The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

イスラム主義に関するメモ

学生時代のメモ

 学生時代につくったイスラム主義等に関するノートがみつかったので、テキストに起こしておきます。べつに専門でも何でもなく、趣味的な関心で読書した範囲でのメモなので、どこまで正しいかは不明ですが。
 だらだらと書き写しただけの部分はあまり読む意味はない気がするので、「イスラム主義に関する大雑把な理解」というまとめ部分だけ読んでもらえればいいと思います。


 なんでそんなノートを発掘したかというと、もちろん、シリアとイラクを広範囲にわたって制圧した武装勢力「イスラム国」(IS)が話題になってるからです。
 参考記事としてはこの辺がいいでしょうか。


 イスラーム国 - Wikipedia
 ISIS、カリフ制イスラム国の樹立宣言:朝日新聞デジタル
 コラム:米国が踏み出した「終わりなき戦争」 | コラム | Reuters
 北大生支援の元教授・中田考氏が語る「イスラム国」 WEDGE Infinity(ウェッジ)
 自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について - 中東・イスラーム学の風姿花伝


 シリアで捕まった軍事オタクの湯川遥菜とか、シリアに行こうとした北大生とかには、あまり興味ありません。が、その北大生を支援したとの疑いで捜査を受けた中田考氏は、日本人がイスラム主義について知る上では、注目すべき知識人の一人だと思っています。
 昨日は、中田考氏のインタビュー動画を2本見ました(前者は有料会員じゃないと見れないです。)


 VIDEO NEWSイスラーム国の論理とそれを欧米が容認できない理由 »
 VIDEO NEWSイスラム国へのリクルートはしていない・渦中の大学教授中田氏が再出演 »


 月会費540円を、この動画のためだけに払っても良いと思える内容ですね。
 中田氏は、日本人にあまり知られていないイスラム側の論理を初歩から解説した上で、イラクやシリアはもはや国民国家としては破綻しており、イスラム的にはその国境線にもあまり意味はないので、今後は
 ①西欧近代と妥協するグループ(これまでの体制派)
 ②それを叩き潰してイスラム主義を実現しようとするサラフィー・ジハード主義者
 ③ムスリム同胞団のように議会制民主主義の枠内でイスラム主義の実現を目指すグループ
 ④シーア派
 という4つのグループの争いという構図で展開していくだろうと言っている。
 また宮台氏は、もともと西欧の自由主義はイスラム教のような規範の根拠(神)を持たないわけだが、それを広めるためにイスラム圏を空爆するという馬鹿げた事態になっていることに触れ、西欧近代の自由主義の化けの皮が剥がれてきたと指摘している。
 イスラム側の立場を想像するのは難しいが重要なことだ。たとえば、スパイ認定されたジャーナリストの首を斬ったのは我々には野蛮に思えるが、少なくとも「公開で斬首する」ということ自体はイスラム圏では普通のこと(牧畜文化で日頃から動物の首を斬ってるので、我々みたいに抵抗は感じないらしい)で*1、見世物として一般的に楽しまれているらしい。もともとそういう文化なので、こないだ「銃殺刑」を執行したら逆に民衆から「なんでちゃんと首を斬らないのか」と批判され、将校が謝罪するという一幕もあったらしい。また、捕虜をたくさん殺したとISが自ら発表しているのだが、人権団体が調べるとじつはそんなに殺してなくて、ISはイスラム圏内部への締め付けのために野蛮さを自らアピールしている面もあるようだ。最近は欧米の「人権」文化向けのアピールも大事だと考え始めてるらしい。
 まぁISはけっこう野蛮だと私は思うけど、ある程度は「文化の違い」分も割り引かないといけないということと、後で述べるように「カリフ制に基づくイスラム国家の建設」という理念自体はさほど過激なものではないとも言える点に注意が必要だと思います。


 んで、こうした動画をみていて、「そういえば学生時代、こういうテーマの本を読んでた時期があったな〜」とか思ったので、自分のEvernoteの中を漁ってみたところ*2、「イスラム・テロ関連メモ」とか「パレスチナ問題 暗記用」と題された手書きメモが発掘されました(笑)
 学生時代(十年ぐらい前)、イスラム関係の本をまとめて読んだ時にメモをつくっていて、それが本棚にあったのを一昨年ぐらいにScanSnapでスキャンしてEvernoteに放り込んでたものですね。
 これを見ると、中田考氏が2001年に出版された『ビンラディンの論理』(小学館文庫)って本も、私は学生時代に読んでたようです。その他いくつか本を読んで、気に留まったことをノートにまとめてたみたいです。
 私の字は汚くて、手書きだとEvernoteに入れていてもOCRで認識されないため、テキストに起こしました。それを以下、貼り付けておきます。*3


 たとえばですが、ファラジュというイスラム主義思想家についてのメモに出てくる、

 カリフ制の施行は、ムスリムの義務であると主張。カリフ制とは、アッラーの統治の地上における確立を意味する。
 カリフ制の復興には、その中核となるイスラム国家の樹立が不可欠である
 イスラム国家を樹立するためには、現在の為政者を放伐するジハードが必要である。
 しかもこのジハードは「防衛ジハード」(イスラム法解釈上、攻めのジハードと守りのジハードは分けられるらしい。)にあたり、すべてのムスリムが個人として義務を負う戦いである。


 という主張なんかは、イスラム国の運動を理解する上でも大事なんじゃないかと思いました。(あくまで私のメモではファラジュのところに出てきたというだけで、多くの人が同じこと言ってるみたい。)

イスラム主義に関する大雑把な理解

 メモのテキスト起こしを貼り付ける前に、自分が大学生のときにイスラム原理主義とかパレスチナ問題とかについて読書した際に、大雑把に言ってどう理解したのかを、思い出しながらメモしておきます。それ以降深くは勉強してないので、正確さにはそんなに自信はないですが。
 イスラム国(IS)の運動を理解する上でもけっこう大事な知識であるように思うので、ISの件にも触れながらまとめることにします。


 まず、イスラム教社会においては「聖」と「俗」の距離が近く、「宗教」と「生活」や「政治」が一体化しやすいということを理解する必要がある。イスラム教の教義は、キリスト教などと比べても、日常の生活習慣などをかなり具体的に規定している。酒飲むなとか、断食しろとか、カネ貸しても利子取るなとか。だから「政教分離」という考えにも馴染みにくく、基本的には「信仰」と「生活習慣」や「社会・政治・経済システム」を一貫させるのが当たり前であるとみなされる。


 そういう話を聞くと、我々は何となく「イスラム=未開社会」といったイメージで捉えてしまいがちなのだが、イスラム教においては「法」というものがかなり高度に発達してきた歴史があることに留意しなければならない。
 仏教やキリスト教ぐらしか知らない日本人からすると、「イスラム法」なんて言われても、「おいおい、宗教者が法律を語るのかよ」って感じで怪しいもののように思ってしまうのだが、イスラム法はそんないい加減なものではないらしい。7世紀以来、イスラム教徒には、「コーラン」と「ハディース」(聖者の伝承集みたいなやつ)に示された「法」を解釈することを通じて、現実の政治上・生活上の問題を解決してきたという長い歴史の積み重ねがある。その法解釈学も学問的に高度に発展していて、けっこう現実的であると
 私は内容をよく知らないが、我々の社会における「法律解釈」「憲法解釈」なんかよりもある面では歴史も長く、一貫性・体系性が高いのかもしれない。この、イスラム法体系のことを「シャリーア」と呼ぶ。
 どんな世俗の行為にも必ず「価値判断に基づく選択」が伴い、価値判断の根拠は突き詰めると「信仰」としか言いようのないものも多く、個人的には「聖と俗の一貫性」を重んじる態度自体は正しいもののように思える。(逆に言うと、宗教から自由であるように見える「合理主義」だって、一種の信仰にほかならないと言える。ただしそこには敬虔さがないが。)


 そういう歴史的背景を持っているので、「イスラム法(シャリーア)に基づく政教一致の社会秩序」というのも、我々がイメージするほど非現実的ではないのかもしれない。
 我々の社会は、宗教の教義を発達させて政治や生活上のルールを作り上げるという積み重ねを持たなかったので、教義はけっこう抽象的で精神性が強い。そういうもので政治や生活を律しようとすると当然無理が出てくるのだが、イスラム教の教義は逆に、「現実の生活に使える」度合いがもともと高いということだ。
 たとえば「神道の教義に基づいて殺人犯を裁く」とか「キリスト教の教義に基づいて政治家の汚職事件を裁く」とか言っても、ブレが大きすぎて収拾がつかないだろう。しかしイスラム教はその収拾をつける努力をしてきた歴史を持っているわけである*4
 イスラム教ではウラマーと呼ばれる法学者が非常に活躍するのだが、これはコーランやハディースに書かれていることを解釈して現実の状況にどのように適用すべきかを考える人たちで、我々の社会でも裁判官・学者・役所が同じことをやっている。憲法や法律は抽象的にしか書かれていないので、目の前で起きた「今回の事案」についてどう判断すべきか、法令、判例、学説をたくさん集めて総合的に「解釈」を施すわけだ。


 また、今でこそアラブ諸国は後進国みたいになっているが、もともとはとても進んだ文明を持っていた。ウマイヤ朝やアッバース朝の時代から、13世紀に生まれて20世紀に滅びるオスマン帝国まで、イスラム国家は世界史上の大勢力であり続けてきた。アリストテレスなど古代ギリシア時代の学問が、西欧ではなくイスラム圏で温存され、それが近代になって西欧に逆輸入されたというのも有名な事実である。
 ただ、イスラムの教義はけっこう保守的なので、イスラム圏の人たちの文化はどうしても「資本主義」や「民主主義」になかなか馴染めない構造になっている。キリスト教は、人々の生活を律するルールに関して細かい指示をしない宗教であり、聖書を読んで祈ってればOKなので*5、あまり宗教的教義に縛られることもなく世俗パワーを追求し、一気に近代化できた。一方、イスラム教は教義が具体的であるために、それが難しい。また、もともとイスラム教圏はとても平等主義的な社会だったので、格差を許容する資本主義とは馴染みにくいと同時に、民主主義をことさらに追求しようというモチベーションも生まれにくいという事情もあるらしい。


 ところで、オスマン帝国においても、けっこういろんな宗教や民族が混じっていたし、巨大な帝国であったので、イスラム法が厳密に施行されていたわけでもなく、そういう世俗的な政治体制と宗教的な理想のあいだの葛藤は、常に存在したのだろう。何しろ元祖イスラム主義者であるイブン・タイミーヤは13世紀の人で、イルハン国の君主を「イスラムに改宗したけどあんなのはまがい物だ」とdisっていたらしい。
 また近代になると、帝国主義で西欧の列強が入植してきて、勝手に土地を分割していった。そういう欧米と結託するイスラムの為政者もいたし、ある程度は資本主義・民主主義・近代科学を導入しなければ国が滅びてしまうという状況にもなってきた。それで、イスラム圏の内部でも「近代化」(西欧化)を志向する人たちが、政治的には実験を握っていった(とくにエジプトなど)。
 しかし、教義と生活習慣が密接に関連しているイスラム教徒にとって、イスラム教を信仰しながら西欧近代に順応していくというのは、やはりどこかで無理が出てくるものあった*6。それで、まずエジプトで、世俗化・西欧化を志向する為政者に対して「イスラム法をきちんと守れ」と主張するイスラム主義運動が起こってきたわけである。


 ここで大事なのは、イスラム原理主義というのは、べつにアメリカ人など異教徒の文明を攻撃するために生まれた運動なのではなく、もともとはイスラム圏内部の「背教者」を攻撃するための運動であるということである。
 また、確かに過激な組織も多いものの、もともとは単に「信仰」と「生活習慣」や「社会制度」を一貫させたいというだけのモチベーションでやっているのであって、実際に信仰と生活を結びつけるイスラム法の高度な体系を持ってもいるので*7、彼らの主張自体が狂気じみているかというとそんなことはないだろう。ムスリム同胞団のように、穏健なイスラム主義組織もあるし。
 イスラム国家が誕生すると異教徒が排除されたり、信教の自由とかが存在しない息苦しい社会になるのではないかとも想像されるが、実際にはイスラム教も長い歴史の中で、異教徒との関わりを持ちながら法体系を発達させてきたので、中田考氏の解説によるとけっこう柔軟なようだ。異教徒は単に「無知者」とみなされるだけで、無知者にはイスラム教上の義務が発生しないので、べつにイスラムの教義に反することをしていても罰せられないとかね。
 いま暴れまわっているイスラム国(IS)は、けっこう野蛮だと思うし、統治能力もないんじゃないかと思う。あくまで、その目指しているところのものは過激なものではないよねというだけだ。


 ISは「カリフ制」を施行するために国らしきものを作っているわけだが、カリフ制というのは言ってみれば、信仰と一体化した行政・司法システムのことだ。何か問題が起きた時に、カリフを頂点とするイスラム法学者の組織が議論を重ねて、イスラムの教義上どうするのが正しいのかを判断していく。カリフは預言者ではなくあくまでその代理人なので、超越的な権威はなく、いわば首相みたいなものである。
 これはイスラム教の教義上どうしても必要とされているものであって、「カリフ制を敷いていない現在のイスラム社会は、アッラーの意思に反しており、とてもまずい」という意識は、宗派の壁を超えて広くイスラム教徒に共有されていたらしい。
 イスラムの教義からすれば、欧米的な意味での国民国家という単位はどうでも良いし、ましてや欧米諸国が入植してきて勝手に引いた現在の国境線なんてどうでもいい。だからまぁ、カリフ制に基づく大きなイスラム国家を建国するというのは、必然といえる面もあるんだろう。
 また、定義にもよるとは思うが、民族的・文化的なまとまりとしての共同体(ネーション)と、政府を中心とする行政機構としてのまとまり(ステイト)を、なるべく一致させるように作られてきたのが「ネーション・ステイト(国民国家)」である。そう考えると、「カリフ制に基づくイスラム国家」というのも、欧米的な国民国家と全く異なるわけではなく、「そういう国民国家」が誕生するだけだとも言えるかも知れない。欧米主導で作られてきた国際法の秩序とは合わないところが出てくるとは思うし、そもそも宗派間の対立が結構あって統合も難しいだろうけど。


 なお、パレスチナでもテロが起きているが、これはイスラム主義の問題というよりはユダヤ人との軋轢の問題だ。欧米と妥協するかイスラムの立場を貫くかという意味では似てるかもしれないが。パレスチナ問題は、アラブにもイスラエルにもそれなりに言い分があって、解決方法はなかなか見つからないと思われる。

イスラム・テロ関連メモ

 以下、学生時代のメモを書き写しておきます。イスラムのテロの背景→イスラム用語集→イスラム主義の人物や組織の概要の順です。

イスラムのテロの背景

 藤原和彦の『イスラム過激原理主義』や中田考『ビンラディンの論理』を読んでのメモ。
 イスラム原理主義組織はエジプトで生まれたのだが、彼らのそもそもの目的は、シャリーア(イスラム法)をきちんと施行するイスラム国家の確立にある。*8
 したがって、もともとイスラム原理主義の「敵」は、アメリカとか異教徒ではなく、反・シャリーア的な国内政権であった。だから、アメリカをはじめとする欧米諸国は、アラブから手を引けば、確実に「テロの対象」からは外れるといえる。
 
 
 イラクのこれからの統治について。
 「イラク民主化」というが、イラクの民主化という言葉が何を意味するかといえば、それはイラクの「イスラム主義化」にほかならない。例としては、92年のアルジェリアの民主化が参考になる。*9
 イスラム教徒の民意は、シャリーアの適正な施行にあるのであって、西欧的な意味での民主主義が望まれているわけではない
 アラブの独裁政権は逆に、国内のイスラム主義者を非民主的な手段で抑えこむことによって、欧米との交易・対話を可能にしてきたと理解する必要がある。


 イスラム主義は、エジプトなどで学問的にどんどん成熟してきたという歴史がある。教育が大衆化したことにより、大衆的にもイスラム主義が広がっていった。
 イスラム主義においては、欧米型の民主主義は望まれない。20世紀には、欧米とのつながりを重視する非シャリーア的政権運営と、民衆に広まったイスラム主義が対立するようになった。
 政権はこの民意を弾圧してきた。となると、イスラム主義者側には武装闘争しか道がなくなる。政府はあくまで弾圧してきたので、武装闘争も激化していった。

イスラム用語の語源・原義

シャリーア(シャルウ):イスラム法秩序のことを意味するが、もとは「水場への道」の意味。つまり砂漠のなかで、水飲み場へと通じている主要な道路のこと。これが転じて、貴重な場所に通じる道の意味となり、そこを歩んで行きさえすれば、決して誤りのない道という意味になる。


イマーム:シーア的霊性の最高権威者で、原義は「前に行く人」「先導者」。スンニ派では、金曜礼拝の儀式の指導者を指し、用語としてややこしい。スンニ派の最高権威者には「カリフ」という用語が使われる。


カリフ(ハリーファ):スンニ派において、イスラム世界の統治を司る最高権威者であり、「預言者の代理人」を意味する。要は、ムハンマドが死んだあとに、アッラーの意思についての解釈を行う上での元締めのような役割。


ウラマー:アーリムの複数形で、「知者」の意味だが、学問的・理性的に物事を考えて知る人を指す。
ウラファー:アーリフの複数形で、これも「知者」の意味だが、非理性的な直観、霊感によって事物の深層を知る人を指す。


スンニ派(スンナ派):スンニとはもともと習慣という意味で、イスラムの教義として定められた生活習慣をきちんと履行することに重きをおく。
シーア派:シーアとはもともと党派という意味で、これはアリーの党派(シーア・アリー)から来ている。ムハンマドの親戚であったアリーとその子孫が「イマーム」としてイスラム共同体を指導しなければならないと考えている。ただし、イマームは途絶えてしまって存在しないことになっている。


イジュティハード:意味は『コーラン』や「ハディース」を個人が自由に解釈して、法的判断を下すこと。原義は「努力。ハディースというのは、「伝承」「聖伝承」のことで、コーランとともに、イスラム教の教義の根幹をなしている。

人物:アハメド・イブン・タイミーヤ

 1263年〜1328年。
 イスラム主義の思想家として最も重要。*10
 「ウンマ内部のジハード」論を初めて唱えた。ウンマとは、イスラム社会のこと。
 イブン・タイミーヤ以前は、ムスリムである支配者への反乱は、いかなる専制者に対しても禁止されていた。
 イル汗国のモンゴル人支配者はイスラム教に改宗したが、当時ダマスカス(現在のシリアの首都)でシャリーア教授をしていたイブン・タイミーヤは、「イスラムの本質を欺く専制者である」として非難した。
 当時、トルコ人やモンゴル人などがイスラム世界に流入していたが、単に信仰告白を唱えるだけで、一人前のイスラム教徒であると認めていいんだろうか?という疑問が、ムスリムの間に起こっていた。
 そこでイブン・タイミーヤが、「信仰告白を行っても、その言動がシャリーアに背くならば、ジハードの対象となる」と宣言し、「内部のジハード」論を主張した。
 これにより彼は、「過激原理主義の祖」と呼ばれる。

人物:サイイド・クトゥブ

 ビンラディンも「2人の師」の1人として挙げている、エジプトのイスラム主義思想家(会ったことはないらしい)。
 獄中で著した『マアーリム・フィー・アッタリーク(道標)』の中で、「ジャーヒリーヤ論」を展開した。
 もう一つの理論は「神の主権(ハーキミーヤ・リッラーヒ)論」。


 ジャーヒリーヤ論は、イスラム過激原理主義の中核思想。ジャーヒリーヤとは「無知・無明」の意味で、イスラム強化以前のアラビア社会のこと。1200年にわたって、ジャーヒリーヤ社会は消滅したものと考えられていたが、クトゥブは、世俗主義のナセル大統領がムスリムを弾圧しているエジプト社会はジャーヒリーヤにほかならないと断罪した。
 「神の主権」論は、西欧の主権在民(ハーキミーヤ・バシャリーヤ)を否定したもの。
 
 
 1906年、上エジプトのアシュニトの富農の家に生まれる。
 公務員になるが、詩・評論で名を馳せる。
 1949年〜51年にアメリカに留学し、アラブ・ムスリムに対する偏見と、アメリカ社会自体の道徳的頽廃を目の当たりにし、反欧米感情を強める。
 帰国後まもなく、「ムスリム同胞団」に加入。すぐにチーフ・イデオローグとなった。
 1954年に、同胞団員がアレクサンアドリアでナセル大統領を襲撃。ナセルは同胞団を大弾圧し、クトゥブも逮捕された。
 1964年、獄中で『道標』を著し、出版される。
 同年、恩赦で釈放されるが、65年8月に、煽動罪で再び投獄される。法定で「ジャーヒリーヤ」論を説き続け、66年8月29日に獄中で処刑された。
 1982年、同胞団の第三代総ガイド、オマル・テルミッサーニが、「クトゥブはムスリム同胞団を代表していない」と絶縁を宣言。

人物:ムハンマド・アブド・アル=サラーム・ファラジュ

 ムハンマド・ファラグとも呼ばれる。
 ジハード団の理論家である。1980年にジハード団のメンバーになった。
 自分の思想をまとめた小冊子『隠された責務(アル・ファリーダ・アル・ガーイバ)』を配布して、以下のように主張した。


 カリフ制の施行は、ムスリムの義務であると主張。カリフ制とは、アッラーの統治の地上における確立を意味する。
 カリフ制の復興には、その中核となるイスラム国家の樹立が不可欠である。
 イスラム国家を樹立するためには、現在の為政者を放伐するジハードが必要である。

 しかもこのジハードは「防衛ジハード」(イスラム法解釈上、攻めのジハードと守りのジハードは分けられるらしい。)にあたり、すべてのムスリムが個人として義務を負う戦いである。


 為政者は、イスラムの教えに背くことでクフル(不信仰)に陥り、支配の正統性を失っている上、敵の「カーフィル」(不信仰者)に転化する。
 彼らが支配しているのだから、彼らはムスリム社会に対する侵略者であるといえ、為政者に対するジハードの義務がムスリム全員に生じているのだ。
 更に、イスラム法では、

  1. 背教者へのジハードは、生来のカーフィル(不信仰者)へのジハードよりも優先される
  2. 遠くの敵よりも、近くの敵へのジハードが優先される

 と定められているので、まず自国の為政者と戦わねばならないのである。  

ムスリム同胞団

 イギリス支配から脱却を目指す民族運動が高まった1928年、エジプトの中学教師であったハサン・アル・バンナーが結成した。
 現代イスラム原理主義の先駆といえる。
 「イスラムこそが解決の道」をスローガンに、西欧文明とは異なる「イスラム社会」化の徹底を目指す。
 しかし、テロは基本的に否定。非合法組織ではあるが、エジプト最大の政治勢力である。バンナーは、1949年に秘密警察により暗殺された。

組織:ジハード団

 1960年に創設(かな?)
 創設者は、ナビール・アル=ブライー。
 思想的原点は、当時イスラム法を施行しなかったタタール(イル・ハーン国)へのジハードの義務を説いたイブン・タイミーヤ(1263〜1328)のファトワー。(ファトワーとは、イスラム法学者による勧告のこと。)
 1968年に、武器を調達し、軍事訓練を開始。
 1973年の第4次中東戦争(ラマダン戦争)のときに、対イスラエルの前線に向かい、軍との接点を持つ。
 イサーム・アル=カマリー陸軍少尉が入団し、以後、国軍に浸透していく。
 

組織:タクフィール・ワ・ヒジュラ団(断罪と逃亡団)

 サイイド・クトゥブの「ジャーヒリーヤ論」を初めて実践した団体。
 創設者はシュクリ・ムスタファ。
 シュクリは「ムスリム同胞団」のメンバーだったが、1965年のナセル大統領による同胞団弾圧で逮捕・投獄された。
 ほかのメンバーがあっさり拷問に屈したので、見切りをすけて、獄中で自ら「断罪と逃亡団」を結成した。


 1971年に釈放された。以後、組織を拡大していった。
 ジャーヒリーヤに汚染されていない諸地域に逃亡(ヒジュラ)して勢力を拡大し、エジプトに凱旋してイスラムを改革するというのが理想であったが、仲間の一部が砂漠生活に耐えられず帰郷していった。これを連れ戻そうと追いかけたメンバーが警察につかまった。サダト政権の有力者(元宗教財産相のザハビー氏)を誘拐し、人質にとって、仲間の解放を要求したが、拒否されたので、ザハビー氏を殺害。ザハビーの両耳を切って治安当局に送りつけた。
 サダトに弾圧され、204人が逮捕。1978年3月に、シュクリら指導部4名が処刑された。

組織:イスラム集団

 1970年代、上エジプトの各大学に存在した原理主義学生グループの連合体として発足した。
 指導者の大卒メンバーのほとんどが、医・工・農といった一般学部の卒で、イスラム関係学部出身者はほぼ皆無であった。
 指導部の大半は、80年代にソ連軍と戦った「アラブ・アフガンズ」。
 1979年3月にエジプトのサダト政権がイスラエルと単独和平を結んだことや、1979年1月と80年3月に元イラン国王パーレビの亡命を受け入れたことに怒り、イスラム集団は「サダト政権妥当」を決意した。
 

組織:暗殺教団(ヨーロッパでは「アサシン」と呼ぶ)

 イスラム教のイスマイール派から生まれたニザール派というグループに属する。
 イスラムの教えに背くムスリム、特に権力者に対しては、大麻(ハッシシ。アサシンの語源)を使用した暗殺手法で、次々に排除していった。
 

ヒズボラ(ヒズブ・アッラー=神の党)

 レバノンのシーア派組織。
 1983年10月23日に、内戦に乗じてレバノンの駐留していたベイルートの米海兵隊本部に、爆弾を積んだトラックで突っ込み、ビルを倒壊させ、241名の海兵隊員を死傷させた。
 これを機に米軍はレバノンから手を引いた。
 その後、対イスラエル武装闘争を断続し、2000年5月には1982年以来レバノン南部を不法占拠してきたイスラエル軍を追放。

組織:ハマス

 パレスチナの原理主義組織。
 (これだけしかメモに書いてなかったw)

組織:イスラム聖戦

 パレスチナの最強硬派。

宗派:ワッハーブ派

 18世紀半ばに、ムハンマド・イブン=アブドゥル=ワッハーブ(1703-1792)が創始した。
 彼は各地を遍歴するなかで、ウンマ(イスラム社会)の衰退を目の当たりにし、それは原始イスラームが中世のスーフィズム(イスラム神秘主義。密教みたいなやつ)に汚染されたからだと考え、コーランとスンナ(慣習)による純粋な古典イスラームへの回帰を目指した。
 一豪族であったサウド家のムハンマド・イブン=サウードと組んで、聖樹・聖石・聖者の廟などを破壊。(偶像崇拝だから?)
 オスマントルコのスルターン(君主)の命により、エジプト=トルコ連合軍が1818年に鎮圧した。
 まもなく復活するが、エジプト軍の攻撃とサウード家の内紛により崩壊。今日のサウード王国(サウジアラビア)が成立するのは1920年代。

パレスチナ問題 暗記用

 以下、パレスチナ問題についてメモっていたのを書き写します。
 あくまで単なる大学生のメモなので、勉強のためにはWikipedia(パレスチナ問題 - Wikipedia)を読むことをおすすめしますが。

前史

 西暦70年 ローマ軍の迫害により、ユダヤ人のディアスポラ(離散)
  ↓
 中世以降 キリスト教徒による迫害。
  ↓
 19世紀末 ロシアを中心に「ポグロム」と呼ばれる迫害。
 1897年 シオニスト会議はじまる。

第1次世界対戦(1914〜)

 オスマン帝国がドイツ側にまわったため、英・仏・露はオスマンの支配下で独立を狙っていたアラブ民族に反乱を促す。
 メッカの知事フセインが、イギリスのエジプト高等弁務官アーサー・マクマホンと往復書簡を交わし、「反乱」と「アラブ諸国の独立承認」で取引合意(フセイン・マクマホン往復書簡)
  ↓
 1916年6月 メッカのフセインは、オスマン守備隊を攻撃。このときアラブ軍に加わってイギリスとの連絡にあたったのが、「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンス。
しかしイギリスは、「アラブ独立」という約束を果たさない。
  ↓
 1916年5月 英仏が、大戦後はオスマン帝国の支配地を分け合うという密約を結ぶ。(サイクス・ピコ協定)
  ↓
 1917年11月 イギリス外相アーサー・バルフォアがイギリス国内のユダヤ人・シオニストグループの代表に、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人のNational Home設立を支持する」との書簡を送る。(バルフォア宣言)
 イギリスとしては、中東を支配するにあたって、植民地経営を成功させるために、イギリス側に立ってくれるユダヤ人をパレスチナに入れようとした。
  ↓
 ユダヤ人のパレスチナ移住が加速。

第1次世界大戦後

 イギリスはフランスとのサイクス=ピコ協定を重視。中東を分割統治する方向へ。
 1919年パリ講和会議では、アラブ代表ファイサル(先のフセインの息子)がシリア、イラクの独立を宣言するが、英仏は不承認。
 アラブ側が反乱するが、即鎮圧される。
 ↓
 不満を抑えるため、イギリスの制作で、広大なシリアからレバノン・パレスチナ・トランスヨルダンが分割される。
 1927年にはイギリスの承認でサウジが独立。エジプト、イランも独立。

第二次世界大戦後

 ナチスのホロコーストもあり、国際世論はユダヤ人に同情的に。
  ↓
 この流れに乗って*11、ユダヤ人のパレスチナ移住が急加速。テロもやる*12。イギリスの手にもおえなくなる。
  ↓
 1947年11月29日、国連がパレスチナ分割決議。
 これは、パレスチナの56%をユダヤ人国家、43%をアラブ国家、残り1%=エルサレムは国際管理地区とするという案。
 イスラエルは独立し、米ソはこれを支持した。
 しかしパレスチナの56%がユダヤ人のために分け与えられるという案に、アラブ人は怒った。
 

第1次中東戦争

 1948年5月15日、エジプト、トランスヨルダン、イラク、サウジアラビアが、イスラエルを攻撃。シリア、レバノンもこれに加わる。
 兵力はアラブ15万、イスラエル3万だったが、イスラエルのほうが有利に戦った。
  ↓
 1949年6月、国連の停戦決議受け入れ時に、イスラエルの国土はパレスチナの77%にまで拡大していた。
  ↓
 エルサレムは東をトランスヨルダン、西をイスラエルが管理。パレスチナの残りはヨルダンとエジプトが分割統治。
 
 

第2次中東戦争

 1952年、エジプトでナセル革命。
 ナセルはアラブ民族主義者で、英仏が経営していたスエズ運河を国有化。イスラエル船の航行を禁止し、ソビエトから武器を購入。
 これにより、エジプト⇔イギリス・フランス・イスラエルのあいだが緊張する。
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 1956年10月、イスラエルとエジプトが戦闘を開始する。
 わずか3ヵ月でイスラエルがシナイ半島を制圧。
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 長期化するとソ連が介入してくるので、アメリカが圧力をかけてイギリス・フランス・イスラエルを撤退させ、PKF(平和維持軍)を投入した。
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 なお、1964年、アラブ諸国はPLO(パレスチナ解放機構)を結成した。

第3次中東戦争

 第2次中東戦争のあとも、ユダヤ人のイスラエル移住は増える一方。
 イスラエルはゴラン高原(非武装地帯とされていた)にも入植を開始した。
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 1967年4月、シリアとイスラエルの間で銃撃戦が起きた。
 シリアはエジプトに援軍を要請。ナセル大統領は兵力をシナイ半島に集め、PKFを撤退させた。
 しかしイスラエルの専制奇襲によって、エジプト軍は壊滅。シリア、ヨルダン、イラクに対しても攻撃。その後もアラブ軍は地上戦で敗戦を続ける。
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 イスラエルは、エジプト領シナイ半島及びガザ地区、ヨルダン領のヨルダン川西岸、シリア領のゴラン高原を占領。6日間で戦闘は終結。
 ヨルダン川西岸とガザ地区はイスラエル領となり、これでパレスチナ全土がイスラエルのものになった。
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 翌年、アラファト議長率いるファタハが、イスラエル・ヨルダン国境でイスラエルと戦う。メンバーが1万人に増え、PLOを乗っ取る。アラファトが議長に。
 エジプトはPLOを承認。ソ連もこれを支援。反イスラエルのアラブ諸国と、反米の共産主義グループなども支援。
 しかし危ないので、ヨルダンのフセイン国王はこれを掃討した。PLOはレバノンへ逃げる。
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 レバノン国内で、パレスチナ人(イスラム教徒)とキリスト教徒の内戦が勃発。

第4次中東戦争

 1973年10月6日 スエズ・ゴラン高原でアラブ軍がイスラエル軍を奇襲。緒戦はアラブ側に有利に展開(ソ連の支援があったので)
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 しかしアメリカがイスラエルを支援したので、結局、イスラエルの支配地域は変わらず。
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 この戦闘後、オイルショック
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 1977年11月19日、エジプトのサダト大統領がイスラエルを訪問。
 1978年 キャンプデービッド合意(米カーター大統領の仲介により)
 1979年3月26日 エジプト・イスラエル平和条約が締結され、エジプトがシナイ半島を回復。
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 エジプトはアラブ諸国と国交を断絶
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 1981年10月6日 サダト大統領が暗殺される。
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 1989年12月 ガザ地区でパレスチナ人の車両2台とイスラエル軍のトレーラーが衝突死、パレスチナ人4人が死亡する事件が起きた。
 この葬儀で暴動が起きた。これがいわゆる「インティファーダ」(抵抗運動のこと)の始まり。
 

湾岸戦争後

 アメリカが仲介しようとするが、失敗。
 国際中立国ノルウェーのホルスト外相の仲介により、
 1993年9月 オスロ合意
 1993年9月13日 ホワイトハウスでアラファト議長(パレスチナ)とラビン首相(イスラエル)がパレスチナ自治承認の調印。パレスチナ側は敵対行為を放棄することと引き換えに、1999年5月にはパレスチナ独立国家をつくろうという約束*13
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 その後、イスラエルの入植地域からの撤退が進む
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 1996年1月 パレスチナ自治区内で、パレスチナ立法評議会選挙が行われ、アラファト議長がPLO議長に。(ただし、1995年11月にラビン首相はパレスチナ自治反対派の学生に暗殺されている)
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 ペレス首相(イスラエル)就任
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 1996年 ネタニヤフ首相(強硬派)就任。イスラエル軍の撤退は中断され、ユダヤ人入植地が拡大していく。
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 パレスチナ側はテロで応じる。
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 1998年10月 米クリントン大統領が仲介に入る。(1999年5月のパレスチナ独立は断念)
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 1999年7月 バラク首相(和平派)が就任。交渉が再開したが、合意はできず。主にエルサレムの帰属問題がネックとなった。
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 2000年9月28日 イスラエルでは、リクード(政党名)の党首シャロンが、パレスチナ側が権利を主張する東エルサレムの聖地、神殿の兵を訪問。
 パレスチナ側のインティファーダが再開し、バラクは失脚。
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 2001年2月6日 シャロンが首相に。
 以降、テロ、暗殺の応酬が続く。
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 「9・11」テロ後の9月26日、ガザでパレスチナ・イスラエルの停戦合意。しかしその後も戦闘は散発し、合意は危機に。 

留意点

 これらのメモは、大学生のときに一時期、イスラムとか中東問題に関する本を十数冊買ってきてまとめて読んだときにつくったものです。
 また、Evernoteの中から、藤原和彦『イスラム過激原理主義』、中村廣治郎『イスラームと近代』、小室直樹『日本人のためのイスラム言論』、小室直樹『アラブの逆襲』といった本の要点をメモった紙もみつかったのですが、タイピングが疲れるのでテキスト起こしはやめておきます。
 井筒俊彦の本のメモが見つかったら起こしておこうとも思ったのですが、これは見つからず。岩波文庫の『イスラーム文化 その根柢にあるもの』とか、すでに古典ですよね。
 
 
 私はべつに深く勉強したわけではなくて、大学生のときにイラク戦争などが勃発し(2003年)、ニュースとかで話題になっていたのでちょっと本を読んでみた程度のものです。正確かどうかはあまり自信が持てませんので、Wikipediaとかを見てもらったほうがいいとは思いますね。
 ただ私自身は、自分でメモったものなので、これを再度書き写していると記憶が鮮明になってよかったですw

*1:捕虜を殺すのもイスラム法では認められている

*2:ここ数年、家の本棚にあるものはなるべくScanSnapでスキャンしてEvernoteに放り込み、紙は捨てるようにしています。私のEvernoteにはイロイロ放り込まれているので、自分でも何を入れたかあまり覚えてないのですが、検索で掘ると昔保存して忘れていた資料が見つかったりして、刺激になることがありますね。

*3:メモには出典(どの本の何ページに書いてあったか)もある程度書いてありましたがめんどうなので省きました。

*4:具体的にどういうものかは私はほとんど知らんけど。

*5:あまり簡単に言い過ぎると怒られるだろうけど

*6:ただ、中田考氏も言うように、大多数の民衆は単に生きていければよくて、そこまでこだわりはないのかも知れないが。

*7:私は中身を知らんけど

*8:イスラム法というのは、我々がイメージするよりもかなり根深くイスラム教徒の心理や文化を規定している。自分たちの伝統文化に則った社会を作りたいという、単純で素朴な気持ちを、想像する必要がある。

*9:これ、いまの「イスラム国」現象を理解する上でも大事な指摘だったと思う。

*10:中田考氏も、もともとイブン・タイミーヤの研究者だったらしい。

*11:元のメモでは「調子に乗って」と書いていたが、べつにユダヤ人に批判的な意味ではなく、大学生だからノリがわかりやすいように書いてたのだろう。

*12:意味がよくわからない。ユダヤ人もテロをやっていたということか。

*13:いまウィキペディアの「オスロ合意」の項と見比べたら少し違うが。