The Midnight Seminar

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山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)


 本書は、社会心理学の実験に基づいて日本社会の特徴を分析し、「安心社会」から「信頼社会」への転換が求められているとする、一種の日本人論である。「ほんとにそうなの?」と思うところも一部あるし、新書だからか議論がけっこう単純化されているけど、全体として面白かったので以下に要約しておく。


 日本人よりもアメリカ人のほうが協力的
 一般的にはアメリカ社会よりも日本社会のほうが集団主義的な「信頼社会」であって、人々がお互いを信用し合っており、逆にアメリカはドライで個人主義的な「契約社会」だからいつ騙されるかわからんというイメージが流布されてきたが、著者らの(かなり慎重に検証を重ねた)実験によってこの常識は否定される。
 「たいていの人は信頼できる」と考える人がアメリカ人の47%であるのに対し、日本人では26%しかいない。「たいていの人は、他人の役に立とうとしている」と考えているのも、アメリカ人47%に対して日本人はたった19%だ。また、囚人のジレンマ状況を実験的につくり出して、参加者が信頼し合って“協力”することで大きな利得が得られるというゲームが何種類か紹介されるが、日本人はアメリカ人に比べて、相手プレーヤーをあまり信頼せず、利己的に行動する傾向がとても強い(結果、ゲームでの利得は少なくなる)。アメリカ人のほうが、お互いに信頼し協力し合って、より大きな利得を得るわけだ。しかも面白いことに、協力しなかった場合に「罰金」を課すルールを設定すると、アメリカ人よりも日本人の方が弾力的に反応し、協力率が急激に上昇する。日本人とは、ひどい人たちだ(笑)


 「安心社会」と「信頼社会」
 著者は、日本社会に特徴的なのは「信頼」ではなく「安心」だという。この、「信頼」と「安心」の区別が本書の主張の中で最も重要だ。
 カンタンにいうと、「信頼」は初めて会う相手を「悪人でない」と期待する心理のことであり、「安心」はすでに何らかの社会関係を持っている相手に「このしがらみの中では悪いことはできないだろう」と期待する心理のことである。
 日本は「信頼社会」ではなく「安心社会」なので、一見集団主義的に協力し合っているように見えても、それは単に、著者が「コミットメント関係」と呼ぶ様々なしがらみ(ムラ社会の掟)が存在するおかげで「相手が自分を裏切ることはないだろう」と安心できるに過ぎない。なので、逆にコミットメント関係にない“よそ者”に対しては、日本人は強い不信感を抱く傾向がある。
 それに対して「信頼社会」を生きるアメリカ人は、よく知っている者同士の内輪の協力は日本人ほど密ではないかも知れないが、逆によそ者であってもひとまず「信頼」してみせるという開放的な態度を持つ人々だということだ。
 余談だが、今のウェブ社会に例えると、この「安心社会」と「信頼社会」はそれぞれ「mixi社会」と「Facebook社会」に当たるのかも知れない。*1


 心過剰の文化理解
 では日本社会はなぜ、「コミットメント関係」をベースにした集団主義的傾向を持つようになったのか。著者はここで、たとえば「そういう精神が文化として刷り込まれているからだ」とするような説明は、「心過剰の文化理解」であるとして斥けている。つまり単に“内面=心”に原因を求めるのではなく、日本人が集団主義的に行動するのは「そうせざるをえないような社会関係」が仕組みとしてセットされているからだというアプローチで理解しようとする*2。実際、「相互監視」や「相互規制」といったコミットメント関係がなくなった環境では、実験で明らかにされたように、アメリカ人よりも日本人のほうが“裏切り者”が多いのである。*3


 「信頼社会」への転換の必要
 長い間日本社会は、コミットメント関係を重視した運営を行ってきてとくに問題はなかった(たとえば年功序列・終身雇用といった日本的経営)。むしろこうした「安心社会」は、既知の間柄を重視するので、様々な場面で“取引費用”が節約できる。
 しかし「よそ者」が不当に低く評価される社会なので、保守的な組織で、様々なムダや非効率が発生しているとも言え、人間関係の刷新によって得られたはずの利得を“機会費用”として支払い続けているとも考えられる。
 コミットメント関係に基づく「仲間内ひいき」の構造が社会全体を覆っている間は、どこへ行ってもそうなのだから、個々の組織がそうした運営方法を採っていても機会費用が発生するとは言えない。しかし近年になって、終身雇用体制の弱体化など、社会関係が部分的に開放されてきているので、ムダをムダとして認識する必要が出てきたのである。そうなると、「低信頼社会」を生きる日本人も、今後は特定のコミットメント関係にない他人に対して抱く「一般的信頼」感を高めて、社会関係を開いていくことに積極的にならなければならない。


 2種類の社会的知性
 本書の後半では「社会的知性」(相手の行動を正確に予測する能力)という観点から、低信頼型の人と高信頼型の人の比較が行われる。
 「高信頼型」の人は、知らない相手でもひとまず信用して関わるため、一見すると騙されやすそうに思えるが、著者はそうではないことを実証・論証している。相手の行動予測をするゲームや、学校における周囲からの評判の集計を行うと、総じて「高信頼型」の人のほうが社会的知性が優れていることが分かる*4。高信頼型の人は単なるお人好しなのではなく、初めて会った相手でもよく観察して情報を敏感にキャッチしようとするし、相手の“悪意”の有無を見抜いて行動予測を正確に行うことができるのだ。この能力を著者は「人間性検知能力」と呼んでいる。
 しかし、集団内での既存の人間関係(「誰と誰は仲が良い」など)を理解する「関係性検知能力」になると、逆に「低信頼型」の人の方が高いことが実験から明らかになる。つまり、未知の他者の意図を理解する能力と、既知の他者の意図を理解する能力は、別モノだということである。


 「地図作成型」知性と「ヘッドライト型」知性
 低信頼者は、コミットメント関係(しがらみ)を活用して生きているので、他人との関係について本質的には悲観的で、集団主義的ではあるが不安や孤独感が強く、いつもびくびくしながら周囲の顔色をうかがっている。既存の人間関係を把握するのは得意だが、他者に対する心情的な共感がじつは薄いし、新たな人間関係を作っていく積極性や主体性は乏しい。
 著者はこの、既存のコミットメント関係を重視する低信頼型の社会的知性を「地図作成型知性」と呼ぶ。人間関係を地図に起こしてから慎重に付き合いを行うということだ。それに対して高信頼型の社会的知性を、未知の他者との関係を積極的に切り開く探索の意味を込めて「ヘッドライト型知性」と呼ぶ。地図型知性は集団主義的な社会で役立ち、ヘッドライト型知性は開かれた社会で役立つタイプの社会的知性だ。


 「信頼社会」への移行は可能なのか
 一般的信頼感とヘッドライト型の知性を高めて「信頼社会」に向かっていくには、様々な改革が必要と思われるが、そんなことは可能なのだろうか。調査によると、偏差値の高い大学ほど「高信頼型」の学生が多い。しかし大学1年の時点で比較すると大学間の差はあまり見られないことから、高校までの生育環境によって信頼の強弱が決まってしまっているのではなく、大学生活の教育環境次第で、信頼が強まったり弱まったりするということが分かる。
 そもそもコミットメント関係をベースにした社会構造は、社会的不確実性の高い環境に適応するために人間が生み出したものである。たとえば「コメ」のように品質を判定しやすい作物よりも、「生ゴム」のように一見しても品質が判断できない作物の取引市場のほうが、不確実性が高いために、コミットメント関係ベースの「安心社会」が築かれ易いことが知られている。良い奴と悪い奴を見抜くのが難しいので、過去に取引の経験があって「安心」できる相手との取引が優先されるのだ。
 であれば、政治・経済・社会活動の透明性をどんどん高め、情報の流通を活発にすることで、社会的不確実性を減らすことができれば、コミットメント関係の重要性が相対的に軽減され、より「信頼」ベースの社会へと転換できるかも知れない。


 終身雇用の崩壊
 ところで、「安心社会」から「信頼社会」への移行が重要であることの理由の一つとして、雇用の場で女性が不利な扱いを受ける原因を著者は次のように説明している。
 企業が人を採用するとき、単純にワープロの能力やプログラミングの能力を買いたいのであれば、人の価値を客観的に判断するのはとても簡単で、不確実性が低い。しかしふつう雇用というのは、個別の能力ではなく「人材」としてその人のポテンシャルすべてを購入するもの、基本的に不確実性は高い。
 不確実性が高い状況下では、「女性は平均的に、早期に退職する割合が高い」といった統計的情報の重みが増す。そして、その人自身の個別的な人間性や事情を考慮せずに「女性だから〜」といった「統計的差別」を行うことが、相対的に合理的で賢明な選択となってしまうのだ。
 ところで、日本社会で雇用の「不確実性」が高いのは、じつは「終身雇用」を前提にしているからである。いったん雇ったら簡単にはクビにできないので、変な奴を雇ってしまうと、機会費用がとても大きくなるのだ。
 しかし終身雇用体制は徐々に崩壊に向かっており、雇用する側が背負う機会費用は低下しつつある。流動性が高まれば、雇用における不確実性を減らすことができ、コミットメント関係が不要になる。こうして、「信頼」に基づく開かれた社会関係が重要性を持つ時代がやって来ようとしているので、そのための環境を整えるべしというのが著者の見解である。


 私自身は、終身雇用は今後もある程度残存するだろうというか、むしろ残存するべきだと思うし、「安心」と「信頼」は結局どちらも社会構造の中に組み込まれる必要があるものなので、「ムラ社会を抜け出して、自立した近代的個人へ」*5的な短絡的なイメージで、「安心社会」をぶっ壊せみたいに理解するのは危険だ。
 しかし、「相対的にこうなっていく」という傾向論としてはとても理解しやすい主張だと思うし、何より著者の概念の分類がうまいので、議論の素材としてはとても有用であると思う。

*1:もう少し詳しく言うと、身内意識がとても強い「mixi」や、交流は活発だが匿名であるおかげてめちゃくちゃ殺伐としてしまう「2ちゃんねる」は「安心社会」的なコミュニティで、逆に実名ベースで関係を積極的に切り開いていく「Twitter」や、身内意識が強いものの個人情報をオープンにして来るもの拒まず的な「Facebook」は「信頼社会」的なコミュニティ、というふうに理解すればいいだろうか。直観的なイメージだが。

*2:そうかといって、社会構造が一方的に決定力を持つと言っているわけでもない。著者は、社会構造と個人の心理は相互依存的だという立場だ。

*3:本書とは関係ないが、第二次大戦における捕虜の振る舞いにも似たところがあって、日本兵はあれだけ厳しく「戦陣訓」その他を叩き込まれているのに、いったん捕虜になると簡単に口を割って、余りにも饒舌にペラペラと機密情報をしゃべりまくるので、英米側は逆に信用しなかったという逸話を聞いたことがある。

*4:こういった実験は、けっこう慎重な手順を踏んで行われている。

*5:そんな単純な言い方は著者はしてないけど。