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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

鈴木謙介『ウェブ社会の思想』(NHKブックス)

読書メモ メディア 社会


 オンラインゲームのなかに構築されているヴァーチャル・リアリティは、いまやひとつの仮想経済圏を成立させるほどの、そして現実の経済圏とも相互応答しはじめるほどの水準に達している。また、データベースに蓄積された個人情報をコンピュータが分析して、自分が次に購入すべき商品をシステムの側で決定(推薦)してくれるというサービスが広がっている。こうして、情報化の進んだ社会のなかで、物理的・実体的な存在としての「わたし」は徐々に背景に退き、データとしての「わたし」が前景化しているのである。
 さらに、「データとしてのわたし」を存在させているデータベースが、あらゆる生活用品にICチップを埋め込んでネットワーク化し、コンピュータで管理するという「ユビキタス」の構想と結びつけば、「わたし」が何も決定しなくても人生と社会が動いていくような時代がやってくるのかも知れない。情報化は「わたし」を客観的事実に変えてしまうのであり、人々は「宿命」を受け入れるかのようにして所与の「現実」にぴったり寄り添って生きていくようになる。


 こうした妙な未来予想が語られるのは、鈴木が、現代のウェブ社会を生きる若者たちの心理がすでに「宿命的決定論」、「端的な事実への志向」に覆われつつあると見ているからだ。「記憶」よりも(携帯電話などを用いた)「記録」に強く依存し、「データベース」に問い合わせて自分の行動指針を求めるような傾向がすでに現れてきているし、若者たちの「マスコミ批判」は「書いてあることが『事実』であったか否か」だけを問題にしているかのようだし、「ぷちナショナリズム」と呼ばれるような現象は「国家は大事だから大事に決まっている」という同語反復的な事実の肯定に過ぎないし、近年のサブカルチャー作品には「自分が閉じこめられてきた環境からの脱出」というモチーフが見られなくなったのだという。
 鈴木は『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)の中でも、若者たちが「やりたいこと」という内発的な動機を失って、データベース内の自分の行為の履歴を参照して「欲望すべきもの」を見つけ出した上で、お祭り騒ぎ的な熱狂でもってそれを「私の欲するもの」としてムリヤリ肯定し、しばらくするとその欲望の無根拠性に絶望するという、躁/鬱のサイクルを生きているのだと指摘していた。


 「カーニヴァル」的に「宿命」を肯定して生きることは、行為のたびにその意義について悩みながら生きることよりも、ある意味では幸せかも知れない。しかし「大きな物語」が終焉した現代にあって、一人ひとりが抱いている「宿命」はえてして島宇宙的な幻想となりがちだ。現代とは、「『小さな真実』が無数に跋扈する時代」(p.228)なのである。
 こうした社会状況下で、公共的な事柄についての決定がまともなものであるはずがない。決定に参加する人の数が増えれば増えるほど間違いは減っていくと考える「数学的民主主義」や、人々に公共的な意思を強制するようなシステムを設計すればいいと考える「工学的民主主義」といった、新たな民主主義モデルにも期待できそうにない。


 そこで鈴木は、「(オタクですら)他者と関わらざるを得ない」というひとつの「宿命」的状況に気づくこと、そしてネット上の島宇宙の外側の社会には、歴史的な「持続」という、ネット上のにわかコミュニティには持つことのできない重みが宿っているのだということに気づくことによって、公共的な領域へと眼を開いていこうと言う。島宇宙的幻想としての「宿命」が宿命的に受け容れ不可能なのだということを、「他者」や「歴史」の存在を根拠として論理化していくわけである。


 この処方箋には具体性が乏しく、有効なのかどうかは分からない。また、鈴木の分析は現実の傾向を誇張し過ぎているきらいがあって、こうして状況の大変化を声高に述べ立てること自体が「宿命論」を加速するのではないかとも言いたくなる。しかし、ウェブ技術が生活に浸透するとともに「事実」、「現実」、「宿命」(と思われるもの)に人々が惹かれていく傾向が生まれているという指摘そのものは、重要であると私は思う。そしてそういう事態が生じていることを裏付ける事実が豊富に紹介されているのもありがたい。
ただ、こうした事態は、古典的な「大衆化」の現象として捉えたほうがすっきりする。鈴木が「事実」への偏向として描いているのは、要するに事柄に対する意味解釈の柔軟性や多様性が失われつつあるという状況であり、これは(キルケゴールニーチェ、オルテガ、アレントなどが論じてきた)「大衆社会」あるいは「全体主義社会」の基本的な性質のひとつだ。


 ところで、確認しておくべきなのは、人間はそもそも「解釈の多様性」などを願望してはおらず、存在の確かさ(リアリティ)をこそ望んでいるのだということである。出来ることならば全員一致の、解釈の余地のないほどリアルなものにたどり着きたいと願うのが人間である。ただしそれはいつまでも不可能な理想であって、平板化した単一の意味解釈というのはたいてい間違っているものであり、「(ほぼ)全員一致の解釈」の寿命は短い。軽率にもそれが可能だと勘違いしてしまった社会は、「これこそがリアリティだ」と言って強力に人々の意思が統合される局面と、「実はあれはウソだった」と言ってとめどなく意思が分裂して「不安」が高まる局面が交互にやってくる不安定な状態に陥る。日本のような大衆社会で生じているのは、こういう現象なのではないか。(この往復運動は、鈴木が言うような、カーニヴァル化する社会における個人の躁/鬱のサイクルと相同的である。)
 「リアリティ」と「不安」の間の揺らぎそのものが人間の人間らしさであることを理解した上で、その揺らぎを飼い慣らし、意味解釈の統一性と多様性がうまくバランスされている社会が、まともな社会なのであろう。そんな社会が存在するのかどうか私は知らないが、人間が人間である限り、目指すべきはそういう社会である。


 鈴木は、「他者との関係への宿命」を生きよと言うが、私ならむしろ、「人間であることの宿命」に気付けと言いたい。また、ウェブ礼賛論はもとより、ウェブ批判論も含めて、状況の「大変化」が起きていると騒ぎ立てる議論の誇張に惑わされず、生じているのは古典的な「大衆化」現象に過ぎないということを理解しなければならない。
 人間の生のあり方を根本的に変えるような技術的進歩を試みたり、そういう変化が生じていると勘違いして思想を組み立てようとしても、悲劇的な損失を生むか、喜劇的な滑稽さを生むことによって蹉跌せざるを得ないだろう。いつまで経っても「不安」と「リアリティ」の間で揺れ動く「人間」として生き続けているであろう、未来の我々と我々の子孫のために我々がなすべきことは、あくまで「人間」を前提とした技術と思想を組み立てておくことである。