The Midnight Seminar

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西部邁『経済倫理学序説』

経済倫理学序説 (中公文庫)

経済倫理学序説 (中公文庫)


 1983年に出版され、同年の吉野作造賞を受賞した、経済学者時代の西部邁の代表的作品のひとつ。「学者」時代といっても本書はほとんどエッセイのようなものだから、読みやすいし面白い。 内容は概略以下の通り。


 「プロローグ」は著者が一貫して説き続けている「学問論」の要点で、専門科学としての「経済学」の不毛さを指摘した上で、社会科学の「総合」のための糸口を示している。その糸口とは、「古典」の吟味と、「言語・記号論」の導入などである。
 本論部分は、前半がケインズ、後半がヴェブレンについての評伝である。戦後日本の経済学界で忘却あるいは無視されてきた、この2人の経済学者の思想・人生・人物像をたどり、そこに「プロローグ」で言及したような「社会科学の総合」のためのヒントを見出していくわけである。


 本書が執筆された当時(まぁ現在もだけど)、ケインズ型の公共投資を重んじる、つまり計画経済に傾きがちの経済思想は忌避される傾向が強く、時代は「レッセフェール」の思想へと舞い戻りつつあった。
 しかし市場システムは、社会的な規範・道徳に支えられてでなければ、そもそも存立すること自体が不可能である。人間のあらゆる活動には、「時間性」という不確実性の契機がつきまとっていて、未来に何が起きるかは分からない。そうした不確実性を統御するために、政府の介入も含めて、ある種の社会的・心理的な制度が公共的な枠組みとして設えられていなければ、そもそも「自由な市場」を打ち立てることすらできない。
 著者によれば、ケインズの思想のポイントは、経済システムにおける「均衡と不均衡」「慣習と変化」「確実性と不確実性」「合理と非合理」「個人と集団」「競争と干渉」といった二項対立をしっかりと捉えていた点にある。これらの対立の中でうまくバランスをとるために、慣習的な秩序としての、社会・心理的な規範が必要とされる。しかし、慣習や規範などというものは「経済学」のよく分析しうるところではない。そのことを暴いて、「経済学」という専門科学を崩壊の一歩手前まで連れてきてしまった経済学者、それがケインズという人であったと著者は解釈する。


 さて著者によればヴェブレンは、経済その他の人間活動を可能にしている「制度」を、「慣習」によって形成される象徴的意味の体系として、つまり記号のシステムとして解釈しようとした最初の経済学者である。
 アメリカでノルウェー系移民が引き受けざるを得ない疎外感、生来の奇矯な性格、そして抜群の知的能力。それらをもってヴェブレンは、ふんだんな皮肉や逆説を込めて、制度というものの意味を懐疑し、解釈しつづけたのである。
 そして、人間社会の制度において「略奪的精神」が勝利していく過程として文化の歴史を描いてみせたが、彼はそれに対して憎しみや断罪の言葉を差し向けたわけでもない。むしろ沈着な態度をもってそれらを解釈し尽くすことに力を注ぐ、それがヴェブレンという思想家の示した姿勢であった。


 ケインズもヴェブレンも、「異端者」ならではの縦横自在な眼差しのもとに、専門性の内に閉塞することのない総合的な知性を駆使して、社会や経済を解釈しつづけた。そして彼らは、短絡的な自由主義や平等主義、快楽主義や産業主義に対して、「懐疑」の精神を失うことがなかった。
 ところが戦後日本人のアカデミズムは、そうした懐疑の精神をあっさり捨て去ってしまっている。ちょっとはケインズとヴェブレンを見習って、総合性を持った人間解釈を復活・洗練させよというのが本書のメッセージである。(繰り返すが本書が描かれたのは30年前だ。)