The Midnight Seminar

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中野剛志『経済はナショナリズムで動く』(PHP)


 

経済はナショナリズムで動く

経済はナショナリズムで動く


 短めの要約を↑のアマゾンのレビューに書き込んでありますが、詳細に紹介すると↓のようになります。


 著者・中野氏は経済産業省の現役官僚であり、イギリスで博士号を取得したアカデミシャンでもある。
 今回の作品では、
 (1)現代経済の主要なトピックをひと通り概観して「世界経済の動脈は、今や、ことごとくナショナリズムによってわしづかみにされている」(8頁)ということを明らかにした上で、
 (2)その「経済ナショナリズム」が歴史的・理論的に見て世界経済の正常態であることを論証し、
 (3)にもかかわらず「グローバル化による国家の退場」という誤った前提に基づいて「構造改革」に邁進してきた我が国の経済政策・経済世論を批判して、
 (4)「国力」を増進するための具体的な処方箋を提示してみせる。
 前作『国力論』(ここにレビューを書いてある)が「主流派経済学」の不毛を指摘する思想の書だったとすれば、本書は「主流派経済政策」の誤謬を指弾する実践の書だ。
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 ナショナリズムに覆われた世界
 冷戦終結以降の世界経済は、一見すると自由主義的な「グローバル化」を大々的に展開してきたように見える。しかし著者は、その内実を冷静に見つめてみれば、先進各国は世界経済で勝ち残るため、そしてナショナルな価値・文化を守るために、一貫して「経済ナショナリズム」を実践してきたのだと言う。
 そもそも90年代以降の「グローバリズム」そのものが、アメリカが金融技術・情報技術における自国の優位性を活かすべく世界に仕掛けた「国家戦略」だったし、ヨーロッパにおけるEU統合の進展も、アメリカ主導のグローバリゼーションに対抗してヨーロッパ固有の文化を守るために採られた戦略だった。さらに近年で言えば、資源ナショナリズムの台頭や政府系ファンドの巨大化など、「ナショナリズム」の色合いは強まるばかりである。
 またアカデミズムの世界でも、社会主義が頓挫したことから「資本主義内の(国ごとの)多様性」が大きな論争点となり、国家や共同体のありようと資本主義システムとの深い結びつきが明らかにされたのだった。そして、国際金融市場の混乱、国際テロの活発化、南北格差拡大、各国固有文化の破壊など、グローバリゼーションの弊害が顕在化するにつれて、各国の知識人たちは「ネイション」の意義を再確認するという方向で思想的抵抗を試み続けたのである。


 「国家」「市場」「市民社会」の相互依存
 世界各国の経済が一貫して「ナショナリズム」に突き動かされているというのは、著者に言わせれば当然の成り行きである。なぜならそもそも近代社会は、歴史的にも論理的にも、「国家」と「市場」と「市民社会」の相互依存関係抜きには成立しないシステムだからである。
 「はじめに個人ありき」で近代社会の成り立ちを説明しようとする社会契約論は間違っている。近代的個人というのは、国家権力が伝統社会の封建的秩序を解体して、その束縛から人々を解放することによって生まれたものである。近代的な大規模市場も、もともとは十七・十八世紀のヨーロッパで、国家権力が伝統的共同体の特権や因習を廃止して、通貨など取引の規格を広範囲に統一することによって可能になったものである。
 また国家と市場の関係として重要なのは、司法や警察権力による秩序維持である。安定した社会秩序がなければ大規模かつ長期的な投資は不可能で、経済発展のしようがないからだ。そして国家そのものも、民間企業がリスクを負担できないような基礎研究やインフラ構築に投資し、課税や国債発行によって市場に大きな影響を与えている経済主体だから、市場経済を論じる上でも国家の存在は無視できないのである。
 ところで、近代的個人や市場を成り立たせている権利と規制の「法」体系は、国家が制定すればそれで良しというものではなく、それを適切に解釈して実行に移す人々の慣習的秩序、つまり共同体がなければ有効に機能しない。E・デュルケムが言ったように、「非契約的関係」が先に存在しなければ人々が契約を取り結ぶことなどあり得ず、法や契約が機能するのは、法制度や契約行為の持つ象徴的な権威を、共同体の成員があらかじめ受け入れている場合だけなのである。また、経済活動というのは単なる自己利益の追求ではなく、人々は家族や共同体から「働く動機」や「自己を律する道徳」を得て市場に参加している。K・ポランニーが論じたように、経済システムは「社会に埋め込まれ」て初めて機能するのである。
 そこで近代国家の中に生み出されたのが、封建社会ほど強い束縛力は持たないが、人々をゆるやかに結び付けることによってルールを機能させる「中間組織」(家族、地域社会、協同組合、産業組織、社交クラブ、政治団体など)の層、つまり「市民社会」である。この「市民社会」の分厚い層の中で育まれる人々の共同意識や健全な判断力が、「個人」と「国家」の間をつないで市場を機能させるとともに、国家の暴走としての「全体主義」が作動するのを防いでいるのである。


 ネイションの生み出すエネルギー
 近代国家は旧来の慣習的秩序を解体して、標準言語や画一的文化を普及させ、大規模市場の制度を作り出した。そして、運命として人々が受け入れざるを得ないような「ナショナルアイデンティティ」――それを具体的な言葉や形にしたものが「ナショナルシンボル」である――を鼓舞することで、「ネイション」の意識や情念を育んでいった。このネイションの意識こそは経済発展の最大のエネルギー源であって、市場の整備や産業化の推進のための経済政策に支持を与え、人々の情念に働きかけて大規模に動員することを可能にするものである。また、経済発展そのものが、人々の移動やコミュニケーションを大規模化・活発化することを通じて、ネイションの意識をより一層強化してゆく。さらに、ネイションの持っているエネルギー、秩序、動員力は、グローバルな諸問題を解決する上でも最も有効な武器となるだろう。
 ただし、国内に成熟した「市民社会」の層が存在しないままに経済が急速に発展してしまったり、市場システムがあまりにも急激に発達して市民社会の秩序から遊離してしまったりすると、ナショナリズムは過激化して逆に社会を不安定化させる。そして最悪の場合は「全体主義」に転化するだろう。ネイションからエネルギーを引き出しながら、その暴走を制御していくという舵取りは容易ではないのである。西洋の場合でも、現在のような比較的落ち着いた「ネイションステイト」の枠組みを手に入れるには、数百年にわたる戦争の歴史を経なければならなかったし、中国などは今まさにこの困難に直面しているところである。
 著者は、「国民国家(ネイションステイト)のシステムは、いまだ発展途上の段階にある」(163頁)と言うが、この指摘は極めて重要だ。我々は、ネイションステイトの超克を目指すのでも、現にあるネイションステイトを唯一の完成形とみなすのでもなく、「国力」を引き出しつつ制御するというネイションステイトの運営の難しさを理解した上で、「よりよきネイションステイト」を目指して改善の努力を続けていかねばならないのである。


 不毛な「構造改革」路線からの転換を!
 日本にはもともと、「日本的経営」や「産業政策」などを駆使した経済ナショナリズムによる成功の経験がある。また、各国の歴史や社会事情が経済発展に果たす重要な役割を論じてきた、独特の開発経済学の伝統もある。にもかかわらず平成の日本は、経済の「グローバリゼーション」という変化の表層を真に受けて、国力の基盤を台無しにするような「構造改革」を次々に実行してきたのだった。改革すべきとされた官民協調の体制や、共同体的な経営手法・取引慣行には非効率な側面もあったかも知れないが、それは日本における「市民社会」の具体的なありように他ならず、経済システムはそこに埋め込まれて初めて機能するのだし、その「市民社会」こそは全体主義への防波堤であったはずだ。
 この構造改革の誤りを改めて、収縮しつつあるネイションのエネルギーつまり「国力」を再活性化するために、我々は何をしなければならないのか。著者は本書の後半で、「財政金融政策」、「産業政策」、「エネルギー・環境政策」、「保護貿易と自由貿易(の使い分け)」、「社会福祉政策」、「企業の買収防衛政策」など具体的な政策を挙げて、それらがネイションの連帯を強化し、ネイションの連帯がまたそれらの政策に力を与えるという、国力増進のメカニズムを分かりやすく解説してくれている。
 また著者は、アメリカのブルッキングス研究所が取り組んでいる「ハミルトンプロジェクト」や、イギリスとスウェーデンが共同で作成した「ソーシャルブリッジ」というレポートを紹介し、欧米の経済政策に関する議論が、その最先端において明確に「経済ナショナリズム」を打ち出していることを指摘する。いずれも、ナショナルな価値を尊重し、弱者の排除や雇用の不安定化を防いで国民の連帯を強化し、投資における政府の役割を重視することでネイションの力を引き出して、グローバル化の中で生き残りを図るという戦略である。
 諸外国が「経済ナショナリズム」による国力増進を図る中で、ひとり日本だけが「改革」による自滅の道を歩むことになるのかも知れない。しかし著者は、日本には本当はたぐい稀な「国力」の可能性があるはずなのだと言う。著者は「真の国力とは、他国から資源や富を収奪してくる強制力ではなく、富、文化、制度、思想を生み出し続ける能力である」(一八九頁)と言っているが、この二つの「国力」の区別は極めて重要だ。
 一般に「国力」と言えば、軍事力や外交力、あるいは海外市場への支配力といった、「他国に対する強制力」(外へ向かう影響力)がイメージされる。そのような能力については、日本はアメリカや中国やロシアには敵わないし、強化していく必要があることも確かである。しかし著者が真の国力と呼ぶものは、「何かをするための力」(内なる潜在力)のことだ。言い換えれば、価値を「奪う」能力ではなく価値を「生み出す」能力のことである。この「真の国力」については、(国民的合意を必要とする)省エネの取り組みの先進性や、高度に発達した製造業の伝統に見られるように、我が国は優れた可能性を持っているのだ。成熟した「市民社会」の層を持たないアメリカやロシアや中国は、こうした「何かをするための能力」に劣っているからこそ、「他国に対する強制力」を志向せざるを得ないのである。


 必要なのは「構造強化」だ
 ちょうど本書が発売されて十日ほど後に、アメリカで大統領選挙が実施された。当選したオバマ議員は、選挙戦においても当選後の演説においても、「国民統合」の必要を繰り返し主張していた。ポピュリズムの傾きが強いことや、そもそもアメリカでナショナリスティックな「統合」が熱烈に叫ばれるのは歴史的に珍しくないということを割り引いたとしても、「市民社会」から遊離した情報技術と金融技術にリードされてきた現代の経済システムが自壊しつつあるこの局面で、社会保障や製造業の重要性を説いて、国民社会の統合による国力の増進という方向性を打ち出していたのは、非常に印象的であった。
 翻って日本社会にあるものはと言えば、国民統合とは正反対の、「悪者探し」の否定的な空気のみである。五年間にわたった小泉政権の高支持率は、敵を見つけては叩いて国民社会の分断を煽り、守るべきものを破壊して人気を集めるという危険極まりないポピュリズムによるものであった。小泉後に登場した三つの政権は、いずれもそれぞれのやり方で国民統合を志向しているようには見える。しかしメディアと世間に漂っているのは今もなお、「官僚が悪い」、「政治家が悪い」、「大企業が悪い」、「若者が悪い」、「左翼が悪い」……云々という「悪者探し」、「敵探し」のムードでしかない。
 著者の理論の核心は、経済社会を発展させる「活力」の源泉はネイションステイトであり、その「活力」に具体的な形を与える仕組みもネイションステイトに他ならないということである。人間社会の「活力」というものを正面から主題化して経済思想・経済政策論を組み立てるというこの試みは、極めて画期的であると私は思う。主流派の経済学も、平成日本の構造改革論も、「活力」そのものはどこからともなくやって来るものだと前提した上で、資源の効率的配分や規制の撤廃を論じていたにすぎない。要するに「邪魔さえ取り除いてやれば、活力は無限に噴き出てくるに違いない」というわけだが、本書を読み終えれば、それがいかに馬鹿げた前提であったかが理解できる。
 現代日本の「閉塞感」とやらを突破すべく「敵探し」と「構造改革」に躍起になるというムードを生み出しているのは、この馬鹿げた前提なのではないだろうか。今我々に必要なのは、言わば「構造強化」の実践である。つまり、「活力」を生み出す社会の構造――その最も基本的な枠組みがネイションステイトである――を正しく認識すること、そしてその構造を強化する方法を考えて実行に移すことだ。本書は、その作業に着手しようとする者にとって、最良の(ひょっとすると現段階ではほぼ唯一の)手引書となるに違いない。