The Midnight Seminar

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福沢諭吉『学問のすすめ』に関するメモ

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)


 岩波文庫で読める福沢諭吉の著作を復習しようと思いまして、まずは『学問のすすめ』にしました。(以下ただのメモ帳であり書評ではない。)


 人文社会科学の分野で福沢諭吉の名が出るとき、主著は『文明論之概略』とされることが多いように思うけど、たぶん一般的なポピュラー度合いでいえば圧倒的に『学問のすすめ』だろう。
 福沢の著作は『文明論之概略』『学問のすすめ』『福翁自伝』『西洋事情』の4つだけ読んだけど、面白さでいえばもちろん『福翁自伝』が最強。とくに諭吉のおかんが最強である。
 しかし役に立ちそうな教訓が多いのは『学問のすすめ』だ。明治の日本社会を理解するとかいう目的で言えば『文明論之概略』がメインになると思うけど。


 Wikipediaにはこう書いてあった。

学問のすすめ(Wikipedia)
最終的には300万部以上売れたとされ、当時の日本の人口が3000万人程であったから実に10人に1人が読んだことになる。現在のような大規模な流通販路の確保や広告宣伝が難しかった時代においては驚異的ベストセラーであったと言える。

 まあ基本的に「ロングセラー」だった点が強みなので、ほんとに10人に1人といった割合で読んだのかどうかは分からないが、いずれにしてもすごい規模である。こちらのページをみると、8年間で70万部という売上だったらしい(根拠不明)。


 格差について
 さて『学問のすすめ』冒頭の一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」(11頁)はとても有名である。しかしこれ、文末の「言えり」を除いて引用してしまうと大きな誤解の元になる。福沢はべつに、人はみな平等ですと言いたかったわけではないからだ。
 福沢はたしかアメリカ独立宣言か何かを念頭に置いていて(とWikipediaにも書いてある)、「神の前では人間に上下の別は無いと言われている」と伝聞のかたちで述べているのであり、しかもこの直後に続けて、「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」(11頁)と言っている。つまり、人間に上下の区別は無いといわれているのに、実際には格差だらけなのは何でですか?と。


 その答えはというと、「その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものたり」(11頁)ということだ。また、「その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず」(12頁)とも。
 要するに、神や天は人間を差別しなかったが、人間には「学ぶ者」と「学ばざる者」がいて、その間に差が生まれるのは当たり前なのであり、だから学問を頑張りましょうということである。
 福沢はべつに、「人に遅れをとらないようにガンバロー!」的な、自己啓発の意味で学問をススメたのではない。彼は、明治維新により農民なども士族と同じ身分になったのだから学問に励む責任があるのだと言っているが、それは民主主義の制度のもとでは、立派な人民の上には立派な政府ができるが、愚民
の上には苛政(専制)が起きると見たからである。


 実学について
 よく知られているように福沢の言う「学問」とは、当時のいわゆる「学問」、つまり漢学や国学などとはぜんぜん違うものを指していて、「世帯も学問なり、帳合も学問なり、時勢を察するもまた学問なり」(20頁)と言っている。いわゆる「実学」ってやつである。
 「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し」(12頁)として、他に「地理学」「究理学(物理学か又は自然科学全般を指してるように思われる)」「歴史」「経済学」「修身学」を挙げている。


 歴史や経済学を勉強しろと言っていることからも分かるとおり、福沢はべつに「実践」のみを重んじて机上の研究を否定したというわけではない。たしかに守旧派知識人たちの漢籍訓詁学のたぐいは(彼はそれを若い頃に一通りマスターしたわけだけど)どうでもいいと『文明論之概略』でも結構叩いてるけど、西欧の政治・経済学の理論などについてはかなり熱心に研究していたわけである。
 『文明論之概略』の中では「徳義」と「智恵」の対比が論じられていて、日本の学者が好きな「徳義」については、いくら研究したって孔子に勝てることはないのでもう止めとけと言う。それよりもっと「智恵」を身につけて政治システムや産業を盛り立てなければならないので、西洋の進んだ「智恵」はどんどん研究しようぜということである。


 独立について
 『文明論之概略』でもそうなのだが、福沢の重要なテーマは、国民1人1人が「独立」の気概を持たねばならないということだ。政府の言いなりになるのではなく、各人が自分でものを考え、意見をし、行動を起こすような「気風」を身につけなければ、日本一国の独立もままならず、たちまち西洋に圧倒されてしまう。だから、「我日本人も今より学問に志し、気力を慥(たし)かにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみなり。一身独立して一国独立するとはこの事なり」(28頁)ということだ。これは今で言えば企業に勤めるサラリーマンにとっても重要な心構えだろう。「一身独立して一社独立す」では何か迫力なくてダサすぎるけどw、従業員各々が「自立」「独立」の構えを失ったら会社そのものも立ち行かなくなるというのは正しい命題だと思う。
 もともと福沢には、「近日に至り政府の外形は大いに改まりたれども、その専制抑圧の気風は今なお存せり。人民もやや権利を得るに似たれども、その卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず」(38頁)という激しいイラ立ちがあった。日本人は誰も自分でモノ考えておらず政府に任せきりじゃないかと。これは福沢いわく日本社会の「気風」の問題なのだが、誰かが率先垂範してその気風を盛り立てなければならず、当時の日本の学者連中はアホばっかで期待できそうにもないから、我輩が先駆して「私立」のあり方を示してやるとのだ言ってそれを体現したのが慶応義塾というわけである。


 人間交際について
 他にも本書には、よく取り上げられる重要キーワードがいくつか出てくる。たとえば「人間交際」だ。
 「凡そ世に学問といい工業といい政治といい法律というも、皆人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたるべし」(86頁)という。学問の研究も、経済の発展も、政治の運営も、それ自体に内在的な意味はなくて、「人間交際」のためにやっているのだということを忘れてはならない。
 簡単にいうと、各人が他人を益するように頑張れというようなことを言っているのだが、この「人間交際」というのは、他の著作でも使われているけど確かsocietyを訳したものだったと思うので、今の日本語でいうと「社会」だ。ただし、「社交」というぐらいの意味でも福沢は使っているので、「社会〜社交」ぐらいの幅を持った理解でいいと思う。「社会」というと単に人間の集団というイメージにもなるけど、福沢は「交わる」というダイナミックな働きを強調したかったわけなので。
 世のため人のために役立たせ、よりダイナミックな人間交際をもたらすのでなければ、歴史を学ぼうが算盤に熟達しようが意味がないということである。


 演説について
 ビジネスマンとか教育者が食いつきそうなものとしては、「演説(スピイチ)の法」だ。
 福沢は、学問をする上では「ヲブセルウェーション(observation)=視察」と「リーゾニング(reasoning)=推究」の他に、「書を読まざるべからず、書を著さざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽して始めて学問を勉強する人と言うべし」と言っている。「則ち、視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書演説はもって智見を散ずるの術なり」(107頁)とのことだ。
 一人で知識を増やすのみならず、議論を通じて智恵を深めることと、著述や演説によって広めることが大事である。インプット→ディスカッション→アウトプットだ。


 怨望について
 人生訓として面白いのは、「怨望」についての説明である。「凡そ人間に不徳の箇条多しと雖ども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし」(114頁)という。怨望最悪説だ。
 なんで急にこんな精神論が出てきたのかというと、怨望は「人の言路を塞ぎ人の業作を妨ぐる等の如く、人類天然の働きを窮せしむる」(117頁)ことによって、「人間交際」を妨げるからである。
 「貪吝(おカネ大好き)」「奢侈(ぜいたく)」「誹謗」「驕傲(おごり)」「粗野」「固陋」「浮薄」といったものも不徳であるに違いはないが、じつは程度の問題であって、それらの性格も強弱や方向性によっては「徳」にも転じ得ると福沢は考える。例えば貪吝や奢侈の気持ちが少しもなければ経済など発展のしようもなく、要は度が過ぎなければいいのである。しかし彼に言わせると、「怨望」というものだけは単なる恨みつらみや妬みであり、なんらポジティブな契機が見出せず、とにかく一方的に不徳でしかありようがないのであると。
 これは心に留めておくべき教訓ではないだろうか。
 そういえばハイデガー研究者の三木清は、「どのような情念でも(不徳の類であっても)、天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない」(『人生論ノート』)と言った。妬みというやつは、どんな場合にも美しさを見出すことができず、常に最もダサい不徳であるということだ。
 また、ちょっと話の次元がずれてしまうが、ニーチェが「弱者のルサンチマン(怨恨)」こそがキリスト教文明の底に横たわる欺瞞の正体であると指摘したのは有名である。キリスト教にすがっている限り有徳な人間にはなれないというニーチェの極論に賛成するかどうかはともかくとして、「徳 virtue」とはめちゃくちゃカンタンに言えば「力強い精神」の別名でもあるので、「怨恨」「怨望」「嫉妬」を抱くことがこの世でもっともダサい不徳なのだと戒める意味では、あながち無関係な話でもないだろう。


 人望について
 「人望論」もよく紹介されるんじゃないだろうか。「苟(かりそめ)にも人に当てにせらるる人に非ざれば何の用にも立たぬものなり」(152頁)という。栄誉・人望を追い求めすぎれば人は自意識過剰に陥ってしまうけど、基本的に栄誉・人望の追求は大事なのであるという*1
 なんでこんな話がでてきたかというと、儒学者をはじめとする昔風の学者たちの引きこもり癖を叩くためで、罵倒の仕方が面白い。「後世無気無力の腐儒はこの言葉(論語の「人の己を知らざるを憂えず、人を知らざるを憂う」)を真ともに受けて、引込み思案にのみ心を凝らし、その悪弊漸く増長して遂には奇物変人、無言無情、笑うことも知らず泣くことも知らざる木の切れの如き男を崇めて奥ゆかしき先生なぞと称するに至りしは、人間世界の一奇談なり」(156頁)と。
 そして「今この陋しき習俗を脱して活溌なる境界に入り、多くの事物に接し博く世人に交わり、人をも知り己をも知られ、一身に持前正味の働きを逞しうして自分の為にし、兼ねて世の為にせんとする」ことが大事だと言うのだが、これは今の大学にいる研究者たち(の一部)にとってもひょっとしたら重要な戒めなのではないだろうか。


 で、「人望」を得るために何をすべきかというと、福沢のいう要点は3つだ。
 (1) 「言語を学ばざるべからず」(156頁)。これは外国語を学べということではなく、言葉を用いた弁舌を盛んにせよということだ。今風に言えば「コミュニケーション能力」みたいなやつである。
 (2) 「顔色容貌を快くして、一見して人に厭わるること無きを要す」(157頁)。そして「顔色容貌の活発愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり」(同)。つまり、顔色をよくしていつも活発な明るい顔つきをしておけと。
 (3) 「多芸多能、一色に偏せず、様々の方向に由って人に接する」(160頁)ことが大事である。いろんな奴に会えばいろんなことがわかる。だから、「人にして人を毛嫌いするなかれ」(161頁)ということ。


 この2つ目の「顔色」論が私は昔から気に入っていて、ようするに不機嫌な顔をするのは不道徳であるということなのだが、福沢がどんな顔をしていたのかについてよく分かるニュースが昔あった。


 福沢といえば、



 こういう感じの、いかにも学者然とした若干偉そうな顔が思い浮かぶもんだけど(と書いてみたもののよく見るとそんなに偉そうではないな)、↓の写真をみるとまさしく「活発愉快」な兄ちゃんという顔つきで、たぶん個人的に話してもすごく面白い人間だったのだろうということが想像できる。



 これは3年前にオランダの博物館かどっかで発見された写真で、福沢が27歳でヨーロッパを視察した時の写真だ。産経のニュースになってたけど、今はもうリンク切れになっている。
 この顔をみると、「怨望」はけしからんとか、自由闊達な「演説」が大事であるとかいう福沢の論にものすごく説得力があるという感じがしないだろうか。これは人を妬んだり引きこもったりするタイプの男の顔ではないw
 『福翁自伝』を読むと、彼は若いころからものすごくユーモアに富んだおもしろい人物だったようなのだが、この顔をみればまさに本物だと分かる。
 顔で人柄を判断するなといわれるかも知れないけど、「顔つき」ってやつは人間の性格を案外よく現しているものだ*2。「一見して人に厭わるること無きを要す」と人に戒めるだけの人物であることは間違いないと断言できます。

*1:ここでまた三木清を思い出すのだが、彼は「名誉心と虚栄心とほど混同され易いものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。この二つのものを区別することが人生についての智慧の少なくとも半分であるとさえいうことができるであろう」と言っている。

*2:美形か不細工かということではなく、主に表情のこと。性格の出にくい顔というのもあるけど、だいたい顔つきで大まかに判断して誤ったことは無い。競馬のプロは馬をみるときも、馬の顔をみて「賢そう」とか判断するらしい。その場合特に重要なのが「目」の輝きであると言われていて、これは人間でも同じだろう。視力が悪くて目つきが悪い人もいるけど、そういう場合を除けば、目を見れば人柄はけっこうわかる。