The Midnight Seminar

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ボードリヤール『象徴交換と死』

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)


 ボードリヤールが本書で主張していることを、つづめて言えばこういうことだ。
 「生産」の時代は終わった。シミュラークル(オリジナルなきコピー)としての記号が着地点を失って戯れる「ハイパー・リアリティ」の時代がきたのであり、資本(コード)のシステムがわれわれの生活を隅々まで支配しているのである。
 その支配はあまりにも強力だ。経済学、精神分析学、言語学における数々の理論的な試みも、コードにシステムにあっけなく絡めとられてしまっている。われわれに必要なのは、コードそのものを無効化させるような、カタストロフィックな戦略である。
 資本(コード)は、本来互酬性の規則に従って交換されるべきであった象徴的な「死」を禁ずることによって、つまり「生(=緩慢な死)」を強要することによって、われわれを支配している。したがって、資本のシステムを攪乱し、コードの支配から逃れ出るための唯一の手段は、挑戦的な「死」の象徴交換(贈与)を取り戻すことである。われわれの「死」を突きつけることによってのみ、システムを内部から崩壊させることが可能なのだ。


 ・・・このボードリヤール現代社会に対する分析──といっても30年前の著作だが──は、あっさり言ってしまえば誇大妄想のようなものだと思う。
 たしかにシミュラークルの戯れと言っていいような、ハイパー・リアリティの領域が拡大してきてはいるだろう。しかし、見たところボードリヤールが言うほどのドラスティックな変革は生じていないし、人々はべつに「リアリティ」から疎外され尽くしているわけでもなく、まだそれなりの「リアリティ」を確信しつつ生きている。俺は「母親の生きた男根」と化してしまったのか?冗談じゃない!


 さらに、人間はそもそもの昔から、ボードリヤールが言うところの「ハイパー・リアル」な世界を生きてきたのだともいえるんじゃないかと私は思う。記号以前の「リアリティ」などは、古代人にとっても幻想にすぎなかったのではないか?
 記号の支配は、人間の歴史とともに古いはずなのである。「象徴交換」から「シミュレーション」への移行なんていうのも、せいぜい、記号表現と記号内容をめぐる共同の信念体系が不安定化したり流動化したり──そして陳腐化したり──しているという程度の、相対的な変化にすぎない。「にすぎない」というのは事態への過小評価に通じてしまうかもしれないが、少なくとも、ボードリヤールのように大騒ぎする必要はないと思うのですが。


 したがってボードリヤールが提示する「死の象徴交換によるシステムの壊乱」という処方箋も、現代人にとって有効でないどころか有害ですらあるかもしれない。われわれに必要なのは、むしろ流動化し陳腐化した記号のコードを、マトモで安定したものへと組みなおしていくような、どちらかといえば保守的な努力であって、それは不可能ではないだろう。目指すべきはコードの壊滅ではなく、コードの再構築だと考える方が私には健全に思える。コードの破壊のあとに残るもの――それはニヒリズムの腐臭ではないのか?


 けっきょく本書が示し得たのは単なる解放思想(バカみたいな)だったのであり、解放思想の路線では誰も、未来へ向けてビジョンを打ち立てることができなかったのだ。だいたい、こんな呑気な髪型の頭(http://www.infed.org/images/people/baudrillard.jpg)から、有効なビジョンが出てくると考えるほうが間違いである。写真で見るかぎりボードリヤールの髪型は、若かりし黒髪の時代から基本的な構造は一貫していて変わらない。ぜんぜんカタストロフィックじゃない!
 やたら難しくて分厚い(脈絡の捉えにくい文章が550ページも続く)くせに、ほとんど役に立たない。それで文庫なのに1500円もする。でも有名な本だから読まないといけないという……苦痛の書である。