚にメールで送りつけたので、忘れないうちにブログにメモっておこうと思いエントリを起こしました。自分の研究に戻ります。
 

*1:単にこれだけURLがすぐ分かったので貼り付けとく

*2:そういう場合だけとも限らないけど。

*3:リンク先PDFの筆者が明確にその定義を意識しているかどうかもよくわからないが。

*4:そういう立場もあるらしいのだが。

*5:心理的な傾向を測るための、アンケートみたいなやつ。テキトーにつくられるアンケートではなく、何度もテストを重ねて妥当な質問項目を作り上げていく。

*6:ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」が英語では"Signifier and Signified"と書かれるのにならってこう呼んでみた。