The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

さらばハイセイコー

 今、韓国で出版する予定の日本語教科書を制作している。日本の様々な「名言」を取り上げ、その名言を解説するエッセイを読みながら日本語を学ぶという内容の、上級者向けの長文読解問題集だ。出版社との正式な契約はまだだが、手続き的にはほぼ目途がついた。
 中心となるスタッフは、日本語教育を専門とする院生(韓国人1人・日本人2人)と、日本語長文の執筆&編集を主に担当する私。また、監修者として韓国の大学教授の支援を得ており、さらに、何といっても長文の調達にあたっては、20人以上の協力者に執筆していただいた。
 当初は、レッスン1からレッスン36までほぼ私1人で書くという計画もあったのだが、すぐ無理だとわかったので(笑)、けっきょく私が7本を書き、日本人スタッフの1人が1本、そして残りの28本をスタッフ4人の知人に依頼して書いていただいたわけです。


 で、その執筆協力者の1人に、寺山修二の「さらばハイセイコー」を取り上げた文章を書かれた方がいて、寺山修二なんかに関心を持ったことのなかった私もその詩をインターネットで調べて読んでみたのだが、これが泣ける(笑)。
 個人的な事情を述べておくと、私は中高時代に熱心に競馬を観ていて、その後大学生の頃に競馬情報をフォローする時間的余裕がなくなってスッパリやめてしまったため、競馬への熱狂は(大げさに言えば)「青春の記憶」のなかに閉じ込められてしまった。だからなおさら、この詩がうたおうとしているある種のノスタルジーに共感してしまうのかも知れない。


 「さらばハイセイコー」の全文
 http://www.geocities.jp/anato_senka2/meiba/haiseikoh.html


 ところで、この詩からは「ふりむくな、ふりむくな、後ろには夢がない」というフレーズが引用されることが多いようだが、そこだけ切り抜いてしまうと、「とにかく頑張ろうぜ!」的な、つまり体育会系的に「前向き」な詩のように思えてしまうのが実に惜しい。この詩はもっと寂しい詩なのである。「ふりむくな」といくら自分に言い聞かせても振り向かずにはいられないような、輝ける過去への憧憬=ノスタルジーが表現されているのであって、そうでなければ、ハイセイコーのファンが経験した歴史――競馬の歴史とは単なるレースの記録ではなく、ホースマンとファン一人ひとりの人生のなかで競走馬と馬券が演じた物語のことである――を、こんなにも詩的な哀愁とユーモアを込めて描く必要がそもそもないではないか。


 もちろん、ノスタルジーを表現しているからといって「後ろ向き」な詩というわけでもない。そもそも芸術のあらゆる分野で「ノスタルジー」が表現されるのは、憧憬に値する過去の記憶――他人の過去への想像でも構わない――がなければ、未来への希望の形も描きようがないからだ。つまり「ノスタルジー」の感情の中では、人間が後ろ向きであることと前向きであることが本質的に区別できないのである。
 偉大なる過去への「憧れ」こそが未来への想像力の源泉なのであり、愛すべき過去の「喪失感」こそが我々の創造力の源泉である。……という逆説を踏まえて読まなければ、「さらばハイセイコー」も単なる競馬オタクのつぶやきでしかなくなってしまう。


 検索したら、似たようなことを書いているブログがあった。
 http://d.hatena.ne.jp/SAGISAWA/20040922