The Midnight Seminar

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一票の格差なんてどーでもいいのでは?

 「一票の格差」なんて瑣末すぎてどうでもいい
 今朝の産経新聞に一票の格差の話題が載っていた。

一票の格差 「違憲」「違憲状態」判決続々(2011年1月8日 産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/110108/trl1101082305005-n1.htm


 参院選の「一票の格差」をめぐり、「違憲」「違憲状態」とする司法判断が昨年末から全国で相次いでいる。
 (略)
昨年の参院選で、議員1人当たりの有権者数を都道府県別に比べた場合、最も少なかった鳥取選挙区は最も多かった神奈川選挙区の5分の1となった。鳥取選挙区の1票当たりの投票価値を1とすると、神奈川選挙区は0.20票、東京選挙区も0・23票にしか当たらないことになる。
 (略)
 これまで1件の「違憲」判決、4件の「違憲状態」判決が出ている。いずれも選挙の無効に関しては退けたが、格差については踏み込んだ見解を示した。
 鳥取選挙区と比べ3.24倍の格差となった岡山選挙区の訴訟で、広島高裁岡山支部は12月16日、「違憲状態」との判断を下した。
 判決で高田泰治裁判長は、1983年の米ニュージャージー州での下院議員選挙で、1.007倍の格差を「違憲」とした判断があることを例示。米国憲法と日本憲法は同じく多数決ルールが根本にあるとしたうえで、許容できる格差は最大3倍程度という具体的な数字を提示した。

 「一票の格差」はもはや古典的な議論だけど、いまいちピンとこない。
 まぁ議席の配分とかをいじるだけで簡単に是正できるならすればいいし(簡単ではないらしいが)、理念としての平等主義に意味がないとも思わないし、憲法解釈にこだわりたい人はこだわればいいけど、正直言って瑣末すぎてどうでもいいというか、少なくとも一国民としては、目くじらを立てるほどじゃないだろと私は思う。
 ここで問題にしたいのは、主に、「権利の平等」を重んじて「不公平である」という観点から一票の格差に目くじらを立てる人々のことである。権利の配分じゃなくて選好の分布を問題にする議論……たとえば、議席の地域配分を操作することで「都市部の住民の意思をもっと強く反映したほうが日本は競争力をもてるはず」とか「地方の農民は弱者なので地方の代表を増やすべき」とかいうふうに、戦略的にバイアスをかけていくべきという主張なら、話はまだ分かる(ちきりんの日記とかで書かれてたのはそういう感じの話だ)。
 しかし、そういう感じの主張をしたい人たちも、ふつうは「バイアスをかけるべき」という言い方をすると誰も相手にしてくれないから、「1票の影響力が均等であるべき!」という平等主義的な言いぶりで、「権利の配分」の問題として主張されることが多いのだから、結局のところ似たりよったりである。たとえば、「都市部の住民の意見をもっと反映すべき!」と言いたいのなら、1人1票にしろとかじゃなくて、「神奈川を鳥取の5倍にしろ!」とか主張したほうが筋が通っていると思うけど、普通はそういう言い方はしない。ちなみに私は、ガンコな守旧派みたいな人たちが好きなので、個人的には「都市部の若者 > 田舎の老人」というふうには思わないし、鳥取県民の声が神奈川県民の5倍大きくてもべつにいいと思ってるけど。


 さて、鳥取県民は神奈川県民の5倍の影響力を持っていると言われると、すごい不平等のような気がしてくるけど、倍率ってほんとにそんなに重要なのだろうか?*1
 たとえば別の問題として、ここに、選挙に関心が持てず投票所に足を運ばない若者が1人いたとする。選挙に関心がもてないのは、不幸にも両親と教師による民主主義的啓蒙が不足した結果だとしよう。その人と、たとえば神奈川県で1票を投じた人とを比較した場合、政治的影響力を倍率で比較しようとすると分母がゼロなので、無限倍とはほんとは言わないのだがまぁ無限倍みたいなもので、要するに「もはや倍率では表せないほどの、決定的な差」になってしまうのだが、この家庭環境等に由来する「無限倍みたいな差」を、「2倍」とか「5倍」とくらべてどう評価するかという議論に意味はあるだろうか?


 実質的な問題はたぶん、鳥取県のある有権者と神奈川県のある有権者の「一票」の格差が倍率で「5倍」だとして、絶対量で言うとどのぐらい政治的影響力に差があるのかだ。じつはこの、自分の意思の影響力は絶対量でどのくらいなのか?というのが、投票者自身にとってはきわめて重大なはずであるにもかかわらず、非常に難しい問題なので誰も考えないのである。理屈が難しいのではなく、どういう態度を取るのがカッコいいかが難しいわけです。


 ちなみに議員1人に対する有権者数って何人ぐらいなのかというと、去年の参議院選挙については、

1票格差5倍超に 有権者数1億451万人(2010年6月25日 東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/saninsen10/all/CK2010062502000184.html


海外に住む人も含めた議員1人当たりの有権者数が最も多いのは、122万1336人の神奈川で、大阪(118万7320人)、北海道(115万5280人)が続いた。最少は鳥取県で24万3947人だった。

 という状況だったらしい。ということは、1議席分の代表者選出のために積み上げられる有権者の意思のうち、自分の意思が占める割合は、神奈川県の場合は約0.0000818775%、鳥取県の場合は約0.0004099251%ということになる。
 これも見え方としては絶対量ではなく割合なので、違和感を覚えるという場合は、神奈川県の場合、1人の有権者は「0.000000818775人分の国会参加」を果たしており、鳥取県の有権者1人は「0.000004099251人分の国会参加」を果たしているとでも言っておけばよい。その差は「0.000003280475人分」、パーセントポイント差でいえば約0.0003280475%ポイントだ。
 日常生活で、「0.0003%ポイントの差」に怒り狂うことなんてあるだろうか?ちょっと考え難い。たとえばオフィスで、「自分の席から冷蔵庫まで10m離れていたのが、席替えによって0.008mmほど近づいたと思ったら、隣の同僚は私よりも0.03mmほどさらに冷蔵庫に近かった。彼は私の5倍も冷蔵庫に近づいたのだ」と言って騒ぐようなもんだろう。


 要するに、もともと非常に小さな値でしかないものについて、倍率で比較してもあまり意味はないということだ。ここで、「非常に小さな値」とか「あまり意味はない」という評価の基準はもちろん主観的でしかあり得ないが、この主観的評価こそが自分の人生にとってとても重要だということを忘れて、「5倍」という客観的な数字に目くじらを立てるのは不毛であると私は思う。一票の格差が5倍から2倍や1倍に減ったところで、自分の人生が何か変わるだろうか??


 また、一票の政治的な重みを言うのであれば、自分の意思が代表者の選出を左右する確率は?という話をしないといけない。要するに自分がキャスティングボートを握る確率なわけだけど、それはつまり自分以外の24万3946人(鳥取の場合)又は122万1335人(神奈川の場合)が綺麗にばらけて、自分が投票したい候補者と別の候補者の(自分の一票を除く)得票数がぴったり同数または1票差になった場合だけだ。どう計算していいのか見当もつかないが*2、経験的にそんな確率はほぼゼロとみなしておくべきだ。
 政治学でも、「一票を投じてもその人にとってじつは何のメリットも無いのに、なぜ人は投票にいくのか」を説明するのが非常に難しいとされている。投票率の低下とかより、そっちのほうが難しい問題なのだ。(参考:「合理的個人はなぜ投票するのか」
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/murase/paper/95vote.pdf


 民主政治の本質
 民主政治における国民の権利の中で、「投票権」というものは、いったん普通選挙が確立した後ではあまり重要でない方に属するものだろう。「清き1票」という言い方にはものすごい欺瞞があって、それはたしかに清いかもしれないが、実際はゴミみたいなもんだ。
 政治的に意味がある行動というのは、簡単に言えば徒党を組んで多数の票を集めることである。単純な団体活動だけでなく、メディアでの発言なんかもこれに含む。
 有効な政治参加というのは、徒党を組んだり、多数の人の意思に影響を与えて票を動かすことであって、決して自分の「1票」を行使することではない。1人分の「投票」そのものは、ほとんど政治参加と呼ぶに値しない行為なのだ。だって何の影響力もないのだから。
 神奈川県とかなら人口密度も高いし、ひょっとしたら人と議論する場もたくさんあるかもしれない。そこで自分以外の5人を説得することができれば、鳥取県民よりも大きな政治的影響力を手にすることができるわけである。しかしまぁ、5人でもまだそれはゴミみたいなもんだろう。


 わざわざ投票所まで歩いて行って紙に名前を書いたりするから、それが何か積極的・能動的な政治参加であるかのように我々は錯覚してしまうわけだけど、勘違いしてはいけない。それは単に、政治家やマスコミの宣伝によって自分の票を収集されたというだけのことであって、かなり受動的な行為なのである。
 もちろん、「だから悪い」というわけでもない。ふつうの人間は選挙のために徒党を組んで運動する暇なんてないのだから、仕方ないと思っておけばいいだろう。重要なのは、投票しただけで「政治に参加してる」なんて錯覚をしないことだ。
 言い換えると、我々にとってかけがえなく大事な政治的権利、民主的権利というのは、既存の政治グループ(徒党を組む暇と能力がある人たち)が何かおかしなことを始めたら、こっちも徒党を組んで跳ね返すという選択が、可能性として許されているということだ。その意味では、一票の重みの平等なんかよりも、言論の自由のほうがはるかに大事だろう。
 この、「徒党を組むこと」の重要性は軽視されすぎている。そっちのほうがじつは問題なんじゃないのか。
 たとえば、プライベートな場で政治の話をしたりする奴はウザいというのが一般的な感覚で、ましてや人を説得しようとしたりすると「やばい奴」のレッテルを貼られるのが普通である。まぁ私もじつはそう思ってるし、会社の同僚とかと政治の話をしたりはほとんどしないのだが、選挙の前後ぐらいは、すこしぐらい議論してもいいような気がする。しかしたいていの場合、日本社会では(って外国がどうかは知らんけど)、選挙の前日や翌日であっても、自分がどこに投票するつもりなのかも、どこに投票したのかも言わないのが普通である。個人の政治的意見は問わずに、「今回は民主党は厳しそうですね~」とか「いやぁやっぱり自民党の圧勝でしたね~」と、世間一般の傾向だけを語り合うのがスマートな大人の対応みたいな感じになっている。
 しかし民主政治の本質は人を説得して徒党を組むことなのだから、「一票を投じること」にフォーカスしすぎて、「自分の意見を表明して人に影響を与えること」が軽視され続けるのは良くないのではないか。なんというか、「政治を語るのが好きな暑苦しい奴」(1%ぐらい)と「何も語らない奴」(99%ぐらい)の両極端しかいないわけだが、本当は、お互いの意見が多少違っていてもふつうに政治の話ができるというようなマナーを確立しないと、大人びた感じの社会になっていかないような気がするのである。
 表だって議論しないからネットばかり盛り上がって、かつ口調がどんどん汚くなっていくという面はあると思う。


 変数が多すぎる
 「一票の格差」ってのは考え出すとややこしい問題で、議席数の配分と有権者数だけではなく、当然、その地域の投票率によっても一票の重みが変わってくるし、候補者数によっても変わってくる。候補者が多くなれば票が分散するので、トップ当選者を決定するのに必要な票数が少なくなるからだ。しかしその場合だって、本当に分散するかどうかはやってみないと分からない。結局、有権者の選好の分布(誰に投票したい人が、どれだけいるのか)によって一票の重みは結果的に変わるのだ、とか言いだすともうわけがわからなくなる。
 また、ショボい政治家しか立候補しなかった選挙区の有権者は、めちゃくちゃ優秀な政治家が立候補している選挙区の有権者に比べて、2分の1とか3分の1の「一票の重み」しか持たないといった話にもなってくるだろう。たとえば新人しか出馬しない選挙区があったとすると、その地域の有権者の政治的影響力は、安倍晋三が出馬する選挙区の有権者に比べて、著しく低いといわざるを得ない。通っても通らなくてもあまり影響がない政治家にしか投票できないのだから。これは、差別にはならないのだろうか?


 つまるところ、一票の重み、つまり「自分の政治的影響力」を決める変数は多すぎて、色々理屈を考えだすとキリがなくて、アタマが爆発しそうになるわけである。
 こんなわけが分からない問題について、たかだか1つの指標だけ取り上げて「5倍は許せん」とか文句を言う気にはなれないというのが、普通の市民の感覚なんじゃないだろうか。いや、普通の市民は、何となく「格差」があるよりは「平等」のほうが良いんじゃね?ぐらいにしか思わないのは知ってるけど。
 もちろん、「簡単に是正できるところは是正すりゃいいじゃん」的な話なら分かるので、それに反対しているわけではないのだが、それが何か日本の民主主義の根幹を揺るがす重大な問題であるとか、国の運命を左右するといった調子で騒ぎ立てるのは、誇張が過ぎると思うのである。
 繰り返すが、「都市部の住民の意思が軽視されることによって国が滅ぶ」という主張なら、本当かどうかは措いておくにしても意味のある議論になるとは思うが、それは「都市部軽視」がもたらす現実的な政治的・経済的効果を問題にしているのであって、「平等が貫かれていない」という理念上の問題が重要なのではないだろう。
 「一票の格差があるのは不公平」といって「一人一票」を主張している人たちは、平等主義の理念を振りかざして「俺の意見が正しいのだから、もっと俺の言うとおりになりやすいように選挙制度を変えてほしい」と言ってるだけなのである。「俺の言うとおりにしろ」と叫ぶのは悪いことではないのだが、「平等」とか「公平」という理念的な問題とはきちんと区別したほうがいいと思うし、「一票の政治的価値」を過大評価しないように気をつけないと、上記のような民主政治の本質を見誤ること・・・つまり「徒党を組むこと」の重要性を軽視してしまうことにもなると思う。

*1:繰り返すが、ここで言いたいのは一般的な意味で「権利の配分」の観点から重要であるかどうかということであって、「政治的選好の分布」に関する個別的な議論、例えば「原発周辺の住民の1票の価値が小さければ、原発のリスクが政治的に過小評価されてしまうじゃないか」といった観点からの話ではない。

*2:エクセルとかでやろうと思ったけど諦めた。