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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

浅田彰『構造と力』

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて


 ちょうど大学1年生のときに読んだのだが、この本で感心できたのは以下の部分のみかも知れない。

 こうして、ぼくたちは大きなサイクルを描いて、いま大学の門の前に立つあなたのところへ戻ってきた。門をくぐったあなたは、教養課程に入ることになる。ここで、いまあなたのいるところこそ絶好の地点なのだということを強調しておきたい。そこを、専門課程に備える予備学習の場としてではなく、視野を多様化するための拠点として活用すること。急いで狭苦しい枠組を作り、その中に閉じ込もってチマチマと空白を埋めていくという、一見勤勉そのものの「学習」態度、その実、これ以上の怠惰はない。あくまでも広い視野を求め、枠組を外へ外へと開いていくこと。無責任に理想論を述べたてているわけではない。これは、否応なしにある程度の専門分化に耐えねばならぬ地点に立って、いささかの羨望をこめて振り返ったとき、どうしても言っておかなければならないことなのである。
(p.18、「序にかえて 3〈教養〉のジャングルの中へ」より)


  本書は、浅田彰が26歳の時に書いた、フランス現代思想、ポスト構造主義の入門書である。現代社会をめぐる著者の思想・批評の趣旨に賛成というわけではないけど、30年ぐらい前に一世を風靡したフランス現代思想の入門書として読む分にはとても分かりやすい本だ。
 当時十数万部のベストセラーとなったらしく、別の著書『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』で打ち出した「スキゾ」と「パラノ」が、第一回流行語大賞の新語部門銅賞に選ばれた。こんなゴテゴテの思想書がベストセラーになる時代があったとは……。


 そもそも、デリダだのラカンだのといった思想家の言ってることは難しすぎて良く分からんわけですが、その難解な哲学がわかり易く、著者なりの一貫したパースペクティブのもとに整理されていて、非常に読みやすい本ではある(チャート式に単純化して理解するのがはたして良いのかという問題はあるにしても)。
 で、解説書としては理解しやすいのだが、本書は一応単なる解説書ではなくて、著者なりのメッセージが込められている。このメッセージが結局のところあまりにも軽やか過ぎて、ちょっとついて行けんというのが最大の問題だ(笑)


 「人間と社会の学」(人文社会科学)はいかにあるべきか?というのが本書の大きなテーマである。
 著者はまず、レヴィ=ストロースを中心とする構造主義が、スタティックな分析に留まるなどの理論的限界を持っていることを指摘し、クリステヴァバタイユ、ラカンらの二元論的でダイナミックな分析へと進んでいく。そして彼らより前の時代に西洋哲学・キリスト教思想の伝統をまるごとひっくり返したニーチェに触発されつつ、フランス現代思想を率いるデリダドゥルーズ、ガダリらの方向へと超え出ていく。
 『構造と力――記号論を超えて』というタイトルの意味は、「記号の秩序の構造分析では人間社会を理解するには不十分であり、現実の社会を動かしている『カオスを矯める力』と『それに反発する力』の葛藤の運動を把握するような理論が必要」ということである。


 そのようにして「近代」という時代を捉えてみれば、そこは貨幣を「媒介」又は「整流器」として皆が一定方向に向かって競争を繰り広げる、資本主義の「強いられた遊戯」「哀れな道化たち」の世界であると著者は言う。われわれはこの世界から抜け出さねばならない。しかし、いかにして?
 このあたりから著者の口ぶりは急に文学的になって、「外へ出よ。さらに外へ出よ。悦ばしく多数多様な舞踏の技術を身につけ、真の意味で遊戯すること。差異を差異として笑いとともに肯定し、享受すること。目指すべきはサラサラと砂が舞いおどる広大な砂漠だ!!」といった趣旨の、スローガンめいたメッセージがあふれだす。
 流行語大賞に選ばれた「スキゾ」と「パラノ」は、『逃走論』という別の著作に出てくるもので、スキゾフレニー(分裂病)とパラノイア(偏執病)の略だ。著者の意図は当然、「パラノ」から「スキゾ」へということ。つまり日本人よ、分裂病者みたいな精神をもって砂漠の上に踊り狂う、リゾーム(根茎)状に果てしなく発散する、そんなイメージでこの現実の社会から逃走し続けなさい!ということだ。


 ……ぼくは遠慮しときますが(汗)