The Midnight Seminar

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M・メルロ=ポンティ『行動の構造』

行動の構造

行動の構造


 この本はすばらしい。メルロ=ポンティは、「有名な割に人気がない」「おもしろい割に読まれてない」思想家という気がするのだが、その「穴場」性がまたいい(笑)


 本書は、1930〜40年代当時の生物学(動物行動学・生理学)や心理学の実証的、理論的成果をつぶさに検討することから始まるのだが、そこから「社会科学」にも重要な視点を提供してくれるような、独特の認識論的視座を打ち立てている哲学書である。前半はやたらとチンパンジーなどの動物が登場するのだが、目指すのはあくまで、「人間とはどんな生き物なのか」の解明である。


 本書のすごさは、プラトン主義的な「形而上学」や「実在論」の不可能性を指摘しつつも、「形而上学」をかなぐり捨てて「絶えざる脱構築」に走るような、ポストモダン的な軽卒を犯さないところにあると思う。
 「人間の使用物や文化物といえども、もし、それを出現させる活動が、それらを否定したり超出したりするものだという意味をも持たないとしたら、そのようなものとして存在することもないであろう。」とメルロ=ポンティが言うとき、彼はすでに「形而上学」の不可能性を認め、人間精神や人間社会の「脱構築性」を見据えていた。「意味」や「文化」を創り出す働き(能力)は、同時にそれを壊す働き(能力)でもあるのである。だから人間精神は、「脱構築」的な不安定性を絶えず引き受けなければならない。
 しかしあくまでメルロ=ポンティは、人間を、それでもなお「ゲシュタルト」的な統合・平衡を精神のうちに創出しつづける存在として描いている。ここが面白いところなのだ。


 例えば昔、浅田彰の『構造と力』を読んだら、メルロ=ポンティが「調和的なビジョン」にこだわっていることをやたらと批判していたのだが、それは浅田の軽率というものであって、それなりに「調和」した精神を持たずに人間が生きられるわけがないのだ。メルロ=ポンティは、「創ること」と「壊すこと」の両義性を捉えようとした。昔の浅田彰みたいに「壊すこと」が大事なのだと一方的に説きつづけるのは不毛である。


 「実在論は、哲学として見れば、一つの誤謬である。なぜなら、それは一般に或る経験を独断論的テーゼに転換し、まさにそうすることによってそれを変形し、存立しえないものにしてしまうからである。しかしながら、その誤謬は、正当な理由をもった誤謬であり、本物の現象に支えられているのであって、その現象を顕在化させることこそ、哲学の任務である。」


 正当な理由をもった誤謬!
 なんていい表現なんだろう。ここで「実在論」は「形而上学」と読み替えても良いと思う。それを「正当な理由をもった誤謬」とみなすメルロ=ポンティの“両義性”の哲学。こういうのこそ、「健全」な思想であると私は思う。
 この思想家が53歳で早逝したというのはじつに惜しい。