The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

鈴木謙介『サブカル・ニッポンの新自由主義――既得権批判が若者を追い込む』

【追記】このエントリの内容の一部を、とあるメルマガに書きました。【/追記】

 

サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)

サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)


 新自由主義=既得権批判
 鈴木は本書で「新自由主義」の由来と問題点について論じている。ただし本書には、ハイエクやフリードマン、サッチャーやレーガン、あるいは中曽根や小泉といった名前はほとんど登場しない。それは鈴木が、「新自由主義」をイデオロギーや具体的な政策パッケージというよりも、むしろ潜在的なレベルで現代人の思考に刷り込まれている「価値判断のモード」として取り上げているからだ。個人の能力が自由に発露されることこそが素晴らしいのだという気分のようなものが、暗黙の前提として我々の思考を条件づけていると言うわけである。
 鈴木が注目するのは、若者の不安定雇用を生み出したとされる一連の「規制緩和」や「自己責任論」に対する非難の声が、いつの間にか「もっと雇用を流動化せよ」というロジックにすり替わっているという現象である。そういえば私も、「格差社会問題」について佐藤俊樹、山田昌弘、三浦展らの著作を立て続けに読んだ際に、全員が「機会の平等をもっと確保せよ」という主張に収斂していたのが記憶に残っている*1
 こうなってしまう理由は、鈴木によれば、巷間の「格差社会論」が結局のところ「既得権批判」でしかないからだ。「ワーキングプア」や「ロストジェネレーション」(就職氷河期世代)の利益を代弁する論壇は、豊かさを満喫してきた「団塊の世代」や、現在の就労世代の「正社員層」に対する怨望*2をむき出しにするだけで、つまるところ「その既得権を俺たちにもよこせ」と世代間・階層間対立を仕掛けているだけなのである。そして「私たちの能力は正当に評価されていない」、「私たちの境遇は、私たちに相応しいものではない」と言うわけだから、既存のルールを解体して新しく公平な競争を導入せよという主張に切り替わっていくわけだ。本当は、新しいルールに変更したところで自分が勝ち組に回ることができるかどうかは、全く分からないにもかかわらずである。


 「ワープア論壇」の幻想
 ワーキングプアやロストジェネレーションの若者たちが欲しているのは、先行世代が享受していたような安定雇用であり、家庭での幸福や職場での成功を伴う「一人前」の人生である。しかし鈴木は、彼らの憧憬が幻想にすぎないことを指摘する。
 第一に、団塊世代も九十年代以降は「いつクビを切られるか」と戦きながら暮らしていたのであり、しかも引退してみれば年金がまともに支払われるのかどうかも不透明という状況で、大した既得権は持っていないということ。そして第二に、「情報社会」や「消費社会」の産業は、そもそも大量のホワイトカラー正社員を必要としないということだ。
 高度成長が一巡りして「消費社会」の時代に突入し、情報技術等の発達によって業務が高度に効率化されてしまった現代では、企業の正社員が持つべき能力は「クリエイティブな能力」――本田由紀によれば、実行力、コミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、シミュレーション能力、ネットワーク力、異文化理解能力などのこと――である。つまり単純化して言えば、企業はひと握りのクリエイティブな企画職の正社員と、接客や製造の現場に従事する非正規雇用の単純労働者が居れば十分で、従来のように分厚いホワイトカラー層を抱える必要がなくなってしまっているというわけである。


 「新自由主義=既得権批判」の由来
 鈴木はもともと情報社会論を論じている社会学者で、本書でも「価値判断のモード」としての新自由主義=既得権批判のルーツを、情報社会の歴史に求めている。
 鈴木は二〇〇〇年代における韓国の大統領選挙に大きな影響を与えたネット上の運動を紹介して、日本と同じように韓国でも、ネット社会が怨念に満ちた「既得権批判」を生み出しがちであることを指摘する。なぜ現代の情報メディアは既得権批判を生みやすいのか。鈴木の仮説は、半世紀ほど前にその基礎を創り上げた人たちこそが、そもそも「既得権批判」という理想に駆動されていたからであるというものだ。
 鈴木はそのルーツを訪ねて、六〇年代アメリカの「ヒッピー」と「ハッカー」の文化を取り上げる。あらゆる管理から逃れた真の自由や感性の全面的解放を理想とするヒッピーの一部に、テクノロジーによる解放を目指した連中が居て、彼らは情報メディアの中にその理想を持ち込んで行った。また、当時のハッカー――「コンピュータ狂」というぐらいの意味――たちは、情報技術が旧来の労働倫理と結びついてビジネス世界を強化し、自由な生活を侵食したり情報管理を進めたりすることに反対して、純粋に個人のハッキング能力だけが価値評価の基準となるような、自由な情報空間を理想としていた。R・バーブルックとA・キャメロンという学者は、この二つの理想が「反権威主義」を接点にして結びついたものを「カリフォルニアン・イデオロギー」と呼び、それが現代のネット技術の発展を方向付けてきたと主張しているらしい。
 こうして生まれた「カリフォルニアン・イデオロギー」が、情報技術の担い手たちの間で、「個人の能力」の発露を至上のものと崇め、あらゆる既得権に攻撃を仕掛ける「新自由主義」の気分を形作っていくことになった。しかも皮肉なのは、彼らがどのような情報環境を作り上げようとも、時間が経てばその環境自体が後続世代から「既得権」として批判されるということだ。もともと情報社会の発展は、新しいメディアを獲得するたびに、より開放的で民主的な環境を求めて先行世代のメディア環境を攻撃するという、「世代交代」と「既得権批判」の繰り返しで成り立っているのだと鈴木は言う。


 サブカル共同体による癒し
 生活の安定や平等を求めながらも逆説的に雇用の流動化を促してしまうという「既得権批判」は、情報社会化と消費社会化によって生まれた、個人の「クリエイティブな能力」こそがものを言うという環境の中で、出口なき怨念の連鎖にはまり込んでいる。そして、そもそも情報メディアの発達の歴史そのものが、既存の秩序の解体と個人の能力の解放を推し進めるとともに、システム外部に取り残された人々や後続世代の人々から、いずれ「既得権」として批判されるという繰り返しなのだった。
 この泥沼から抜け出すために鈴木は、情報社会に仕込まれた理想のうちの一つである、ヒッピー的な「アナーキズム」に可能性を見出そうとする。
 アナーキズムの理想として鈴木は「反権威」「自発的連帯」「人間の自然状態の肯定」を挙げているが、鈴木はこれらの理想を根拠として新自由主義的な市場競争そのものの解体を主張するわけではない。鈴木は、競争における敗者のために、「自己責任」を強要する市場競争とは別の場所で、「そのままで認めあえる関係」による「存在論的安心」を確保することを主張する。「生存がそのままで承認される共同体」で「癒し」を得て、再び市場競争へ挑戦せよと言うわけである。そのための場として鈴木は、ネット上の「ヴァーチャルコミュニティ」や、「サブカルチャー(への関心を共有する)共同体」を最大限活用するよう促している。たとえば「ニコニコ動画」――コメントの書き込みによって視聴者同士が交流する動画閲覧サイト――のような、そこにいるだけで楽しめる「承認の共同体」で得た自己肯定感を元手にして、外の世界の価値観に侵食されないタフネスを磨けというわけである。
 その一方で、貧困層へ転落するほどの敗者に対しては、国家が保障を提供しなければならない。したがって鈴木が想定するのは、新自由主義的な「市場競争」、アナーキズム的な「(サブカルによる)承認の共同体」、そして国家による「社会保障」という三つの領域が、バランスよく相互依存関係を保っているような体制である。


 二つの問題点
 本書の議論は、「市場競争」「承認の共同体」「社会保障」という三つの領域のバランスに着目している点で、その他のヒューマニスト的な格差社会論に比べれば優れているし、新自由主義を「既得権批判」という価値判断のモードとして取り出し、現代人がその泥沼のような怨望の連鎖にはまっていると指摘していることはきわめて重要である。
 しかし、新自由主義への対抗策が、サブカルチャーを糧とした「生存がそのままで承認される共同体」による「癒し」であるというのは少々短絡的ではないのか。本書の議論の問題点を二つ指摘しておこう。第一に、本書は若年層の不安定雇用の問題から出発しているのに、雇用を増やすための方法は全く論じられていない。それは鈴木が、情報社会化・消費社会化を不可避のものとして受け入れてしまっているせいで、そもそもそんな方法は存在しないことになっているからだ。そして第二に、「市場競争」「承認の共同体」「社会保障」という三つの領域の間のつながりについて、鈴木は「相互依存」と言うだけで実質的にはほとんど論じておらず、むしろ切り離してしまっている。とくに「社会保障」は取って付けたように唐突に登場するのみだ。
 鈴木は、「新自由主義」という価値判断のモードが、「これ以外にはあり得ない」という宿命論として現代人の脳裏に刷り込まれていると指摘し、その「宿命論的な何か」こそが「新自由主義」の本質であると言っている。上の二つの問題点を乗り越えるため、思想的に最も肝心なのは、その宿命論をもたらしている「何か」を明らかにすることだ。
 包括的に論じる準備ができていないので、以下、簡単なアイディアのみ書き留めておくことにする。


 能力は人々の「間」にある
 個人の能力に全責任を負わせ、競争を至上のものとする新自由主義を、「これ以外にはあり得ない」と思わせる「宿命論的な何か」とは何なのか。それは、「能力は個人のものである」という思い込みであると私には思われる。これはヒッピーやハッカーの理想よりももっと根深い、近代主義的な「主体(性)」の問題だ。
 能力というのは、本来は人々の「間」にあるものと考えるべきではないのか*3。その意味は二つある。第一に、「能力」は他者との交わりの中でこそ備わったり鍛えられたりするものであるということ。第二に、そもそも「能力」の意味(何をもって能力とみなすのか)は、人々の社会的な交わりの中で、コミュニケーションの積み重ねを通じて形成されるものだということである。
 後者について、話を分かりやすくするためにひと昔前のポストモダニスト風に言い換えれば、人と人との間にある種の「差異」が見出された後に「能力」という解釈が作られているのであって、個々人がアプリオリに「能力」というものを持っていたりいなかったりするわけではないということだ。
 「能力」を問題にする前にまず「差異」ある。そして、ある人と別の人の間に差異が見出しうるということは、そこにある種の「関係」がある(少なくとも比較が可能なのだから)ということでもあるし、この関係を観察し解釈する第三者との関係というものもある。この関係性の中でコミュニケーションが行われ、コミュニケーションによって「差異」に文脈が与えられ、「能力」としての意味付けが行われる。コミュニケーションがあるということはそこに「共同性」があるのであり、共有された「歴史」もある。
 「差異」から出発してもこんなふうに「共同性」に向かって理屈を展開することが可能なはずで、かつて「差異」から一方的に個人主義が導かれたのは、ポストモダニストのたちの軽率に過ぎない。差異性と同一性はコインの裏表だ。
 さて、そうすると、「市場競争」と「承認の共同体」と「社会保障」の三つの領域を、(区別する必要はあるだろうが)切り離す必要はなくなってくる。「能力」の意味が人々の関係性や共同性に由来しているのだとすると、「共同性」(「文脈の共有」と言い換えても良い)が破壊されれば人々の間の「能力差」も意味を失うわけで、能力を重んじるのであればあるほど、「共同性」が破綻しないよう配慮する必要があるからだ。逆に言えば、「能力主義者」は個人主義を採用した途端に「無能力主義者」となるのである。「社会保障」を強者の側から正当化するための論拠もここにある*4


 国力論
 これは、まさに中野剛志の『国力論』(以文社)のような議論が、今こそ必要とされているということでもある。前節の議論に結び付けて言うと、「国民性」なくしては、「能力」の意味が定まることも、それが発揮されることもあり得ないということだ。そうした能力はもちろん、社会の「経済的活力」の源泉でもある。
 もはや「消費社会」のような個人主義的な方向に、開拓すべき欲望のフロンティアは存在しない。残存するとしてもそれは、中国やインドで製造可能な工業製品だったり、ひと握りの「クリエイティブ層」だけが活躍できる情報産業だったりして、若者の雇用を増やすようなものではないだろう。むしろ今必要なのは、「我々に必要なものを、我々の手で作り出す」という原則に帰ることであって、たとえば「国産の食糧」とか「美しい景観」とか、あるいは「信頼に満ちた地域コミュニティ」や「他国の言いなりにならずに済む程度の国防力」といったものに我々の「欲望」を振り向けて、ナショナルな実体と意味を伴った需要を生み出すことではないのか*5
 「ワーキングプア問題」を解決したいのであれば、消費社会論の延長で「敗者に癒しを与えるサブカル共同体を活用せよ」と言ってみたり、取って付けたように「社会保障も一応必要です」と言ってみたりするのではなく、それらすべてを結び付けるものとしての、そして経済的活力の源泉としての「ネイション」に目を向けることだ。少なくとも、その方向で解決策を探る本格的な議論が開始されなければならないのである。



 お、3月にラジオでやってたらしい。
 暇なとき聴いてみよっと。
 http://www.tbsradio.jp/life/cat199/
 (この番組かなり面白いんだけど、iPodとか持ってないしいつも聴く時間ないんだよね……。)

*1:『不平等社会日本』、『希望格差社会』、『下流社会』だったと思う。

*2:ここで「怨望」という言葉を使ったのは、福沢諭吉の『学問のすすめ』を思い出したから。人間の働く「不徳」には色々あるけど、どんな不徳でも、それが働く場所と方向と強度によっては必ずしも不善とは言えない。しかし唯一「怨望」だけはあらゆる場合に不善であって、「衆悪の母」であるとまで福沢は言っている(笑)。なぜなら怨望は、「言路」を塞いで「人生活発の気力」を阻害するからだ。怨望から意味のある議論が起こることはあり得んということです……。

*3:これは哲学者の三木清が『人生論ノート』のなかで好んで使っているレトリックです。愛は自分と相手との「間」にあるとか、孤独は人々の「間」にあるとか。

*4:社会保障政策がなぜ正当化されるのかについての、当時30代だった「経済学者」西部邁の1970年頃の議論が参考になる。上野千鶴子をして(笑)、「近代経済学の俊秀」の「ブリリアントな著作」と言わしめた『ソシオ・エコノミックス』ですね(たしか江藤淳の『成熟と喪失』の文庫版に寄せた解説文で、上野千鶴子が言及してた)。心理学と社会学の知見を動員して、近代経済学の根本原理=ホモ・エコノミカスという人間観を解体・再構築する試みです。

*5:「そんなのもう無理です」って簡単に言っちゃダメです。いや、私も国民社会を束ね直すのはほぼ無理だとじつは思うけど(笑)、それ以外の道では経済は先細るしかなくて、絶対生き延びられないからね。「クリエイティブな能力」を持った人が、プレゼンテーション能力とコミュニケーション能力を駆使して、食糧やエネルギーを生産してくれるんですか?って話ですよ。エネルギーや食料を外国が売ってくれなくなったら、日本の「消費社会」なんて簡単につぶれまっせ。