The Midnight Seminar

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アリストテレス『政治学』

政治学 (西洋古典叢書)

政治学 (西洋古典叢書)


 アリストテレスが『政治学』のなかで「男は38歳、女は16歳で結婚するのがベスト」と言っていた箇所はどこだっけ?と思って、自分のEvernote(文書管理アプリ)を検索してみたら、目当ての記述は見つからなかったけど大学生のとき(たぶん3年生)に書いたレポートが出てきた(笑)
 ホリエモンとか出てきて、、時代を感じるが……。
 読書感想文の課題みたいなやつだったと思うけど、何の授業だったかは全く思い出せない。なんか要約しただけなのでレポート自体は面白くもなんともないけど、まぁたかだか一授業の課題だしそれは良いとして、こうしてみるとアリストテレスの『政治学』ってけっこう面白げな本だったんだなとはおもった。

 アリストテレス著『政治学』について
 (課題図書:アリストテレス『政治学』牛田徳子訳, 京都大学学術出版会, 2001年) 


 〈アリストテレスの『政治学』〉 
 アリストテレスの『政治学』は、これまでに私が読んだことのある古典的な思想書のなかでも、とりわけ刺激に富んだものであった。というのも本書が、2300年以上も前に著された作品であるにもかかわらず、現代にまで通じる議論を少なからず提起しているからである。
 もちろん、本書で扱われているのは(時間的にも空間的にも)我々から遠く離れた政治社会なのであって、その内容を我々が直接受け入れる必要はないだろう。しかし柔軟な態度をもって本書に取り組んでみれば、現代日本の政治について考える上でも、多くの示唆が得られると私は思うのだ。


 
 〈最高の学問としての政治学〉 
 まず本書に入る前に重要だと思われるのは、アリストテレスによる「政治学」という学問の位置づけである。『ニコマコス倫理学』においてアリストテレスは、政治学を「最も統括的であり、何にもまして支配的な知識」だと言っているが、それは要するに政治学が、「我々はいかに生きるべきか」という問いに答えんとする学問だからである。「一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである」とソクラテスは言った。では、具体的にどう生きるのが「善く生きること」に当たるのか?──それを考えるのが「政治学」だということである。


 
 〈国家論と家政論〉 
 善く生きるために必要な「徳」を身につけるためには、「自然・習慣・理知」の力が必要だとアリストテレスは言う(課題図書381頁。以下、頁数の指示は課題図書のもの)。このうち、少なくとも「習慣」について語るために、われわれは「共同体」論を必要とするだろう。さらに我々人間は、自足的に生活するために「共同体」を必要としているのであり、「あらゆる自足の要件を満たした、終局の共同体が国家である」(8頁)。それゆえ「人間は自然によって国家的(ポリス的)動物」(9頁)なのであって、政治学は、「国家」について論じることを避けるわけにはいかないのである。
 国家についての考察を始めるにあたって、アリストテレスはまず「家政」における、原初的な支配関係と、財の獲得術について分析する。この後者、財の獲得術に関する考察は、要するに「経済学」のことである。あまりにも素朴な経済学ではあるが、たとえばそこで批判されている「動産を守らなければならないとか、際限なく殖やさなければならないと思ってやまない」(33頁)生き方は、現代でいえばホリエモンのような人々の生き方に通じているようで興味深い。


 
 〈現実の国制、国制論の比較分析〉
 第2巻に移ってアリストテレスは、何人かの論者による国制論、そして現実に存在する国制について、比較・分析を行う。これは、現代的な意味での「政治学」的な研究に近いと思う。そしてまた、具体的に論じられる問題にも、現代に通じるようなものがいくつかある。
 たとえば、プラトンは国家が可能なかぎり一つになることを最善としたが、アリストテレスは「家も国家もある程度は一つになるべきであるけれども、完全に一つであってはならない」(61頁)と主張する。アリストテレスは、「統一性」と「多様性」のバランスが大事なのだと言いたいのであろう。これはきわめて常識的な判断である。「統一性」と「多様性」、「全体主義」と「個人主義」のあいだの葛藤は、おそらく古今東西を問わずあらゆる国家につきまとう課題であるが、それは「両者のバランスをとる」という最も微妙な方法によって処理されなければならないのである。
 また、アリストテレスが法制度の改革には慎重であるべきだと言っている箇所にも注目したい。現代日本の社会では、たとえば小泉内閣が「改革なくして成長なし」と叫び、マスメディアもとにかく「新しさ」を求める傾向にある。我々は、「法は、習慣による以外には、人をしてそれに服従させるいかなる力ももっていない」(85頁)のであり、法や習慣の体系を安易に改革すれば、それは「法の力を弱める」(86頁)ことになるのだということについても、考えてみるべきなのではないだろうか。


 
 〈市民と国制〉
 第3巻から、国制についての本格的な議論が始まる。
 まず、国家の構成要素としての「市民」とは何なのかが検討され、それは「審議と裁決に関する公職に参与する資格のあるもの」(116頁)として定義される。
 そして、国家を支配するものが「公共の利益」を重んじるかどうかによって、国制は正しいものと逸脱したものに区別されるのであり、また支配者が一人か少数か、あるいは多数かによっても区別されて、「王政」「貴族制」「国制」、「僭主制」「寡頭制」「民主制」という国制の6分類が導かれる。
 ここで、「国家共同体が存在するのは、たんにともに生きることのためではなく、善美なことを実践するためにあると定めるべきである」(141頁)ということが再確認されているのは重要である。国家は、単なる経済的な交易や共同防衛のための協定ではないのだ。我々日本人が「国益(national interest)」について語るとき、それは主として「国民の生命と財産」のことを指している。だが本来、国民の関心(national interest)には、「善美なこと」についての共通の価値観が含まれていなければならないということである。
 同じ第3巻でもう一つ興味を惹くのは、「法こそが、もし正しく制定されるならば、主権をもつべきだ」(148頁)という、「法の支配」(169頁)の思想である。「法の支配」といえば、我々学生はイギリス市民革命期の思想として教わったのを思い出すのだが、市民革命に先立つ「マグナ=カルタ」から数えてもじつに1500年以上も前に、アリストテレスがすでに論じていたことだったのである。
 市民革命との関わりで言われるのは、主として君主の権力を制限するための「法の支配」であろうが、アリストテレスは、権力者が民衆の場合であっても「法の支配」が大事なのだと言う。この考え方は、我々がたとえば「人権」の問題を考えるにあたって、「まず始めに個人の人権ありき」の極端な人権主義に陥るのを防いでくれるだろう。人に権利を与えるのはルールなのであり、「法」の秩序があってこその「人権」なのである。


 
 〈各種の国制の分析・比較検討〉
 さて、この後アリストテレスは、「平等」についての考察から「王制」の問題を引き出したのに続いて、すでに述べられた6種類の国制について詳細な分析と比較検討を行っていく。
 アリストテレスの探究の目的は、「絶対的に最善」の国制のみならず、「状況からみてできるかぎりの最善」の国制や、「あらゆる国家にもっとも適する」国制を知ることである(179頁)。「絶対的に最善」の国制とは、「必然的に最善の人びとによって治められる」(175頁)国制であり、それは貴族制の最上のもの、ないし王制ということになるが、おそらく現実的とは言いがたいものであるために、これについてあまり多くは語られない。
 むしろアリストテレスは、現実に可能な国制に重点を置いている。そして現実にありうる、最大多数の国家にとって最善の国制は、「中間の人びとによって支配されるもの」(212頁)であり、それは民主制と寡頭制の混合形態としての「国制」であるとされる。
 国制の諸類型についてひと通り論じられた後、アリストテレスは、国制の運営を3つの部分にわけて、「審議的部分」「公職制度」「司法的部分」について検討を加える。これは現代の政治システムにおいても「三権分立」として知られている、「立法」「行政」「司法」にそれぞれ対応している。この分類が2300年以上前にすでに存在したということは、それ自体驚くべきことである。


 
 〈国制の変革・崩壊〉
 第5巻でアリストテレスは、国制の変化や滅亡がいかにして生じるかについて論じている。
 国制のなかに内紛を生じさせたり国制を崩壊させたりする要因がいくつも挙げられるのだが、私が注目すべきだと思うのは、民主制の崩壊の中心的な原因とされる「民衆煽動家」についての議論である。この問題は、「法律が力をもたないところでは民衆煽動家が生まれる」(194頁)として、第4巻でもすでに論じられていた。
 たとえば昨年の衆院選で、説得的とは言いがたい小泉内閣の「郵政民営化論」に国民が喝采を送ったことや、ホリエモンが強制捜査の後ですら世論調査で一定の支持を得ていたことなどを考えると、「民衆煽動」は我々の社会にとっても切実な問題であるように思われる。煽動家の手に落ちた民主制が危険なのは、そこから独裁制が生まれうるからである。それゆえ、「独裁僭主制は極端な寡頭制と極端な民主制が結合したようなもの」(280頁)だと言われるのであろう。
 第5巻の第8章から第6巻を通じて論じられる、国制の保全と維持、民主制・寡頭制の本格的な分析は、かなり現実的で実践的な政治論である。そこでは、現実に存在する国制をできるだけ穏当に運営していくための原則として、「中間(中庸)」を目指すことの大切さが説かれている(277頁)。


 
 〈最善の国制〉
 第7巻では「最善の国制」の具体的な姿が描かれる。
 国制論に先立って「最善の生」が論じられ、積極的に政治に関わっていく生き方と、観想的な思索にふける生き方が比較されているのが面白い。アリストテレスは、いずれに対しても、それのみを追求すべきではないと主張する。実際、ほとんどあらゆる人間にとって、何らかの意味で政治的に生き、かつ哲学的な思索にも何ほどかの力を注ぐというのが、自然なあり方だと私は思う。アリストテレスは、まさに本書が哲学的でも政治的でもあることから感じられるように、そのような生き方を実践した思想家だったのではないだろうか。


 
 〈徳の獲得のための教育〉
 国家はそもそも人びとが「善く生きる」ために存在しているのであり、アリストテレスにとって「善く生きる」こととは、幸福に生きるということであった。また、「幸福とは徳の完全な活動、行使である」(380頁)のだが、人びとが「徳」を獲得するためには、「自然・習慣・理知」が必要とされる。そしてこの3つの要素の調和のために、国家は「教育」に取り組まなければならない。それゆえ、本書の残りの部分が、教育論にあてられているのである。
 音楽教育論などは私には理解できないが、面白いのは、「明らかに教育もすべての人にとって同一であらねばならない。そして教育の配慮も公共的であるべきで、個人的な事柄であってはならない」(404頁)とされているところである。何から何まで画一化するのは、(アリストテレスも本書の始めの方で批判しているように)国家にとって健全なやり方ではないだろう。しかし、それでもある程度の統制がなければ、国家が国家たりえないのもたしかなのである。


 
 〈おわりに〉
 現代の日本に生きる者として、私がアリストテレスの政治学について最も共感できるのは、一貫して穏当さやバランスを重んじている、その態度である。そして、それほど多くが語られているわけではないのだが、「慣習」の力を重視して軽々しい改革を批判している姿勢からも、学ぶべきものは多いと思う。また、現実主義的でありながら、それでも「善美」や「幸福」や「自然」や「徳」といった、ある意味で理想的といえる価値の追求を放棄していない点にも注目すべきである。
 具体論としては、奴隷制や階級社会を自然のものとみなすなど、賛成できない点はいくつもある。しかし、2300年も前のギリシアの話なのだから、それをことさらに批判しても仕方ないだろう。それよりもむしろ、政治に対するアリストテレスの基本的な構え――つまり中庸を求めて穏健で、かつ理想を追うだけの活力をもった構え――から、我々が学びうるものの方こそ重要である。