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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

よく耳にするけど絶対ヘンだと思うビジネス用語

変なビジネス用語

 今日、朝日新聞のニュース記事で「ほぼほぼ」という表現が市民権を得てきたみたいな話があり、はてぶのホットエントリに上がっていた。
 
www.asahi.com
 
 これはべつにビジネス用語として紹介されているわけではないんだけど、ビジネスマンがよく使ってるというイメージがある。就職するまでこんな言葉聞いたことなかったし、テレビでも耳にしないので、私のなかでは「変なビジネス用語」の一つとして認識されている。


 ちなみに私自身は「ほぼほぼ」という表現は全く使わない。べつに意図的に避けているわけではないんだけど、自分の口から出てくることは絶対ないなという感じ。「ほぼほぼ」と言っている人に文句をいいたいわけではないものの、どうしても気持ち悪いという感覚があって、どんだけ耳にしても自分の口から出ることはないなと。
 

 こういう、「ビジネスマンが使うヘンな言葉」ネタはたびたび盛り上がっていて、たとえば以前はこんな記事↓を読んだ。ビジネスマンがムダに横文字を使おうとして変になっているという話だ。


http://matome.naver.jp/odai/2142173791626860501matome.naver.jp


 似たような記事はいくつか見たことがあって、例えばほぼ日に載っていたこの記事↓なんかは、とてもおもしろく、かつ「これらの表現はネタとして扱われるべき変な日本語である」という判断にとても共感できる。かなりオススメな連載です*1

ほぼ日刊イトイ新聞 - オトナ語の謎。


なるはやで、紙に落とし込んでいこうではありませんか。
いったんペンディングしたものを、
仮にフィックスして、うしろの時間を見ながら、
アバウトに丸投げしていこうではありませんか。


 さて、ほぼ日の記事に載ってるものが多いのだが、私自身が仕事上よく耳にするものの自分では絶対に使わないビジネス用語について、以下にメモしておく。


「チャリンチャリン」

 何か具体的なサービスや事業のビジネスモデルの話をしているときに、手数料・利用料などの収入のことを「チャリンチャリン」という人がけっこういる。賽銭箱にお金が放り込まれるようなイメージなんだろうか。


 不思議なことに、作業委託費の収入とか製品の販売収入とかは、チャリンチャリンとは言わない。
 なんというか、「いったん仕組みを作ってしまうと、ほっといても自然にお金が流れてくる」的なビジネスモデルの場合に*2、「チャリンチャリン」という言葉が使われるようだ。何かを1回利用するごとにお金の支払いが発生する様子が、「チャリン」という音で表現されているのだろう。


 たとえば、ECモール事業で出店者からモール運営者に入るシステム利用料みたいなのは、「チャリンチャリン」と呼ぶことが可能。そういう事業のことを「チャリンチャリンビジネス」と呼ぶ人もいる。


「お願いベース」

 「お願いベース」は、人や企業に何かを頼む時に、へりくだった感じを強める目的で用いられる。頼みごとの際の「申し訳なさ」や、「無理だったら別にいいです」感を強調する表現だと言えば分かりやすいだろうか。
 「本当はこんなことをお願いできる義理ではないのだが、ここは一つ、なんとかお願いしたい。しかしまぁ、本来無理なお願いであることは承知しているので、ダメならだめで諦めるつもりですが」というニュアンスを表現する際に、「お願いベース」が用いられる。


 「これはもうほんとに、お願いベースなんですけど、できれば来月までに◯◯をして頂けますと弊社としては大変助かるところでして・・・」みたいな。ベースって何なんだよ。
 ベースって何だよ感は「正直ベース」(頻出)にも言えることです。


「おいくら万円」

 「幾ら」の意味。だいぶ変な日本語だけど、ビジネスマンの間ではごくふつうに使われている。
 見積もり依頼するときに、「いったんこの部分の要件をこちらで決めてしまえば、開発費がだいたいおいくら万円というのはすぐに出していただけるんですかね?」みたいな。
 万単位ではなく億単位になりそうな場合でも、「おいくら億円」とは言わず「おいくら万円」が用いられる。


「いまいま(のところは)」

 これは「ほぼほぼ」と同じ繰り返し系ビジネス用語で、単に「今のところは」の「今」を繰り返したもの。
 「このオプションサービスは、いまいまのところは無償提供でも構わないが、いずれ利用料を取るようにして、チャリンチャリンビジネスとして育てていくべきだ」みたいな。


 「今のところは」という表現は、「将来は状況が変わるかもしれないけど、現在のことに限定していうと」というニュアンスを持っているわけだが、これが「いまいまのところは」になると、たぶんその「限定」感が強められるのだろう。つまり「ぶっちゃけ来月にはどうなってるかホントわからないんだけど、少なくとも今はそう言える。今はね」みたいな状況で、「いまいまのところは」が用いられるわけである。
 「のところは」に繋げず「いまいまの状況をお伝えしますと…」みたいな使い方もある。


「込み込み」

 これも繰り返し系のビジネス用語の一つ。たいていは、金額に何かが含まれていることを言う時に用いられる。
 「保守料と回線費用も込み込みで、月額◯万円になります」みたいな。「込み」でええやんと思うけど……。「全部含めて」感を強めたいのだろうか。


「共有」=「連携」=「展開」

 情報とか資料をあげる/もらうことを、ビジネスマンは「連携」と言ったり「共有」と言ったり「展開」と言ったりする。
 「共有」はまぁ自然だと思うけど、「連携」とか「展開」とか言いたがる人もけっこういて、変な日本語だなぁといつも違和感を覚える。


 「それでは貴社内の方針が固まりましたら、我々にも連携いただけますと・・・」
 「先日◯◯様よりご提示頂いた資料を、関係者の皆様に展開いたします」(と言ってメールに何か添付されてばらまかれる)


 みたいな。IT企業の人がよく使っているイメージがある。


「〜いただきたく。」

 ビジネス用語というわけではないかもしれないけど、メールとかで何かをお願いするときに語尾を「〜いただきたく。」で止める人いるよね。「◯月末までにはご決定いただきたく。」みたいな。


 かなり上から目線で強要してるように感じられるので、私は絶対そういう表現は使わないんだけど、人によってはメールで何かを依頼する時に常に「いただきたく」止めをしている。
 まぁ発注者が受注者に対して使う分にはいいかも知れないけど、逆の立場で使っちゃってる人もいるから驚く。しかもそういう人は、「いただきたく」止めを、デキるビジネスマンの表現だと勘違いしてる節があったりもする。


「仁義を切る」

 これは本当におかしい。ビジネスマン(役人の人もよく使うが)が「仁義を切る」という時、その意味は「隠し事になってしまわないように、事前に知らせておく」という意味だ。
 たとえば、あるプロジェクトをA社との間で進めていたところ、じつは並行してB社との間にも似たようなプロジェクトが生まれることになったとする。A社が「自分たちだけがやっている」と思い込んでいるまま、B社とのプロジェクトのほうが先に世に出てしまったりすると、A社としては浮気されたような気になってヘソを曲げてしまいかねない。だからそういう場合は、B社とのプロジェクトが本格化する前に、「A社に仁義を切っておく」のだ。


 しかし本来「仁義を切る」というのは、ヤクザの世界における「初対面の挨拶」のことだ。Wikipediaにも詳しく載っている(リンク)が、「お控えなすって」とかで始まる定型的な挨拶の仕方があるわけ。そういえば昔YouTubeで見たことがあるんだけど(今は消されてる。ここにテキストが載ってた。)、中国地方のヤクザに密着取材したテレビ番組があって、親分が「最近の若い者は、仁義の切り方も知らない」と嘆いて、子分に対して仁義の切り方を実演しながら指導していた。腰を低くして、片手を差し出して手のひらを見せるようにし、ドスのきいた声で「お控えなすってぇ!」とやっている姿は、けっこう迫力あってかっこよかったな。
 方言によって変わるみたいだが、


 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「それじゃぁご挨拶になりません、まずあんさんからお控えなすってぇ」
 ヤクザ2「……」
 ヤクザ1「早速のお控え、ありがとうござんす」


 みたいな感じで、相手に控えてもらった上で、自分から先に自己紹介を切り出すのだ。ググると色々なバージョンが出てくるけど、日本語としてもリズム感があって美しい。


 それが「仁義を切る」ということなのに、会社で部長とかが「A社には俺が仁義切っとくから安心して」とか「A社に仁義は切ったの?」とか言ってるのは本当に滑稽。



他にも何か思いついたら追記します。

*1:ヘンな言葉を集めた連載ではなく、就職したら耳にする言葉を集めたものなので、収録されている言葉は別におかしくはないものが大半だけどね。

*2:本当にほっといてもお金が流れてくるビジネスなんてあまりないけど。

日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について」がたいへん子供っぽい件

子供っぽい理事会提案

 日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)」という提案文が、にわかにはてブのホットエントリに上がっていた。(もともとは去年の9月に公表されたものみたい。)


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)


 私は、利益相反の懸念を重視して「タバコ資金」の助成を受けた「タバコの健康への影響に関する研究」を受け付けないというのは、ある面では合理的な判断であり得ると思う(研究テーマ等と関係なく資金源を基準に排除するのは過激だと思うが)。だからこそ、どんな分野でも査読者の選定には注意が払われているわけだし。また、学会が特定の価値観へのコミットメントを宣言し、それと対立する価値観を学術的討議の場から排除することも、「まぁそういう所があってもおもしろいんじゃないの」ぐらいに思っている。
 しかしこの理事会提案は、文面が穏やかでないというか、子供っぽいのが気になった。明らかに冷静さを欠いていて、言わなくていいことを言い過ぎという感じだ。

タバコ会社は人の命を奪うタバコを販売することによって経営が成り立っています

JTが提供する研究資金はほとんどすべてタバコ売上の利益によるものであり、ヒトの命を奪って作られたものであると考えるべきです。

人の命と引き換えに生み出されたそのような資金


 とかいうのはあまりにも文学的だし、
 

最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。

現状の日本のタバコ会社による研究助成がタバコを売るための謀略であり違法なものである


 みたいな勘ぐりを、学術団体が理事会名義で公言するのは異常なのではないだろうか。

受動喫煙の健康影響の有無について1980年から1995年の間に発表された総説論文106編を解析したところ、うち39編(37%)が受動喫煙の健康影響を否定していましたが、そのうちの29編(74%)の著者はタバコ会社との関係がありました。多変量解析で受動喫煙は健康影響がないとする論文の様々な要素・特徴ごとのオッズ比を調べると、唯一有意に関係していたのは著者がタバコ会社と関係が有るか無いかで、そのオッズ比は88.4(95%信頼区間16.4-476.5)でした。従って客観的であるはずの科学研究においても著者のタバコ会社との関係性が大きな影響を与えており、タバコ会社から資金を得てなされた研究は、タバコの害を低く評価する方向にバイアスしている可能性があると考えられます。


 というような記述も悪質だ。週刊誌レベルの文章なら、「受動喫煙の健康影響を否定する結果が得られた研究は、タバコ会社関係者によって行われたものが多い」という事実から「これはタバコ会社の謀略だ!」と論じても許される気はする。しかし科学者の団体が、論文の内容を精査するわけでもなく、「タバコ会社の関係者だから、研究結果も捏造に違いない」という予断だけを振りまくというのは、尋常ではないと思う。
 上記のようなデータはたしかに興味深いものではあるが、そのことをもって個々の研究結果を否定できるわけではないはずだ。「バイアスしている可能性がある」としか言っていないが、印象を誘導しようとしているのは明らかな文面である。
 そもそも、「世間一般の風潮が『禁煙ファシズム』に支配されてバイアスを有しており、タバコ会社関係者だけが冷静な研究をできているという解釈もできる」とか言われたら水掛け論にしかならないので、こういう議論は不毛である。


 ある一つの理論的な仮説を実証するのにたくさんの研究の蓄積が必要な場合はけっこうある。「こんな実験をやってみたら、仮説を支持する結果が出た」「でもこういう実験だと、仮説は支持されなかった」みたいなのが、多数の研究者によって長年繰り返された上で、「少なくともこういう点については、過去の大方の研究で結果が一致している」みたいなことが言えるようになるわけだ。
 数学の研究とかなら論文1本で明快な真理を導き出せるのだろうが、研究の「蓄積」を踏まえて総合的に判断することでしか、何が真理であるのかを検討できないような研究領域は多いはずである。そういう領域では、実験や調査で対立する結果が得られることについてはある程度寛容であるべきで、文句があるなら研究内容を精査したり、メタ分析を実施したりすべきだろう。
 
 
 何も論文を読まずに勝手に想像で言うと、たとえば受動喫煙の悪影響を調べるにあたって、収集したデータに対し「受動喫煙の悪影響はない」という帰無仮説の検定を行って、悪影響ありとかなしとか論ずる場合が多いとすると、あるデータにおいてこの帰無仮説が棄却されなかったことを報告しているだけであれば、実験デザインに細かいツッコミを入れることで、色々反論は可能なはずだ。そんな研究は腐るほどあり、そういうものを含めて「研究の蓄積」が進み、論争を重ねることによって、学術的な真理に近づいていくものだと思う。


 今回の理事会提案は資金源のみを基準に研究発表を排除するというもので、それがタバコの健康への影響を扱うものかどうかは関係ないというふうに読める。利益相反を排除するのが目的であれば、研究テーマとの組み合わせでルールを設定するのが合理的である。それをしないということは、学術研究における利益相反を排除しようとしているのではなく、とにかく特定の団体と戦うことが目的だと言っているわけだ。それはそれで面白いので頑張ってくれたらいいと思うが、学術的に真理を探求する際の態度として合理的かというと、怪しいだろう。

この概算にもとづけば、JTの調整後国内営業利益2,387億円から支給される補助金は340万円ごとに、ひとりの日本人の命が奪われた結果であることになります。


 に至っては意味不明なので、誰か解説してほしい。
 
 

パブコメは反対意見のほうが冷静

 これに対して、既に寄せられているパブコメにもヤバイものがある。


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についてのパブリックコメント


 どうでもいいが、上記リンク先のURL末尾が「tabacco-opinion」となっていて、英語での綴りは「tobacco」だと思うのだが、あえてイタリア語を混ぜてみたのだろうか?
 内容的には賛成意見が多いのだが、賛成意見と反対意見を比べると、賛成意見のほうが子供っぽいと感じる。

貴会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止」について
うれしかったのでご連絡差し上げました。大賛成です!!!
趣旨につきましても大いに賛同いたします。どんどん広まっていくことを
期待しております。
応援しておりますのでぜひがんばってください。


 「大賛成です!!!」程度ならTwitterで言ってればいいのではないか。

タバコ試験で行われた研究の規制の件ですが、賛成です。
この時代、そして、これからも禁煙に向けて動いてくと思います。
したがって、規制するのは当然だと思います。


 漢字変換からしてミスっとるし・・・。

今回の提案に関して,全面的に賛意を表明します.
さらに,追加をしていただきたい点を列記いたします.
● 提案にも記載されている「JTが経営する医薬品事業」は「鳥居薬品」の事だと思われますが,わが国の学会の学会プログラム・抄録集への広告掲載例が見られます. その他,学会時の企業展示としてブースが出されている場合もあります.さらに冷凍食品メーカーであるテーブルマークも子会社化していますので,これらのグループ企業を含めて協賛の禁止を謳っていただきたい.
● 他の学会ではありますが「JT生命研究所」および「JT」の研究員が発表している事例があります.これに関しても内容にかかわらず所属を明記しての発表は禁止としていただきたい.


 ここまで来ると本格的にファシスト臭が漂ってきますね。

2. 「喫煙科学研究財団」は、喫煙と健康問題の科学的解明を進めるために研究事業をおこない,毎年採択課題は160もある。これらに基づいてJTは,まだまだ発展途上の研究が多いため「たばこの有害性は科学的に証明されていない。」と主張している。また研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている状況である。


 主張に反論すればいいのに、「研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている」ってそんな断定していいんだろうか。


 これに対し、反対意見は冷静なものが多い。

理事会(案)に反対です。


1. COIを明確に示していれば、民間からの助成を受けていても中立の立場からの研究と言えるので、タバコ業界からの助成を受けた論文投稿に限定してこれを排除する理由が明確でない。
2. タバコ関連業界から助成を受けた論文を一方的に受理しないことにより、色がついている可能性のある研究論文を予め排除することが可能ではあるが、色の識別は雑誌の査読者がしっかり内容を精査することで対応できるはずである。
3. タバコが健康を害する大きな要因であるのであれば、衛生学会会員の興味もタバコの影響に傾いているはずであり、今回の措置をとればむしろ喫煙の影響に関する論文投稿が少なくなる懸念がある。
4. たとえタバコ関連業界から助成を受けていたとしても、タバコの影響を論じた研究論文を審査しないことそのものが、「日本衛生学会タバコ対策宣言」あるいは、禁煙を推進することに繋がるとは思えない。
5. タバコ以外にも自動車工業界からの直接投稿された論文も受理されている。大気汚染の原因となっている業界からの論文だからといって拒否されてはいない。
6. 本趣意書に「最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。」と記載されている。この記述は禁煙運動を進める1団体としての意見としては問題がないであろうが、学会としての意見書としては如何なものであろうか。上記述が確証に基づくものでなければ、中立的立場にあるべき学会が想定でものをいう団体と見做される危険がある。

代替意見(案)
タバコ関連業界から助成を受けた論文に関しては、投稿時にCOIをさらに厳格化することとする。助成を受けた金額、期間、ならびに内容は業界の意見を反映していないことを正確に記載することを求める。

論文はフォーマルで公平な議論のためのツールであり、あらゆる研究に対して開かれたものであるべきだと考えます。そのため、今回のご提案については賛同しかねます。

まず第一に、研究成果の公表と議論を無用に抑圧してしまう可能性が懸念されるからです。COI管理のコンセプトからも、COIがあるからといってその論文が公表されるべきではないとは考えられません。あらゆる研究結果について、COIをしっかりと開示し、それを読者が加味して論文の内容を検討すできるようにすることが重要視されており、私もこの考えに賛成です。


タバコ等、大きな寄与的健康被害の原因となっているであろう製品やサービスの提供者からの資金援助についても、それを積極的に公表したものであれば、他の研究と同様に歓迎されるべきと思います。十分な情報開示を伴った形で論文を掲載し、議論の材料とすることで衛生学の発展に貢献できるのではないかと考えます。 


第二に、健康への脅威となるか否かという価値判断は相対的であり、時として困難なため、タバコ産業への特別措置をすることで、他の産業への対応も求められ、泥沼的な対応が迫られるのではないか、という懸念があるからです。タバコ産業を絶対的な脅威とすることは難しいと思います。たばこ産業によって経済的利益や社会的役割を得、生活している人もいます。ポテンシャルとして健康への脅威を与えうる産業は他にもたくさんあります。すべての産業といってもいいかもしれません。たとえば、軍事産業、ジャンクフードを販売する食品会社、アルコール飲料製造メーカー、自動車メーカー(交通事故の脅威)なども考えられます。

学術学会根本的な存在価値のひとつは、「自由な研究発表の場」であり、「レッテル貼り」や「特定の価値・立場の排除」というような原理主義的な立ち位置に、学術学会は陥ってはならないと考えます。科学的に明らかな誤りは、査読の過程や他研究者による検証の過程で正されるべきものであり、提案理由に記載されている3つの内容は理解できますが、それを盾に、最初から「ドアを閉じること」は妥当とは思いません。昨今ようやくCOIの考え方が理解されて広まり、タバコ資金に限らず研究資金の出所を明示することが一般的になっています。COIを明示するだけでは不十分でしょうか。

タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についても同様に言論の自由を記した憲法21条との法的整合性との関係で、問題になるはずである。
(中略)
納税が免除されている公益社団法人である日本医師会に日本医学会が置かれ、その分科会の一つが日本衛生学会である。したがって、日本衛生学会は納税が免除されている公的組織であるから、私的な任意の組織とその性格が異なるはずである。公的機関の運営や内規などは、憲法との整合性が必須になるが、私的・任意組織ではその縛りがほとんどなくなるはずである。本件を本学会の制度とするならば、本学会を日本医学会の分科会から離脱させれば、憲法21条との法的整合性が問われなくなるはずである。ただし、一般法人の場合、納税義務が生じる。


 最後の憲法の話が、実際の法解釈として正しいかは知らないけど、論旨としては説得力がある。


[追記]
 ブコメで

自分が分かるところだけですが、憲法21条の下りは蛇足で説得力もありませんー。集会結社の自由に対する制約はごく限定的で、「強制加入の税理士会が政治団体に寄付をする」くらいまで行かないと制約されません。

というご指摘を頂きました。
[/追記]
 
 

個人的に思うところ

 私自身はタバコを吸わないので、喫煙を擁護したいというモチベーションはべつに無いのだが、他人のタバコの煙があまり気にならない人間なので、喫煙者を叩くモチベーションもない。
 また、「ヒトの命を奪っている」というが、太く短く生きる権利は認められるべきだし、タバコによってストレスが軽減されたりするヒトがいるのであれば、吸ってりゃいいじゃんと思う。こないだ同僚が使っているのを見たのだが、副流煙が出ないようにする装置も最近は売られているらしいので、「周りに迷惑をかける」みたいなのも今後はさほど重要ではなくなってくるのかもしれない。

 
 「禁煙ファシズム」というようなひどい状況なのかはよく知らないのだが、高校の世界史でも習うアメリカの「禁酒法」みたいな例もあることだし、一種の極端な潔癖症が公認の価値観とされる時代があること自体は、不思議なものではないと思っている。なので、全世界的に禁煙運動が支配的な潮流になったとしても、空気に合わせるのではなく、それが本当に合理的なものであるか常に疑い続ける必要はあると思う。
 さらに、個人的には、常に「叩かれている側」を応援したくなってしまうので、衛生学会に対するJTの反論や、世の中の空気に抗って「タバコは無害」説を主張する研究者に期待している。


 冒頭でも述べたように、利益相反の懸念排除を学術誌の論文投稿基準に加えるのは、考え方としてはあってもいいと思う。
 また、学術研究といえども特定の価値観から完全に自由ではあり得ないし、むしろ特定の価値観と結託することがある種のクリエイティビティを加速するかもしれないと思っているので、特定の価値観へのコミットメントを学会として宣言することがあってもべつにいいだろうと思う。


 しかし研究者というのは、「厳密には特定の価値観から自由ではあり得ない」のだとしても、相対的に、価値観によるバイアスを除去する努力を熱心に行うことが期待されている人種ではあるはずだ。だから、「利益相反の懸念を徹底的に排除したい」というだけならまだ理解できるものの、今回の理事会提案のように「人の命と引き換えに生み出された資金」だの「謀略」だの「カモフラージュ」だのといった誹謗中傷の類を並べ立てるのは異常だと思う。


 ただ、結論としては、そのような異常な学会があってもそれはそれで面白いと思います。

電車の線路に落ちたら、伏せても助からない

 先日、帰宅ラッシュの時間帯に、銀座線の電車から降りようとした5歳ぐらいの女の子の足が一瞬、電車とホームの間に挟まって、お母さんと周りのサラリーマンが引っ張って助けるという場面に遭遇した。
 最後尾車両だったので、車掌さんも余裕で事態に気付いており、落ち着いて対応していたのでさほど危険なことではなかったのだが、ふと、数年前に線路に落ちた子どもを助けようとしてサラリーマンが電車に轢かれて亡くなった事故があった(ような気がする)のを思い出した。


 それで、仮に線路に子どもが落ちているのを発見したとしたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報するのが最優先だとは思うのだが、場合によっては飛び降りて救出を試みる必要があるだろうなどと考えていたら、「レールの間に伏せれば助かるんだっけ?」というのが気になった。ホームの下の空間もあるのは分かっているが、レールの間に伏せて電車をやり過ごす場面を、マンガ等でみたことがあるので。


 気になったので、とりあえずYahoo!知恵袋で質問してみた(笑)
 ベストアンサーにさせて頂いた回答者の方は、リアルに鉄道会社の人のようだ。


detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

かなり高確率で死亡事故になります。
たしかにレールには十数センチの高さがあり、マクラギにも中央部がくぼんでいる形状の物もありますから、幸い助かった例はありますが・・・

↓やむをず緊急避難する場所としては下の赤矢印で示した箇所です
http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-382/382/095/502/i320

一般的な50Nレールと木の枕木の区間では、まず無理です。
50Nレールの高さは153mm。
車両に対する限界寸法は、レール上面から25mm。
レールを枕木に固定する金具の厚さが約10mm。
合計して、枕木上から188mmの範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
ただ、この寸法は一般的な成人には無理でしょう。

これが、一部幹線で使用される60kgレール、かつコンクリート枕木の区間なら、レールの高さが174mmあり、かつ枕木の中央部が若干窪んでいるため、枕木上から220mm程度の範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
これなら成人でも小柄な人なら何とかなりそうです。


 助かった稀な例について考えるより、そもそも「十数センチしか隙間がない」という点をしっかり認識しておくべきだな。


 結論としては、

  • 十数センチしか空間がないわけなので、レールの間に伏せてもまず助からない
  • 雪国だと前面に雪よけも付いているのでさらに厳しい
  • ホームの下に、一部退避場所が設けられている駅や、地下鉄の場合だと全体が退避場所になっているケースがあるが、古い駅だと退避場所がないというケースもある
  • 可能ならば、反対方向の線路との間に逃げればよい
  • 線路のわきに高圧の電線が走っている路線もあるので注意が必要
  • 線路に落ちている人をみたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報する。自分が落ちた場合も、すぐ助けを求めるのがよい


 という感じか。
 最悪、落ちたのが小さな子どもであれば、線路に降りてから担いでホームに上げてやり、自分は轢かれて死ぬという選択肢もあるかもしれない。落ちたのが酔っぱらいだった場合は、そこまですべきか悩むところだ。


 レールの間に伏せて列車を回避するというのは、マンガではあり得ても、実際には無理なようだ。西部劇チックな実写映画でもそういうのを見た記憶があり、昔の機関車では可能だったのかもしれない。

日本人は「アイデンティティ」という概念を理解できない?

Identityについて語ってしまった

 昨日、仕事中に、なぜか業務のメールで「日本人はアイデンティティという概念をなかなか理解できないのではないか」というような話をくどくどと語ってしまった。これは昔から気になっている問題だったので、つい考えこんでしまったのだ。


 考え込んでしまったきっかけは、WebサービスのID連携に関する用語の整理をしていて、いくつか文書を読んだこと。
 たとえばこれ*1
 Provisioning and deprovisioning in an identity federation
 会員制のWebサービスどうしでIDを連携して、ユーザが1セットのID・PWで両方のサービスを使えるようにしてやることをSSO(Single Sign-on)というのだが、この文書はそのSSOを実現するためのSAMLという方式について書かれたものである。


 SAMLの具体的な方式については本エントリにおいてはどうでもいいのだが、上記資料のなかで"IdP"とあるのは"Identity Provider"の略で、簡単にいえばSSO連携するときに、実際にユーザが使うID・PWを管理している方のサービス、つまり親になる方のサービスをIdPと呼ぶ。
 問題は、ここで"Identity"を"provide"するというときの、Identityという言葉が指しているものは何なのか(あるいは指している範囲)を正確に理解できるかということだ。
 また、上記文書のタイトルの中に、"Identity Provisioning"という言葉が入っている。これは親になるサイトに既に登録してるユーザが、子になるサイトのアカウントは持ってないとして、新たに子サイトのアカウント開設をしつつ同時にSSOを実現するような場合に*2、Identity情報が親サービスから子サービスに供給(provision)されることを指している。ここでも"Identity"という言葉が指している物事の範囲を正確に理解するのはじつは簡単ではない。*3
 
 

Identityの定義

 たとえば、Wikipediaの「デジタルアイデンティティ」の項をみると、「ISO/IEC 24760-1は、アイデンティティを「実体に関する属性情報の集合(set of attributes related to an entity)」と定義している」という引用がある。この例に見られるように、「属性の集合」として理解する人はそれなりに多いだろう。名前、住所、メアド、年齢、性別といった、会員サービスのプロフィール欄に登録されているような情報の束のことを、「そのユーザのアイデンティティ」と呼ぶということだ。
 しかし、あとで述べるが、「具体的な属性の束」をアイデンティティと呼んでしまうと、アイデンティティという概念の意味合いを見失ってしまうと私は思っている。


 「Identityってどういう意味ですか?」と訊かれて、即答できる準備ができている人はそう多くないだろう。一応、翻訳としては「同一性」と訳されており、この訳で良いと私も思うのだが、「同一性」と言われてイメージされる物事にはけっこう幅がありそうだ。
 また、我々が日常的に「アイデンティティ」という言葉を目に(耳に)するのは、「日本人としてのアイデンティティを大事にし・・・」とか「それは彼のアイデンティティだから・・・」みたいなフレーズにおいてだが、これを「同一性」という日本語に置き換えるとよく分からない文章になる。ちなみにこれは、「同一性」という訳が悪いのではなく、文例の方がやや混乱していると私は思う。


 結論から言うと私自身は、Identityを、短く言うなら「あるものの、そのもの性」とか「それ性」というぐらいに理解するのがいいと思っている。
 もっとくどく言って良いなら、「あるものが、他のものから区別してそれと認識される際の、とりわけ繰り返しそう認識される際の、その『区別してそれとして特定されているという状態』(に関する認識)のこと」と言えばいいと思う。
 「同定」という言葉にある程度なじみがある人に対しては、「同定されてる感」とでも言えば伝わると思う。「被同定性」とかでもいいかもしれない。
 
 

いろんな用語法

 Wikipediaの「同一性」の項を見てもわかるように、Identity(同一性)の概念は哲学の領域でしつこく論じられてきている。私も系統立てて勉強したわけでは全くないので、イマイチ理解はできていないし、学説史的な経緯もよく分かってないのだが、同一性を上述のような「属性情報の束」と理解するだけ*4で議論終了というわけにはいかない、とは言って良いだろう。


 たとえば、個人主義者が「パーソナル・アイデンティティをたいせつにしましょう」みたいな綺麗事を述べ立てる際の「アイデンティティ」は、こういう抽象的な意味合いではなくなっている。いや、本質的には、上の哲学的な検討などを踏まえていわゆる「パーソナル・アイデンティティ」の概念を厳密に議論することも可能だと思うのだが、多くの場合、「同一性」という抽象的な概念の理解は放棄されていて、そこに色々な不純物を混ぜて具体化したある印象を、何となく「アイデンティティ」と呼んでいる感じだ。


 たとえば、このYahoo!知恵袋の回答などは、私はかなりヘンな用語法だと思うのだが、こういう感じで理解してる日本人はかなり多いだろう。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

自分が自信をもっていること、自分自身のよりどころ、のようなことだと思います。
たとえば、勉強ができてそれが誇りだ、とか、サッカーが得意だ、ということを自認をもっている人は、それらで自分に自信をもつことができ、他のことで多少何かあってもへこたれないですみます。そういうものがアイデンティティだと思います。


 べつに、こういう説明が「間違っている」と言いたいのではない。そんなもん定義次第なので、「私はそういう意味でつかってるんです」と言われたら「そうですか」としか言いようがない。
 しかし、抽象的なレベルでアイデンティティという語の意味する範囲にこだわってよく考えた人ならば、「自分自身のよりどころ」のことをアイデンティティと呼ぶことはなく、そういうよりどころを通じて形成されている、自我の安定性のことをアイデンティティと呼ぶはずだ。


 実際、心理学では、エリクソンという人が「安定した自己イメージ」ぐらいの意味でアイデンティティという概念を用いたのが有名で、心理測定尺度*5にも、自己のアイデンティティの確立の度合いを測るものとして開発されているものはいくつかある。


 保守系の政治家や評論家が「日本人としてのアイデンティティ」とかいう場合は、たぶん、安定的な自己イメージの構成要素として「日本人である」という属性が明確に意識されているべきであるということが主題になっている。(東京都の教育研修資料の4ページの図がそれを意味している。)
 堀義人とかいう人が書いた記事(参考リンク)を読んだら「「武士道」という精神は、今の世界で日本と日本人が役割を果たすうえで改めて学び直す必要がある、日本人のアイデンティティを凝縮した道徳観念だろう」とか書いてあって、そもそも改めて学び直す必要があるならそれはもはや我々のアイデンティティの構成要素ではないじゃないかとも思うのだが、それはともかく、アイデンティティが凝縮されて武士道になっているのではなく、武士道精神を含む諸々の性質が、総体として自己の安定的なイメージを確立しているときに、そのイメージの明確性や安定性や(他者からの)識別性のことをアイデンティティを呼ぶのだと言いたい。
 
 

Identifier、Identified、Identity

 あるものが、他のものから区別してそのものと認識される(同定される)という場合に、


(1) Identifier(同定の材料となる情報)
(2) Identified(同定された実体)*6
(3) Identity(同一性。)


 を区別しておくと、理解がしやすくなるだろう。
 Identifierはたとえば人物の見た目であったり、名前であったり、住所や年齢であったり、Webサービスで使っているアカウント名だったりする。それを手がかりに、その人であることを繰り返し認識することが可能になるような情報のことだ。
 Identifiedは、同定された実体のことで、たとえばそのWebサービスを使っているその1人の人物とか。住所や氏名などは、この同定された実体の属性情報だと考える場合には、Identifiedの一部を構成しているとも言える。
 一方Identityというのは、そういう具体的なIdentifierがきっかけとなって、ある具体的な実体としてのIdentifiedが、それとしてIdentifyされた場合の、その「Identifyされてる感」のことだ。


 冒頭のドキュメントで"Identity Provisioning"と言われるとき、どういう出来事を指しているのかというと、IdPが「とある人物が存在するという事実認識」(及び、場合によってはその人物が何者であるかを示す各種の属性情報)を、「他の人物から区別してその人物を特定するための手段」とともにSPに伝え、それ以後SPが実際に、その人物を「他の人物からは区別される、その人」として認識できるようになるということだ。
 ここでIdPからSPへprovisionされたものがIdentityなのだが、より直接的な表現をむりやりこしらえるならば、とある人物についての"Identifiability"であると言っても良いだろう。具体的なIdentifierが供給されたことに着目するのではなく、その人物を特定できる能力ないし可能性が、IdPからSPへと供給されたという点に着目する。そういう見方をしておくと、Identityの概念も理解しやすくなる。 
 
 念のため言っておくと、Identityという言葉を常に純粋に抽象的な概念として用いる必要はなくて、ある具体的な文脈でidentityという言葉を使うときは、種々のIdentifierやIdentifiedを含んだ、雑多な印象を指すものとして用いられることも多いだろう。たとえば「彼のアイデンティティ」という言い方をする場合、「同一性」という抽象的な意味合いと、具体的な彼の「属性の束」が、同時にイメージされることが多いだろうし、それで構わないと思う。何らか(何者か)の"Identity"が実際に把握されるときというのは、手がかりとしての"Identifier"や中身としての"Identified"が必ず伴うので、IdentifierやIdentifiedを含めた意味でIdentityと言う用法があってもべつにいい。
 ただ、そうであるにしても、一応上記(1)(2)(3)のように区別するよう努めておいたほうが、概念が綺麗に整理され、ひいては物事を深掘りして考えやすくなるとは言えると私は思う。
 まぁ、このエントリの内容自体、十分勉強して書かれたものでは全くないので、哲学者に言わせれば「綺麗に整理されている」とは言えないだろうけど。
 
 

少なくとも日本では混乱がみられる

 じつは、べつに哲学書でなくとも(それこそ技術の解説であっても)、英語の文献の場合は、Identityという言葉を、具体的なIdentifierやIdentifiedの集合を超える抽象的な概念として用いているような節が、けっこうある。冒頭に挙げたPDFのドキュメントにしても、attributeをprovisionするとは決して言わず、わざわざIdentityをprovisionすると言っているわけで、具体的な属性情報そのものではない、抽象的なカテゴリとしてidentityという語を用いているように見受けられる。


 日本語の文献でももちろんそれはあるのだが、自分が読んだことのある狭い範囲だけで独断を下しておくと、割合としては少ないように感じる。
 まぁ、外国の実際の事情は知らないし、英語圏と日本語圏の比較をしてもべつに嬉しいことはないので、どっちがどうというような議論には私はあまりこだわりはないのだが、少なくとも日本において概念の混乱がけっこうみられるということは指摘したい。


 「日本人は抽象的な思考が苦手」とは全く思ってないし、漢語まで含めれば「日本語は抽象的、論理的な表現に向かない」とも全く思わない。私が言いたいのは、少なくともこのIdentityという概念に関しては、日本人の用語法は、具体的にイメージ可能なIdentifierやIdentifiedのほうに引っ張られ過ぎで、抽象概念としてそれを把握することに失敗している場合が多いように思う、ということである。



 ・・・というような話を昨日、同僚にメールで送りつけたので、忘れないうちにブログにメモっておこうと思いエントリを起こしました。自分の研究に戻ります。
 

*1:単にこれだけURLがすぐ分かったので貼り付けとく

*2:そういう場合だけとも限らないけど。

*3:リンク先PDFの筆者が明確にその定義を意識しているかどうかもよくわからないが。

*4:そういう立場もあるらしいのだが。

*5:心理的な傾向を測るための、アンケートみたいなやつ。テキトーにつくられるアンケートではなく、何度もテストを重ねて妥当な質問項目を作り上げていく。

*6:ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」が英語では"Signifier and Signified"と書かれるのにならってこう呼んでみた。

スプラトゥーンが子どもをキレやすくする?—ゲームの悪影響に関する最近の実証研究論文を読んでみた

 年末年始は風邪で寝込んでいたこともあり,時間がなくなったので年賀状を書くのもサボって論文を書く(ためのデータ解析のやり直し)作業をやってるのだが,息抜きにYahoo!知恵袋でスプラトゥーン関連の質問を検索してたらヘンなのがあった.
 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
 

 スプラトゥーンはプレイヤーを「イラッと」させるところがあり,子どもがキレやすくなってしまうと懸念しているらしい. 
 知恵袋上で回答も書き込んでおいたのだが,関連する内容を簡単にここにメモしておこう.


 なお,タイトルがミスリーディングだったかもしれない.本エントリではスプラトゥーンの影響を論じた論文を参照しているわけではなく(そんな論文まだ無いと思う.),テレビゲーム一般についての論文を参照しながらスプラトゥーンの悪影響について考えようと思ったものである.
 
 

「ゲーム脳」はトンデモ説?

 10年以上前に『ゲーム脳の恐怖』という新書が発売されて話題になっていたが,発売当初からボコボコに叩かれていたのを覚えている.
 覚えているところでいうと,評論家の宮崎哲弥氏が右派言論誌の『諸君!』で連載していた新刊新書のレビュー記事で,非科学的だと厳しく批判していたのを見て,結局この本は買うのをやめた気がする.その後も折にふれてこの本が叩かれているのを目にしてきた.たぶん,同時期ぐらいにベストセラーになった『ケータイを持ったサル』みたいな風情のトンデモ本なんだろうと,読んでもないのに決めつけることにした.*1
 

 べつにこの『ゲーム脳の恐怖』にかぎらず,ゲームの悪影響とかもっと広く言って「メディアの悪影響」論については,「世間で言われているような悪影響は,科学的には実証されていない」と言われることが多いように思う.暴力的コンテンツが凶悪犯罪を誘発するという説や,ポルノコンテンツが性犯罪を助長するという説が正しいかというと,科学的にはイマイチ怪しいというわけだ.
 
 「実証されていない」という言い方だとふつうの人には消極的に聞こえるというか,「悪影響は無い」のか「悪影響を検証する研究が行われてない」のかよく分からないかもしれないが,実証研究というのは「こういう効果があるはず」という仮説を立てて,その効果の検出を実験により試み,効果が明確に認められなければ「仮説は支持されなかった」と主張するというスタイルになっている.(念のため言っておくと,趣旨としてはそいう主張になっているということであって,統計的仮説検定の手続きはむしろその逆のロジックである.*2
 だから,効果が「ある」ということが判明するときはけっこう明快なのだが,効果が検出されていない段階でその結果をどう解釈するかは微妙な問題だ.
 「暴力的なゲームは暴力性を助長する」というのは,一つの仮説とは言えるが,こういう大雑把な命題は直接検証することができない.だから実験をやるときはこれをもっと細かく定義して,「こういう条件でこういう被験者にこういう刺激を与えると,こういう方法で計測されるこの数値にこういう効果が見られるはず」というような仮説に置き換えて検証することになる.そうすると,この仮説が実験により棄却されたところで,「いや,仮説の置き換えかたがちょっと変なんだよ」とかツッコミ始めればいくらでもいちゃもんを付けることはできる.
 これは血液型性格診断にも言えることで,心理学徒はだいたいしたり顔で「科学的に反証されている」とか言うのだが,反証されているのはあくまで上記のような「細かく定義した仮説」にすぎないので,血液型性格診断を信じる人は,「実験時に設定された仮説に問題があるかもしれない」と言い続ければ常に水掛け論に持ち込むことが可能である.
 実際,昔台湾人がアメリカで書いた血液型性格診断の論文を読んだら,「A型はやさしい,O型は外向的,B型は神経質,AB型は不誠実」*3という仮説を検証する形になっていたのだが,「え,それ仮説がちょっとおかしくね?」と日本人なら思ってしまうだろう.血液型によってビッグファイブ*4のスコアに偏りが無いことを示している論文などもあり,その論法に反論しようとすると研究蓄積の多いビッグファイブ仮説にケチをつけなければならないので,けっこう難しくなる気はする.
 
 

ゲーム脳に関する研究

 さてゲームの悪影響の話に戻ると,Google Scholarで10分ぐらい検索しただけなのだが,日本語で読める解説としてはイカのような2006年のお茶大の記事があった.
 ざっくり言えば「いろんな説があって難しいですね」みたいな話だ.


子どもたちの脳は今?(1)—ゲーム脳について—
子どもたちの脳は今?(2)—ゲーム脳について—
 
 

今までの研究では,視覚的知能がむしろ上昇するといわれています.空間表象能力,図像技能や視覚的注意も伸びる.テレビゲームはこれらの訓練になる.

一方では,確かにテレビゲームをしていると人と疎遠になるという影響はあるかもしれません.しかし,テレビゲームというのは,ソフトの貸し借りをするとか共通の話題をもつなど人間関係を円滑化する要素もあります.テレビゲームをやってうまくなると,みんなから尊敬される.向こうから寄ってくる.そうすると人間関係が下手な子どももうまくやれてしまう.両方の影響が,相殺されている.その証拠に,大学生以上になるとテレビゲームをやっていると不適応になるという研究データがあります.大学生くらいになるとテレビゲームができても尊敬されない.いい面の恩恵にあずかれないんですね.

学習説というのは,テレビの暴力シーンが暴力性を高めることを肯定する説でして,暴力が良いものであるとか,問題解決の手段として有効であるという価値観が学ばれてしまう.それが一番重要なことだといっています.これを実証している研究は多く見られます.(中略)今テレビの暴力シーンの悪影響があるかないかといえば,ある.ただ,それはあくまで要因の一つであって,暴力シーンを見ただけで犯罪が起きるとかいうことはまったくないわけです.


 など色々なことが言われている.大人がゲームやってるほうがヤバいようだwww
 

 少なくとも,「もともと暴力的だから暴力的なゲームを好んでやっている」のか「暴力的なゲームの影響で暴力的になったのか」が区別できないような研究も多いとか,ゲームには知能や社会的スキルの発達に肯定的な影響も存在するという説もあることなどは,知っておいて良いだろう.
 

最近の実証研究論文

 ところで,私は何となく今まで,よくしらないままに「ゲームの悪影響みたいな話は,科学的にはことごとく否定されている」みたいな印象を持っていたのだが,以下の論文をみてみたらそうでもなかったようだ.


Adachi, P. J., & Willoughby, T. (2011). The effect of video game competition and violence on aggressive behavior: Which characteristic has the greatest influence?


 2011年に出された比較的新しい論文である.冒頭あたりで先行研究に触れられているのだが,暴力的なゲームが子供の攻撃的な振舞いを助長するのかどうかについては色々研究があり,「そういう悪影響はみられなかった」という研究がいくつもある一方で,「やっぱり悪影響ある」ことを示す研究も存在するようだ.引用されてるのは比較的最近の,2000年代以降の論文が中心である.
 この論文の趣旨としては,ゲームの特性を「Violence」「Competitiveness」「Difficulty」「Pace of Action」の4側面に分けて評価し,特に「Violence」(暴力性)の効果と「Competitiveness」(競争性)の効果が先行研究においては分離されていないので,それぞれ独自の効果を改めて検証するという点に主眼が置かれている.
 
 
 どうでもいいっちゃどうでもいいが,ゲームの選定にあたっては,たとえばPilot Study 2のところで

After extensive testing by the first author, four games were selected that appeared to be matched on difficulty and pace of action. Two of the games appeared to be equally violent, and the other two games appeared to be equally nonviolent.

というような記述が出てくるように,筆者は相当なゲーマーであることが伺える.


 最初の実験について手続を一応書いておくと,まず被験者は「これから,ゲームに関する実験と,食べ物に関する実験の2つに参加してもらいます.両者は関係ありません」という教示を受ける.そして暴力的/非暴力的のいずれかのゲームをプレイさせられ,終了後にそのゲームの特徴を評価する質問に答える.
 次に,被験者の暴力性が測定されるのだが,その方法は,「別の人に飲ませるドリンクに入れるからし(hot source)の量を決めてください」という課題を与えるもので,要するにからしをたくさん入れようとする奴はサディスティックってわけだ.この"The hot source paradigm"(「からし法」とでも言えばいいのか?)という手法は別の研究から借りてきているもので,その妥当性を一応チェックするために,質問紙による攻撃性の測定もあわせて行っている.
 さらに,私は知らなかったのだが,suspiciousness questionnaireという質問紙に回答させて,実験の意図を見抜いている被験者を特定し,そういう被験者のデータは結果から除外している.


 結論としては,「暴力的な表現」それ自体は,少なくとも短期的にはプレイヤーの「攻撃的な振舞い」にさほど影響を及ぼしてはいないことを示している一方で,「競争性」は「攻撃的な振舞い」を助長しているという結果を示している.
 これは,冒頭の知恵袋の質問者の問題意識に近いと言えなくもないだろう.スプラトゥーンはまさに激しく「競争的」なゲームであり,これにハマっている廃人たちが,ローラーの待ち伏せに引っかかったり,同じチャージャーに何回も続けて狙撃されたり,ヤグラ上からの「カモン」が無視されたり,編成で事故って塗る係がいなくなったりするたびに,「イラっと」して攻撃性を高めていることは間違いない.


 なおこの論文では,被験者が大学生なので今後は他の年代でも実験しなければならないことや,短期の効果しか測定できていないので長期の影響は分からないといった限界が挙げられている.
 しかしその前に,「競争性が攻撃性を助長する」というのが正しいとして,それって「テレビゲーム」に限った話なのかという根本的な疑問があって,はたしてこの論文は「テレビゲームの悪影響」を論じているといえるのか否かも定かではないという気がしてくるな.そもそも論文1本斜め読みしたぐらいではよくわからないし.


 しかしまぁ,とりあえず,「ゲームの悪影響なんて科学的には否定されている」みたいなことを言う人がいたら,「いや,たしかに明確かつ系統だった証拠が得られているわけではないのですが,2011年にアメリカ心理学会のジャーナルに載ったカナダ人の論文をこないだ読んだら,ホットソースパラダイムという手法を用いた実験を行っていてですね…」とかしたり顔で語っておけば,「へぇ」等のリアクションを得ることぐらいはできると思われる.


 なお個人的には,テレビゲームの悪影響は,視力に関するもの以外はあまりないと思っている.子どもなんてどうせずっと遊んでるんだし.
 スプラトゥーンについていうと,競争性もあるだろうけど,その一方で仲間とともにがんばるみたいな,世間的には良いとされている感覚が刺激されているようにも思う.
 もはや研究とか関係ない単なる個人的な感覚論だけど.


 ・・・さて,タイトルで「考える」と謳った割にまだ大して考えてないわけですが,これ以上時間を使うわけにもイカなくなってきたので,自分の研究に戻ります.

*1:あとで考えたら,買ったような気もしてきた.きちんと読んでないことは間違いないが.

*2:「効果がない」という帰無仮説を立てて,統計的に,その帰無仮説を棄却することで,もとの仮説を支持するという段取りになる.

*3:台湾や香港における「血液型性格診断」はそういう内容になっていると書いてあったと思う.

*4:人間の性格を測定する尺度をいろいろ精査していくと結局5つの要因に収斂していくという,長年に渡り支持されている有名な学説がある.

安倍談話を読んで思い出した「戦前日本の軍事行動の正当性」の話

 敗戦後70年の安倍談話を読むと、前半のあたりにちょっとだけ日本のホシュ派が長年言いたがっていたようなことが盛り込まれていて、安倍首相は満足しているのかもしれない。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。


平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 | 平成27年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ


 19世紀の終わりから20世紀前半にかけての日本の軍事行動は「正しかったのか否か」みたいな二分法で話そうとする限り、安部首相の言ってることはよく分からなくて「結局どっちなんだよ」と言いたくなる人も多いかも知れない。日本が追い詰められていたという側面と、日本が世界の大勢を見失ったという側面の両方に言及しているから(そんな麗しい意思が大勢を占めていたとまで言えるかは疑問だけど)、欧米列強と日本のどちらが悪いと言いたいのか曖昧なわけなのだが、これはそもそもハッキリ割り切れる問題ではない。
 この談話に不足があるとすれば、誰かが悪いという話の前に、当時のグローバルな政治・経済のシステムそのものが悲劇を準備した面や制御不能だった面もあるのだということを、もっと明確に言えばいいのにということだろうか。
 談話の後半はいつもながら「そこまで卑屈になる必要はないのでは」と思ったが、これはまぁ定番ネタ化しているものなので、時候の挨拶みたいなものだと思って気にしないことにする。


 ところで、上記のような歴史の流れについて考えていて思い出すのは、昔、評論家N先生の私塾で行われた次のような議論だ。
 N先生がいきなりホワイトボードに、下図のようなグラフを描き始めた。(実際は、座標軸と曲線を描いて斜線で塗ったぐらいだったと思う。文字は私が補った。)


f:id:midnightseminar:20150815163001p:plain:w800


 N先生は次のように言っていた。
 まず開国後に富国強兵の努力をして日清・日露の戦いへ進むぐらいは、当時の帝国主義の時代状況にあっては、ほぼ自衛的な振る舞いと言えるだろう。しかし対華21箇条要求の当たりから日本は調子に乗りすぎた面があって、当時の状況下でも正当とは言い切れないような膨張政策を取るようになっていった。
 ちょうど、世界が帝国主義からの脱却や戦争の違法化などの転換を迎えつつある時代であったことも考えると、結果的には1周乗り遅れた感もある。中国への進出も、満州ぐらいは空き地だったから許されるかもしれないが南京まで攻めていくのはさすがに侵略性なしとは言えないだろう。
 ところが当時の世界は相変わらず国際協調の時代とは言いがたい面があって、枢軸vs英米vsソ連で縄張り争いをしていたわけだし、米英が日本と戦う蒋介石を支援したのもべつに平和主義に突き動かされてのものではない。そして石油の禁輸を始めとするABCD包囲網が敷かれていって、日本も資源確保のために東南アジアへ進出する必要が出てきたわけである。また甲案・乙案・ハルノートに至る日米交渉の経緯をみても、日本が「追い詰められていった」面は多分にあって、太平洋戦争*1についてはほぼ自衛戦争であると言えるだろう。


 それで上図のようなグラフを描いて、日本の軍事行動の正当性はだんだん下がって最後に跳ね上がるという感じで捉えておけばよいという話をされていた。もちろんグラフで描いて終了というのは大雑把過ぎるのだが、「正しかったか否か」みたいな二分法の議論に比べればまだこのほうが良いだろうというぐらいの意味で描かれたものだ。
 その上で、どうしても「全体として正しかったかどうか」を議論したいのであれば、この大義の度合いを開国から敗戦まで積分すればよい。ということで当時その私塾の塾生で東工大教授でもあったF先生に、理系だからというだけの理由で話が振られ、「F君、この斜線で塗った部分の面積は全体の何割ぐらいかね」とN先生が問い、F先生が「うーん半分をやや超えてますね」とテキトーな返事をすることになった。それでN先生も「だろ?」とか言って、歴史の流れの中で過ちも多分に存在したものの、全体として近代前半の日本の行動は肯定的に捉えることが可能だという結論に至った。


 もちろんこれらは冗談まじりの議論だったのであって、私も「先生が勝手に描いたグラフから割合を判断していいんすか」みたいなことを突っ込んでゲラゲラ笑った気がするのだが、上図のような捉え方はけっこう示唆に富んでいて、頭の整理をするにはいいだろうと思う。

*1:中国方面の戦いと区別して太平洋戦争と言っている。

「PCやタブレットより紙で読むほうが効率的だ」という実証研究いろいろ

 最近職場でペーパーレス化を進めようという号令がかかり,たとえば資料を紙で印刷して説明するのはやめて,データで送って予め見てもらってから打ち合わせするようにしましょうとかいう話になった.すでに,作成中の資料を印刷して相談にきた若手社員を係長が「印刷しないでって言われてるよね」と叱り飛ばすといった事案も起きている.
 まぁそんなに厳しいルールでもないので別にいいのだが,ふと「紙のほうが作業効率が高いということが明らかになった場合,それがペーパーレス化によるコスト削減効果を上回っていたら,本末転倒じゃね?」みたいな天邪鬼発言を予定して,裏付けとなる研究が無いか探してみた.
 というか,そういう研究がネットの記事になっていたのは以前みたことがあったので,まずそれを確認した.
 まず,発光型のデバイスで読む場合,反射光で読む紙の場合とは脳の反応が異なるという研究があるという記事.

プリントアウトした方が間違いに気づきやすいワケ - A Successful Failure


マクルーハンは、我々が映画を見る時とTVを見る時とでは脳の受容モードが異なると指摘し、米国の広告研究家であるハーバート・クルッグマン(Herbert Krugman)の研究を引用している。クルッグマンは被験者を2つのグループに分け、同じ映画を見せた。ただし、一方のグループにはスクリーンに投影した反射光として見せ、もう一方のグループには半透明スクリーンの裏から投射した透過光として見せたのである。


(中略)


発光型デバイスであるモニタを見るときには、脳はパタン認識・くつろぎモードになるため、文書を見ても全体を絵柄として捉え細部に注意がいかなくなり、ぼんやりとくつろいで見ることになり間違いに気づきにくくなる。一方、紙にプリントアウトすると、それは反射光となるため、脳は分析・批評モードに切り替わり、文書を細部まで細かくチェックすることが可能となる。そのため、間違いに気づきやすいというわけだ。文章をチェックするときに、一旦紙にプリントアウトして見ることは、理に適った行動なのだ。


(中略)


2013年7月、トッパン・フォームズは、国際医療福祉大学の中川雅文教授(医学博士)の監修のもと、近赤外分光法(NIRS)を用いて、人がある特定の活動をするときに脳のどの部位が関わっているのかを調べることができる近赤外光イメージング装置を利用し、DMに接したときの脳の反応を測定した結果を発表した。
同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示し、特に脳内の情報を理解しようとする箇所(前頭前皮質)の反応は紙媒体の方が強く、ディスプレーよりも紙媒体の方が情報を理解させるのに優れていることや、DMは連続的に同じテーマで送った方が深く理解してもらえることなどが確認されました。


 これだけでは詳しいことは分からないが,目が疲れるだけでなく,脳の反応にも影響あるということか.


 デバイス(メディア)の違いが文章読解に与える影響を研究しているノルウェーの研究者の最近の実験が紹介されている記事もあった.

電子書籍より紙の本で読んだほうが、内容をよく記憶できる:研究結果 | ライフハッカー[日本版]


ノルウェイのスタヴァンゲル大学の研究者、アン・マンゲン(Anne Mangen)氏の新しい研究では、50人の被験者に28ページの短編小説を読んでもらい、後から重要なシーンをどれくらい思いだせるかをテストしました。このとき、被験者の半分はKindleで、残りの半分はペーパーバックで読んでもらいました。
登場人物や設定を思い出すことに関しては、どちらのグループも同程度の成績だったと、ガーディアン紙が報告しています。ところが、物語のプロットを再構築するよう頼んだところ、大きな違いが見られました。電子書籍で読んだ人は、14のストーリーイベントを正しい順番に並べるテストにおいて、著しく悪い成績を示しました。
(中略)
「物語の進行に合わせて紙をめくっていくという作業が、一種の感覚的な補助となります。すなわち、触覚が、視覚をサポートするのです」とマンゲン氏。「おそらくこのことが、読書の進捗度合いと、物語の進行度合いを、よりはっきりと印象付けるのでしょう」


 なるほど.確かに,読むときも書くときもだけど,身体的な感覚と意識のあいだにはやはり関係があるような気はする.
 で,上記の電子書籍の実験とは別のものなのだが,このマンゲン氏の下記の論文を読んだので以下に紹介しておきます.


 Mangen, A., Walgermo, B. R., & Brønnick, K. (2013). Reading linear texts on paper versus computer screen: Effects on reading comprehension. International Journal of Educational Research, 58, 61-68.


 この論文で報告されているマンゲン氏の実験そのものも大事なのだが,先行研究レビューの箇所を読むのがむしろ目的だった.
 マンゲン氏の紹介によると,たとえばWästlund, Reinikka, Norlander, & Archer(2005)は,紙とコンピュータのぞれぞれに被験者を割り当ててテキストを読ませ,内容に関する質問に答えたり,内容を要約してヘッドラインを書くという課題を与えた.結果,コンピュータ条件の被験者は有意に成績が悪く,またストレスや疲労のスコアも高かった.コンピュータ上での読解は,紙に比べて認知的な負荷が高くなっていることが示唆されている.


 Noyes & Garland(2003)によると,物事の思い出し方には2種類あり,"remember"は関連する知識から連想的に検索する方法で,"know"はより直接的に該当の知識にたどり着くことができるものとされる.
 紙とコンピュータのそれぞれで被験者にテキストを読ませて比較する実験を行うと,紙で読んだ人は内容をrememberで思い出す割合とknowで思い出す割合が同じぐらいだったのが,コンピュータで読んだグループの人はrememberが2倍ぐらい多かった.Noyesらは,コンピュータ画面が長期記憶を生成する過程に影響を与えているのではないかと指摘している.


 Garland & Noyes(2004)でも同じ結果が出ていて,episodic memory(エピソード記憶)がsemantic memory(意味記憶)に転換するプロセスが,メディアに影響を受けていると指摘されている.
 結論としては,紙で勉強したほうが,"schematization"(心理学の用語で,知識を後の判断に使える枠組みとして蓄積していくこと)の障害が少なく,学習が早くて,検索しやすい記憶が残るそうだ.


 Kerr & Symons(2006)は,5年生(日本の何年生に当たるかは知らん)に紙と電子画面でテキストを読ませる実験をしている.マンゲン氏によると,子供を被験者とした実験は事例が少ないそうだ.
 この実験では,紙で読んだほうがスピードは速いのだが,コンピュータで読んだ場合のほうがたくさんの情報を思い出すことができた.この点だけをみると他の研究とは逆の結果であるようにも思えるが,読解テストで内容をより深く理解していたのは紙で読んだグループのほうだった.つまり,コンピュータのほうがゆっくり読んだ分たくさんの情報を思い出せただけかも知れないし,紙のほうが読解時間が短かったにもかかわらず理解が深かったということは,表面的な情報取得については紙が優位ではない可能性もあるが,“理解”の効率は紙のほうが良いということが示唆される.


 また,論文やレポート等を添削するタスクの効率に実験はいろんな国で行われているらしく (Coniam, 2011; Johnson, Hopkin & Shiell, 2011; Johnson & Nádas, 2009; Johnson, Na ́das & Bell, 2010),総じて,添削者がコンピュータ上で作業した場合(スキャンしたデータ上でマークしたり,コメントを書き込んだりする),紙でやった場合に比べて,レポートの内容をよく思い出せなくなることが知られているとのことだ.


 さて,マンゲン氏がこの論文中で報告している自身の実験は,ノルウェーの10年生(15-16歳)72人に,物語文と説明文をそれぞれ紙とPDFで読ませ,その後に読解テストを行うというものである.
 仮説は,
 1 紙で読んだほうが,内容をよく理解できる
 2 説明文のほうが認知的な負荷が高いので,媒体による影響をより強く受ける
というもの.


 実験の前に国語(読解力やボキャブラリー)のテストを行ってある.事前テストも本テストも,素材は公的な学力テストの機関作成のものから取ってきている.
 グループ分けしてそれぞれ紙・PDFでテキストを読ませた後に読解テストを行って,事前テストのスコアと,グループごとの本実験読解スコアを用いて,sequential regression analysisを行った.sequential regression analysisって何なのかよく知らないのだが,中身を読むと,重回帰モデルに変数を順次投入していって分散説明率の変化を見ているようだ.


 まず事前テストの点数が紙/電子グループによって異なるかを検定し,有意に異ならないことを示している.
 次に,本実験読解のスコアを被説明変数として,それを説明する重回帰モデルを構成する.まず事前テストのスコア(3項目ある)だけの重回帰モデルで全体の分散をどれだけ説明できるかを算出し(STEP1),その後に性別を変数として投入し(STEP2),最後に紙/電子化の区別を変数として投入して(STEP3),分散説明率の変化を見ている.
 結論として,紙/電子という変数を投入することでモデルの説明力は有意に向上し,紙か電子化という変数の回帰係数も有意となっている.
 なお,説明文と物語文で有意な違いはみられなかった.


 引用されてた以下の文献も読もうかと思ったが,職場でネタにする分には上記の内容で十分なので,ひとまずやめておいた.

  • Wästlund, E., Reinikka, H., Norlander, T., & Archer, T. (2005). Effects of VDT and paper presentation on consumption and production of information: Psychological

and physiological factors. Computers in Human Behavior, 21, 377–394.

  • Noyes, J. M., & Garland, K. J. (2003). VDT versus paper-based text: Reply to Mayes, Sims and Koonce. International Journal of Industrial Ergonomics, 31, 411–423.
  • Garland, K. J., & Noyes, J. M. (2004). CRT monitors: Do they interfere with learning? Behaviour and Information Technology, 23(1), 43–52.
  • Kerr, M. A., & Symons, S. E. (2006). Computerized presentation of text: Effects on children’s reading of informational material. Reading and Writing, 19(1), 1–19.