The Midnight Seminar

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斉藤孝『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス、2000年)

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生 (NHKブックス)


 斉藤孝といえば、言わずと知れた『声に出して読みたい日本語』の著者で、美しく力強い日本語文章を「暗誦」しまくる文化を復活しなければならないと主張する教育学者だ。今さらですが。
 斉藤が「朗読」や「暗誦」を重んじるのは、単に国語教育の観点からそれが有効だからというだけではない。斉藤はもともと「身体」をめぐる文化や教育を研究しており、『声に出して読みたい日本語』の前年に出版した本書『身体感覚を取り戻す』で、「文化としての身体感覚」について詳論していて、朗読や暗誦のすすめは、その大きなテーマの中に一部分として含まれるものだと思えばいい。
 『声に出して〜』がミラクルヒットして以降、斉藤孝といえばよく分からない「勉強」本を出しまくって荒稼ぎしている胡散臭い学者というイメージも若干あるのだが、本書はふつうに面白かった。


 素晴らしい立ち方
 日常生活における身体の使い方や身体感覚には、それぞれの国ごとに、歴史を通じて培われた文化が宿っているというのが斉藤の自論である。たとえば、「正座」という座り方を欧米人は決してしないだろう。
 この、「身体の使い方」を「文化」として比較するというのは、あまり聞いたことのない試みで、面白いアプローチだと思う(個々の分析については、テキトーなこと言ってるなぁとか、手抜いてるだろと言いたくなる箇所もけっこうあるけど、テーマ自体は面白い)。
 本書の最初のほうで、昔の日本人の「立ち方」を、写真や文献から分析しているのはとても興味深い。車引きとかお相撲さんとか農民とか孤児とかの白黒写真が出てきて、「かつての日本人は、なんて素晴らしい立ち姿をしていたんだ。今の日本人にこの立ち方は出来ない」と斉藤は慨嘆している。
 戦前、デュルクハイムという哲学者が日本にいたらしく(あの社会学の泰斗デュルケームとたぶん綴りは同じなんだろうな)、彼は日本人の身のこなしが、「ハラ」に重心を置く極めて安定したものであることを論じているようだ。ある国際交流パーティーで、デュルクハイムに話しかけた日本人が、「ここに居合わすヨーロッパ人は、もし後ろから押されるとすぐ転ぶ姿勢をしています。日本人の中には、押してもバランスを崩す人はいないでしょう」と語ったというエピソードが紹介されている。


 腰とハラの文化
 斉藤は日本の身体文化を「腰・ハラ文化」と名付けている。日本人は昔から、腰や腹に意識の中心を置き、この中心にずっしりと力が入っていることが全ての基礎であると考えてきた。いわゆる「丹田呼吸法」の丹田だ。
 たしかに、斉藤も挙げているように日本語の寛容表現の中には、「腰を据える」「腰抜け」「腰くだけ」「および腰」「逃げ腰」「弱腰」「腹を決める」「腹をくくる」「腹が据わる」「腹を探る」「腹を割る」「腹の虫」「肝に銘じる」「腑抜け」「腑に落ちる」(「肝」「腑」は内臓、つまり腹のことだ)など、腰や腹を譬えにして人の心や精神を言い表す言葉が日常的にもたくさん使われている。いずれも、腰や腹こそが身体の中心であると同時に精神の中心でもあって、腰や腹が力強く安定していなければ、確かな決意や理解は得られないという伝統的な日本人の考え方を表すものだ。
 これは単なる比喩ではなく、実際に日本人は生活の中で、腰や腹を中心にした立ち方や歩き方、呼吸の仕方などを習慣づけてきたと斉藤はいう。帯を巻いて腰を引き締め、腹に力を込めて肩の力を抜き、カカトではなく足の親指の付け根に体重を乗せてしっかりと地面を掴み、息は深く長く吐く。こうすることで、リラックスしながらも集中した精神、そして柔軟でありながらも力強い振る舞いを身につけてきたのである。


 失われた身体感覚
 西洋の軍人は、たとえばナチスの行進を思い浮かべれば分かりやすいだろうが、背筋をピンと伸ばして胸を張り、膝を伸ばし、堂々として立ち、また歩いていてある意味とても美しい。しかし古来の日本人の感覚からすると、こういう立ち姿は重心が高すぎて、日常生活ではあまり合理性を発揮出来ない。たしかに、ドイツ軍ばりに胸を張った状態で、人力車を引けとか天秤棒をかつげとか山路を登れと言われてもきついだろう。日本人の身体感覚は、この国土における日々の生活にきわめて合理的に、自然になじむものであったのである。
 ところが、どちらかというと近代以降、とくに戦後の日本では、学校教育の中でも軍人的な直立の姿勢が立派なものであるとされ、日本人は身体の中心感覚やバランス感覚、ひいては精神の中心感覚・バランス感覚になるものを、失ってきたと斉藤は批判している。
 上に述べたような「腰・腹」の使い方こそが日本人の文化としての身体感覚であり、戦中世代ぐらいまでは広く共有されていたにもかかわらず、戦後世代である我々はそれらを不当に軽んじてきたために、心身ともに不健全な状態に陥ってしまっていると。60年代以降のカウンターカルチャーの隆盛などで昔ながらの「型」が否定されてしまったとか、けっこうありきたりなことを言っているのだが、たぶんそれはある程度事実なんだろう。


 身体感覚を取り戻せ
 そしてこの身体感覚を取り戻す方法の一つが、腹を据え、しっかりと息を吐きながら文章を「朗読」することだと斉藤はいう。斉藤によると声の出し方にもいろいろあって、トーンやリズムによって同じ言葉でも様々に異なる情感を帯びることができる。そうしたトレーニングを積むことが、己の身体を知ることにもつながる。そしてその時に朗読される文章は、当然、最も良質な「名文」であることが望ましいというわけだ。『声に出して読みたい日本語』にしても、単に「日本語をもっとよく知りましょう」というのではなく、美しい日本語の朗読を通じて身体を知り、精神を知るということである。
 また、朗読だけではなく、長い距離を歩くことや、重い荷物を背負うことや、外で身体をぶつけあって遊ぶことなどを通じて、自然に「腰と腹を中心とする、落ち着いた姿勢」を身につけなければならないという。あとはヨガ、太極拳、禅などにおける身のこなし方と、上述のような日本的身体感覚との類似性などが論じられている。


 日本の文化?
 斉藤の議論で一つよくわからないのは、「これが日本人の文化だ」をしきりに繰り返していることだ。単に、古い文化が失われてしまって残念だという懐古趣味的な話にも受け取られてしまいかねない。
 斉藤が主張するように、そして私も賛成なのだが、腰や腹に「自分の中心」を置いて深く長い呼吸をすることが、身体の調子を良くしたり、感性を鋭敏にしたりするというのは、経験的にも事実である。だいたい物事がうまくいかない時というのは、自分の意識が「頭」部、具体的には耳の奥あたりに集中しており、非常にせせこましい論理にとらわれ、視野を広げる事ができず、ものごとの全体像をつかみ損ねているという感覚があるのだ。マラソンをしたりすると(長頸靭帯炎が長引いており、最近ぜんぜん走れてないんだけど…)頭が空っぽになっていいのだが、このときも丹田あたりにそっと自分の意識を置いて、「あと何km」なんてことを頭で考えないようにしなければならない。まぁ、筋肉を動かすだけで意識は鋭くなるので、考え事をしながら走ってもべつに良いとは思うけど。
 で、もしこれが本当なのだとしたら、べつに日本の文化だとか何とかという話ではなくて、西洋人もこういう立ち方、歩き方をしろという話になるんじゃないのか?
 そこのところがよく分からなくて、西洋人は西洋人であの高重心な姿勢が生活によく馴染んでいるというのであれば納得できるのだが、そういう議論にはなっていない。


 まあともあれ、「身体」と「精神」を結びつけて安定させる自分の中心が「腹」や「腰」だというのは、いくら強調してもしすぎることのない事実なので、多少の不満はこらえてでも本書を読む価値はあると思う。