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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

選挙に行くほうが馬鹿かもしれないし、一票の格差に目くじらを立てなくてもいいかもしれない

選挙に行く奴のほうが馬鹿であるとも言える

 昨日ネットをみていたら、


 選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由
 

 という記事が話題になっていた。この記事には共感できる部分もあって、3番で言われているように「『なんだかよく分からない』ことに対して何もしない」のは確かに良くないし、5番で言われているように「斜に構えているのが格好良いと思っている」奴はたしかに私も嫌いだ。


 しかし、たとえば「彼が『どこに入れても同じだよね』と言っていたら、彼は日本語を読む能力が欠けている」という部分とか、「選挙を放棄するということは、君にも君たちの子どもの将来にも、本気では関心ないよ」という部分は、論理的に間違っていると思う。


 筆者はそもそも、「あなたの彼氏が選挙に行かない理由」として5つのパターンしか挙げていない。

  1. 「面倒くさい」
  2. 「どこに入れても同じ」(政党間に差がないという意味)
  3. 「なんだかよく分からない」
  4. 「その日用事ある」
  5. 「政治家信頼していない」


 の5つなのだが、政治学では古典的な議論として、「有権者が何万人もいると、自分の1票が勝敗を左右することはあり得ないから」という理由が挙げられている。私は大学生のころ政治学を専攻していて、べつに頑張って勉強した覚えはないので記憶が曖昧なのだが、たしか選挙制度論の入門的な講義の最初の回で教授が、「選挙に行っても、自分の1票は何の効果も持たないのだから、投票率が低いことは政治学者にとってなんら不思議ではない。むしろ、1票を投じても何の意味もないのに、なぜ人々は投票に行くのかというのを説明するほうが、非常に難しいのだ」としゃべっていた。
 ネット上でも、よくみたら社会学者の文章だったが、「合理的個人はなぜ投票するのか」という資料を読むことができる。


 自分の1票で勝敗が左右されることがほぼあり得ないということは、それこそ小学生でも理解できる自明の理屈だ。自分以外の何十万人という有権者の票が綺麗に割れている場合にのみ、「自分の1票」が勝敗を決すると言えるわけなのだが、そんなことはほぼあり得ないといって良い。自分が投票してもしなくても、誰が勝つかは決まってしまうのが現状なのだ。
 そのことを踏まえれば、「どこに入れても同じ」というのはある意味正しい(上の記事の筆者は「政党間に差が無い」という意味で言ってるので別の話なのだが)し、子どもたちの将来に関心があるかどうかと投票にいくかどうかは全く関係がない。むしろ、投票にいく時間を潰して子どもと遊んだり何かを教えてあげたりするほうが、個人の行動としては明らかに合理的だ。
 

 だからある意味では、選挙に行っている人たちのほうが馬鹿であるとも言えるんじゃないだろうか(笑)。毎回投票に行っている人というのは、「意味のない行動であることが明らかなのに、周りの雰囲気に流されて行動してしまう、頭の弱い人」だとも言えるのだから。
 「選挙に行かないような奴には、モノを言う資格はない」みたいなセリフが好きな人は多いが、べつに投票に行っても何の効果もないということを忘れて偉そうなことを言うのはやめたほうがいいだろう。 
 

 しかしこの話をすると、だいたいの人は不快感を覚えるようだ。というか、ムキになって怒る人も多い。自分が毎回選挙に行っているのを馬鹿にされたように感じるからだろう。そして、「みんなが投票に行かなくなったら民主主義が破綻して〜」というような議論に発展するのだが、ちょっと待って欲しい。
 まず、「自分自身が投票に行くのが合理的かどうか」という話と、「多くの国民が投票する社会が望ましいかどうか」は別の問題だ。それに、みんなが投票に行かなくなったら、自分の1票が持つ価値が増すということなのだから、そのときは張り切って投票に行けばいい。たとえば10人ぐらいしか投票しない選挙であれば、けっこう投票し甲斐があると思う。
 
 
 しかし私はべつに投票に行くべきではないと言いたいわけでもない。「自分の頭では深く考えず、周りに流されて投票所に行く」のに類する様々な慣習的行為の積み重ねによって社会は成り立っていて、1人1人が合理的に行動することが社会全体に善をもたらすわけではないと思うからだ。
 ただ、冒頭の記事のようなモノ言いはどうしても気に入らない。どう考えても論理的に間違った理由で、投票にいくことを正当化しようとしているからだ。
 先ほどリンクを貼った論文でも議論されていたように、投票にいく理由というのは、もっと説明が難しいものであるはずである。
 
 

一票の格差に目くじらを立てなくてもいい

 一票の格差問題というのがある。これも以前から気持ち悪いと思っていて、エントリを起こしたこともある(以前のエントリ1以前のエントリ2)。
 簡単にいうと、別に一票の格差を是正することに反対するつもりはないのだが、一票の格差を「不公平である」とか「民主主義の原理に反する」といった言い方で批判している人はちょっと物事を誇張しすぎなんじゃないかということだ。
 
 
 しょうもない点から言っておくと、先程も述べたように、有権者が何十万人もいれば「1票」の重みはほぼゼロということになるので、ほぼゼロであるもの同士を比べて1.5倍とか2倍とか議論してもあまり実感が湧かない。べつに5倍の格差があったところで、個人にとっては怒る理由がそもそもない。


 で、1票格差問題を論じている人というのは、要するに農村部の老人たちの選好が過剰に国政に反映されているのではないかということを問題にしているわけなので、だったらそのことをストレートに言い続ければいいと思う。若者が多い都市部の選好をもっと国政に反映させるために、逆差別的に東京とか神奈川県の1票の価値を農村の2倍にするという議論をしたっていいはずだ(2倍は違憲ということになってるけど)。私自身は、農村の老人よりも都市部の若者の選好を重視したほうがいいのかどうかはよくわからないが。


 そういう議論をあまりしないで、ひたすら「平等」という観点から論じてしまうのは、なんというか、単なる綺麗事に聞こえてしまう。
 ちなみにこの問題については、最近、マル激の動画で触れられていた。



一票の格差問題を残したまま解散総選挙でいいのか - YouTube

 
 この動画の中では、政治学者の山本達也氏が、非常に正確なことを言っている。

 

山本 憲法上、差異がもし許容される範囲内なのであれば、もし国民のコンセンサスがあるならば、たとえば若者により多くの票の重みを持たせようっていうふうに、政治的なコンセンサスがあれば、そこにあえて、法の下の平等というか違憲判決にならない状態の範囲内であれば、厚みを持たせるってこともあり得る。(中略)この話っていうのは、古くに自民党が、区割りをつくって、自分のところに有利にしてっていう話になってくるんだけど、これももし仮に、日本という国は農村部をとっても大切にするっていうコンセンサスが全日本的にあって、それだったらいいんだけれども、ま、経緯としてはそういう経緯ではない。


 まぁそういうことなのだ。


 あと、「平等」にこだわると厄介な問題もあって、以前のエントリでも書いたのだが、有力な政治家が立候補する選挙区と、そうではない選挙区では、当然有権者1人の票の重みは変わってくる。新人候補を1人選出することと、元総理を1人選出すること(あるいは落とすこと)にはえらい違いがあるでしょ。
 そう考えると、もし平等主義を強調するのであれば、地域によって選べる政治家が異なるということ自体が問題なので、全国区の選挙だけをやれみたいな話にもなってくるんじゃないだろうか。
 
 

結局何が大事なのか

 さて投票に行くこととか、一票の格差を是正することについて、無意味であるみたいな書き方をしてしまったのだが、私はそれぞれに反対しているわけではない。私が言いたいのは、もっと大事なことがあるのではないかということだ。


 上記のような議論の乱れは、「投票」という行為を過度に神聖化してしまった結果起きているものだろう。私は、普通選挙によって政治家を選出するというシステムはまぁ、万能どころか素晴らしい制度であるとすら言えないとしても、他に良い方法も思いつかないのでとりあえずこれでいいと思っている。しかし持論として、投票そのものよりも、「票を集める」という行為のほうが重要だろうと思っている。
 選挙に行って一票を投じることそれ自体は、別にやって悪いことではないのだが、政治参加の形態としては、神聖化されるほど重要なものではない。むしろ、多くの人が投票に行く普通選挙制度が成立していることを前提条件として、言論や運動を通じて徒党を組み、まとまった票を生み出すという活動こそが、政治参加のあり方として大事なんじゃないのか。
 たとえば労働組合のような組織は、「組織票」をまとめる力を持っていて、組合の内部で政治に詳しい人がいろいろ議論をしたり、政治家に直接何かを訴えたりするわけである。こうやって集団がまとまって政治的な行動を取るということや、そのプロセスの中で誰が何をやるかというのはけっこう重要であるにもかかわらず、あまりそのことが理解されていないように思う。
 そういう政治行動について議論も実践もしないままに、「投票所に行く」場面だけが民主的政治参加であると勘違いして、1票の格差がどうしたとか、投票に行かない彼氏とは別れろとか言うのはバランスとしておかしい。


 ベストな政治制度であるかどうかは別にして、とりあえず現行の民主政治のシステムというのは、次のような三層構造で成り立っていると考えればいいんじゃないだろうか。
 まず、普通選挙制度が実現しており、しかも「みんなが投票に行く」という習慣付けが行われていて、これが第一階層をなしている。個々人にとっては投票に行くことはまったく合理的な行動ではないのだが、そういう習慣付けが行われることで、全体としては投票システムが機能するようになっている。 
 その上で第二階層では、色々な組織やオピニオンリーダーが意見を戦わせることを通じて、票が集まったり動いたりするという現象が起きている。その結果として、代議士が選出される。
 そして第三階層では、代議士(政治家)たちが議論をして、具体的な政策を立案したり実行したりしていく。
 まぁ他にもいろいろな層があるわけですが、投票制度に関してはこの3段階ぐらいの理解でいいんじゃないだろうか。ちなみに専門的な議論は全然知りません。


 こう理解した上で、民主主義がまともなものであり得るか否かを考えた時、けっこう第二階層が大事なんじゃないかなと私は思っている。だから、「投票」(普通選挙)という制度は、いったん実現すればそれ自体を神聖視するのはやめたほうがよくて、むしろ民主主義にとっては言論の風通しを良くすることとか、人々が集まって政治的な意見を闘わせることのほうが、はるかに大事なんじゃないかなと。
 集団を組織したり動かしたり壊したりするのが政治的行為なのであって、民主主義にとって大事なのは、より良い集団を作り出すことや、集団をより良く動かすための努力だ。それを通じて「まとまった数の良い投票」を生み出すことが重要なのである。


 日本の世間では、「第二階層」の運動に関わること、つまりたとえば政治運動の集会に参加することとかは、何となく「ヤバいこと」であるとされていて、そういう運動に関わっていることが周囲に知れるとだいたい白い目で見られるのだが、それはおかしいのではないか。(Facebookで知り合いから政治色の強いニュースがシェアされてきたりすると何故か残念な気持ちになってしまうので、私も人のことは言えないのだが。)
 で、そういうことを議論せずに、「彼氏が投票にいくかどうか」とか「1票の格差が2倍以内に収まっているかどうか」ばかり議論するというのは、虚しいような気がしていて、だからそういう記事を読むと反発したくなってしまうわけである。冒頭の記事の筆者自身は、その意味で政治的な実践をしている人だと思うけど。


 まぁ、私も別に第二階層の活動を頑張ってやっているなんてことは全くないので偉そうなことは言えないんだけど(笑)、そういう活動を真剣にやっている人たちには敬意を表さなければならないし(間違った運動をしてる奴は軽蔑すればいいけど)、投票所に行ったぐらいで「立派な政治参加を果たしている」なんて勘違いするのはやめるべきだと思う。「投票に行かない奴には、文句を言う資格はない」なんて物言いもやめるべきだ。
 そういう勘違いがなくなれば、冒頭の記事のような変なことを言う人も消えていくだろう。


 【追記】
 似たような理由で「選挙に行かないやつは政治を語るな」論に対しブチ切れているブログ記事があったので、リンクを張っておきます。私はリバタリアンではないですが、「理由その3」にたいへん共感できますw
 リバタリアンな棄権主義 「選挙に行かないやつは政治を語るな」への反論 - 二十一世紀日陰者小説