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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

電車の線路に落ちたら、伏せても助からない

 先日、帰宅ラッシュの時間帯に、銀座線の電車から降りようとした5歳ぐらいの女の子の足が一瞬、電車とホームの間に挟まって、お母さんと周りのサラリーマンが引っ張って助けるという場面に遭遇した。
 最後尾車両だったので、車掌さんも余裕で事態に気付いており、落ち着いて対応していたのでさほど危険なことではなかったのだが、ふと、数年前に線路に落ちた子どもを助けようとしてサラリーマンが電車に轢かれて亡くなった事故があった(ような気がする)のを思い出した。


 それで、仮に線路に子どもが落ちているのを発見したとしたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報するのが最優先だとは思うのだが、場合によっては飛び降りて救出を試みる必要があるだろうなどと考えていたら、「レールの間に伏せれば助かるんだっけ?」というのが気になった。ホームの下の空間もあるのは分かっているが、レールの間に伏せて電車をやり過ごす場面を、マンガ等でみたことがあるので。


 気になったので、とりあえずYahoo!知恵袋で質問してみた(笑)
 ベストアンサーにさせて頂いた回答者の方は、リアルに鉄道会社の人のようだ。


detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

かなり高確率で死亡事故になります。
たしかにレールには十数センチの高さがあり、マクラギにも中央部がくぼんでいる形状の物もありますから、幸い助かった例はありますが・・・

↓やむをず緊急避難する場所としては下の赤矢印で示した箇所です
http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-382/382/095/502/i320

一般的な50Nレールと木の枕木の区間では、まず無理です。
50Nレールの高さは153mm。
車両に対する限界寸法は、レール上面から25mm。
レールを枕木に固定する金具の厚さが約10mm。
合計して、枕木上から188mmの範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
ただ、この寸法は一般的な成人には無理でしょう。

これが、一部幹線で使用される60kgレール、かつコンクリート枕木の区間なら、レールの高さが174mmあり、かつ枕木の中央部が若干窪んでいるため、枕木上から220mm程度の範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
これなら成人でも小柄な人なら何とかなりそうです。


 助かった稀な例について考えるより、そもそも「十数センチしか隙間がない」という点をしっかり認識しておくべきだな。


 結論としては、

  • 十数センチしか空間がないわけなので、レールの間に伏せてもまず助からない
  • 雪国だと前面に雪よけも付いているのでさらに厳しい
  • ホームの下に、一部退避場所が設けられている駅や、地下鉄の場合だと全体が退避場所になっているケースがあるが、古い駅だと退避場所がないというケースもある
  • 可能ならば、反対方向の線路との間に逃げればよい
  • 線路のわきに高圧の電線が走っている路線もあるので注意が必要
  • 線路に落ちている人をみたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報する。自分が落ちた場合も、すぐ助けを求めるのがよい


 という感じか。
 最悪、落ちたのが小さな子どもであれば、線路に降りてから担いでホームに上げてやり、自分は轢かれて死ぬという選択肢もあるかもしれない。落ちたのが酔っぱらいだった場合は、そこまですべきか悩むところだ。


 レールの間に伏せて列車を回避するというのは、マンガではあり得ても、実際には無理なようだ。西部劇チックな実写映画でもそういうのを見た記憶があり、昔の機関車では可能だったのかもしれない。

日本人は「アイデンティティ」という概念を理解できない?

Identityについて語ってしまった

 昨日、仕事中に、なぜか業務のメールで「日本人はアイデンティティという概念をなかなか理解できないのではないか」というような話をくどくどと語ってしまった。これは昔から気になっている問題だったので、つい考えこんでしまったのだ。


 考え込んでしまったきっかけは、WebサービスのID連携に関する用語の整理をしていて、いくつか文書を読んだこと。
 たとえばこれ*1
 Provisioning and deprovisioning in an identity federation
 会員制のWebサービスどうしでIDを連携して、ユーザが1セットのID・PWで両方のサービスを使えるようにしてやることをSSO(Single Sign-on)というのだが、この文書はそのSSOを実現するためのSAMLという方式について書かれたものである。


 SAMLの具体的な方式については本エントリにおいてはどうでもいいのだが、上記資料のなかで"IdP"とあるのは"Identity Provider"の略で、簡単にいえばSSO連携するときに、実際にユーザが使うID・PWを管理している方のサービス、つまり親になる方のサービスをIdPと呼ぶ。
 問題は、ここで"Identity"を"provide"するというときの、Identityという言葉が指しているものは何なのか(あるいは指している範囲)を正確に理解できるかということだ。
 また、上記文書のタイトルの中に、"Identity Provisioning"という言葉が入っている。これは親になるサイトに既に登録してるユーザが、子になるサイトのアカウントは持ってないとして、新たに子サイトのアカウント開設をしつつ同時にSSOを実現するような場合に*2、Identity情報が親サービスから子サービスに供給(provision)されることを指している。ここでも"Identity"という言葉が指している物事の範囲を正確に理解するのはじつは簡単ではない。*3
 
 

Identityの定義

 たとえば、Wikipediaの「デジタルアイデンティティ」の項をみると、「ISO/IEC 24760-1は、アイデンティティを「実体に関する属性情報の集合(set of attributes related to an entity)」と定義している」という引用がある。この例に見られるように、「属性の集合」として理解する人はそれなりに多いだろう。名前、住所、メアド、年齢、性別といった、会員サービスのプロフィール欄に登録されているような情報の束のことを、「そのユーザのアイデンティティ」と呼ぶということだ。
 しかし、あとで述べるが、「具体的な属性の束」をアイデンティティと呼んでしまうと、アイデンティティという概念の意味合いを見失ってしまうと私は思っている。


 「Identityってどういう意味ですか?」と訊かれて、即答できる準備ができている人はそう多くないだろう。一応、翻訳としては「同一性」と訳されており、この訳で良いと私も思うのだが、「同一性」と言われてイメージされる物事にはけっこう幅がありそうだ。
 また、我々が日常的に「アイデンティティ」という言葉を目に(耳に)するのは、「日本人としてのアイデンティティを大事にし・・・」とか「それは彼のアイデンティティだから・・・」みたいなフレーズにおいてだが、これを「同一性」という日本語に置き換えるとよく分からない文章になる。ちなみにこれは、「同一性」という訳が悪いのではなく、文例の方がやや混乱していると私は思う。


 結論から言うと私自身は、Identityを、短く言うなら「あるものの、そのもの性」とか「それ性」というぐらいに理解するのがいいと思っている。
 もっとくどく言って良いなら、「あるものが、他のものから区別してそれと認識される際の、とりわけ繰り返しそう認識される際の、その『区別してそれとして特定されているという状態』(に関する認識)のこと」と言えばいいと思う。
 「同定」という言葉にある程度なじみがある人に対しては、「同定されてる感」とでも言えば伝わると思う。「被同定性」とかでもいいかもしれない。
 
 

いろんな用語法

 Wikipediaの「同一性」の項を見てもわかるように、Identity(同一性)の概念は哲学の領域でしつこく論じられてきている。私も系統立てて勉強したわけでは全くないので、イマイチ理解はできていないし、学説史的な経緯もよく分かってないのだが、同一性を上述のような「属性情報の束」と理解するだけ*4で議論終了というわけにはいかない、とは言って良いだろう。


 たとえば、個人主義者が「パーソナル・アイデンティティをたいせつにしましょう」みたいな綺麗事を述べ立てる際の「アイデンティティ」は、こういう抽象的な意味合いではなくなっている。いや、本質的には、上の哲学的な検討などを踏まえていわゆる「パーソナル・アイデンティティ」の概念を厳密に議論することも可能だと思うのだが、多くの場合、「同一性」という抽象的な概念の理解は放棄されていて、そこに色々な不純物を混ぜて具体化したある印象を、何となく「アイデンティティ」と呼んでいる感じだ。


 たとえば、このYahoo!知恵袋の回答などは、私はかなりヘンな用語法だと思うのだが、こういう感じで理解してる日本人はかなり多いだろう。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

自分が自信をもっていること、自分自身のよりどころ、のようなことだと思います。
たとえば、勉強ができてそれが誇りだ、とか、サッカーが得意だ、ということを自認をもっている人は、それらで自分に自信をもつことができ、他のことで多少何かあってもへこたれないですみます。そういうものがアイデンティティだと思います。


 べつに、こういう説明が「間違っている」と言いたいのではない。そんなもん定義次第なので、「私はそういう意味でつかってるんです」と言われたら「そうですか」としか言いようがない。
 しかし、抽象的なレベルでアイデンティティという語の意味する範囲にこだわってよく考えた人ならば、「自分自身のよりどころ」のことをアイデンティティと呼ぶことはなく、そういうよりどころを通じて形成されている、自我の安定性のことをアイデンティティと呼ぶはずだ。


 実際、心理学では、エリクソンという人が「安定した自己イメージ」ぐらいの意味でアイデンティティという概念を用いたのが有名で、心理測定尺度*5にも、自己のアイデンティティの確立の度合いを測るものとして開発されているものはいくつかある。


 保守系の政治家や評論家が「日本人としてのアイデンティティ」とかいう場合は、たぶん、安定的な自己イメージの構成要素として「日本人である」という属性が明確に意識されているべきであるということが主題になっている。(東京都の教育研修資料の4ページの図がそれを意味している。)
 堀義人とかいう人が書いた記事(参考リンク)を読んだら「「武士道」という精神は、今の世界で日本と日本人が役割を果たすうえで改めて学び直す必要がある、日本人のアイデンティティを凝縮した道徳観念だろう」とか書いてあって、そもそも改めて学び直す必要があるならそれはもはや我々のアイデンティティの構成要素ではないじゃないかとも思うのだが、それはともかく、アイデンティティが凝縮されて武士道になっているのではなく、武士道精神を含む諸々の性質が、総体として自己の安定的なイメージを確立しているときに、そのイメージの明確性や安定性や(他者からの)識別性のことをアイデンティティを呼ぶのだと言いたい。
 
 

Identifier、Identified、Identity

 あるものが、他のものから区別してそのものと認識される(同定される)という場合に、


(1) Identifier(同定の材料となる情報)
(2) Identified(同定された実体)*6
(3) Identity(同一性。)


 を区別しておくと、理解がしやすくなるだろう。
 Identifierはたとえば人物の見た目であったり、名前であったり、住所や年齢であったり、Webサービスで使っているアカウント名だったりする。それを手がかりに、その人であることを繰り返し認識することが可能になるような情報のことだ。
 Identifiedは、同定された実体のことで、たとえばそのWebサービスを使っているその1人の人物とか。住所や氏名などは、この同定された実体の属性情報だと考える場合には、Identifiedの一部を構成しているとも言える。
 一方Identityというのは、そういう具体的なIdentifierがきっかけとなって、ある具体的な実体としてのIdentifiedが、それとしてIdentifyされた場合の、その「Identifyされてる感」のことだ。


 冒頭のドキュメントで"Identity Provisioning"と言われるとき、どういう出来事を指しているのかというと、IdPが「とある人物が存在するという事実認識」(及び、場合によってはその人物が何者であるかを示す各種の属性情報)を、「他の人物から区別してその人物を特定するための手段」とともにSPに伝え、それ以後SPが実際に、その人物を「他の人物からは区別される、その人」として認識できるようになるということだ。
 ここでIdPからSPへprovisionされたものがIdentityなのだが、より直接的な表現をむりやりこしらえるならば、とある人物についての"Identifiability"であると言っても良いだろう。具体的なIdentifierが供給されたことに着目するのではなく、その人物を特定できる能力ないし可能性が、IdPからSPへと供給されたという点に着目する。そういう見方をしておくと、Identityの概念も理解しやすくなる。 
 
 念のため言っておくと、Identityという言葉を常に純粋に抽象的な概念として用いる必要はなくて、ある具体的な文脈でidentityという言葉を使うときは、種々のIdentifierやIdentifiedを含んだ、雑多な印象を指すものとして用いられることも多いだろう。たとえば「彼のアイデンティティ」という言い方をする場合、「同一性」という抽象的な意味合いと、具体的な彼の「属性の束」が、同時にイメージされることが多いだろうし、それで構わないと思う。何らか(何者か)の"Identity"が実際に把握されるときというのは、手がかりとしての"Identifier"や中身としての"Identified"が必ず伴うので、IdentifierやIdentifiedを含めた意味でIdentityと言う用法があってもべつにいい。
 ただ、そうであるにしても、一応上記(1)(2)(3)のように区別するよう努めておいたほうが、概念が綺麗に整理され、ひいては物事を深掘りして考えやすくなるとは言えると私は思う。
 まぁ、このエントリの内容自体、十分勉強して書かれたものでは全くないので、哲学者に言わせれば「綺麗に整理されている」とは言えないだろうけど。
 
 

少なくとも日本では混乱がみられる

 じつは、べつに哲学書でなくとも(それこそ技術の解説であっても)、英語の文献の場合は、Identityという言葉を、具体的なIdentifierやIdentifiedの集合を超える抽象的な概念として用いているような節が、けっこうある。冒頭に挙げたPDFのドキュメントにしても、attributeをprovisionするとは決して言わず、わざわざIdentityをprovisionすると言っているわけで、具体的な属性情報そのものではない、抽象的なカテゴリとしてidentityという語を用いているように見受けられる。


 日本語の文献でももちろんそれはあるのだが、自分が読んだことのある狭い範囲だけで独断を下しておくと、割合としては少ないように感じる。
 まぁ、外国の実際の事情は知らないし、英語圏と日本語圏の比較をしてもべつに嬉しいことはないので、どっちがどうというような議論には私はあまりこだわりはないのだが、少なくとも日本において概念の混乱がけっこうみられるということは指摘したい。


 「日本人は抽象的な思考が苦手」とは全く思ってないし、漢語まで含めれば「日本語は抽象的、論理的な表現に向かない」とも全く思わない。私が言いたいのは、少なくともこのIdentityという概念に関しては、日本人の用語法は、具体的にイメージ可能なIdentifierやIdentifiedのほうに引っ張られ過ぎで、抽象概念としてそれを把握することに失敗している場合が多いように思う、ということである。



 ・・・というような話を昨日、同僚にメールで送りつけたので、忘れないうちにブログにメモっておこうと思いエントリを起こしました。自分の研究に戻ります。
 

*1:単にこれだけURLがすぐ分かったので貼り付けとく

*2:そういう場合だけとも限らないけど。

*3:リンク先PDFの筆者が明確にその定義を意識しているかどうかもよくわからないが。

*4:そういう立場もあるらしいのだが。

*5:心理的な傾向を測るための、アンケートみたいなやつ。テキトーにつくられるアンケートではなく、何度もテストを重ねて妥当な質問項目を作り上げていく。

*6:ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」が英語では"Signifier and Signified"と書かれるのにならってこう呼んでみた。

スプラトゥーンが子どもをキレやすくする?—ゲームの悪影響に関する最近の実証研究論文を読んでみた

 年末年始は風邪で寝込んでいたこともあり,時間がなくなったので年賀状を書くのもサボって論文を書く(ためのデータ解析のやり直し)作業をやってるのだが,息抜きにYahoo!知恵袋でスプラトゥーン関連の質問を検索してたらヘンなのがあった.
 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
 

 スプラトゥーンはプレイヤーを「イラッと」させるところがあり,子どもがキレやすくなってしまうと懸念しているらしい. 
 知恵袋上で回答も書き込んでおいたのだが,関連する内容を簡単にここにメモしておこう.


 なお,タイトルがミスリーディングだったかもしれない.本エントリではスプラトゥーンの影響を論じた論文を参照しているわけではなく(そんな論文まだ無いと思う.),テレビゲーム一般についての論文を参照しながらスプラトゥーンの悪影響について考えようと思ったものである.
 
 

「ゲーム脳」はトンデモ説?

 10年以上前に『ゲーム脳の恐怖』という新書が発売されて話題になっていたが,発売当初からボコボコに叩かれていたのを覚えている.
 覚えているところでいうと,評論家の宮崎哲弥氏が右派言論誌の『諸君!』で連載していた新刊新書のレビュー記事で,非科学的だと厳しく批判していたのを見て,結局この本は買うのをやめた気がする.その後も折にふれてこの本が叩かれているのを目にしてきた.たぶん,同時期ぐらいにベストセラーになった『ケータイを持ったサル』みたいな風情のトンデモ本なんだろうと,読んでもないのに決めつけることにした.*1
 

 べつにこの『ゲーム脳の恐怖』にかぎらず,ゲームの悪影響とかもっと広く言って「メディアの悪影響」論については,「世間で言われているような悪影響は,科学的には実証されていない」と言われることが多いように思う.暴力的コンテンツが凶悪犯罪を誘発するという説や,ポルノコンテンツが性犯罪を助長するという説が正しいかというと,科学的にはイマイチ怪しいというわけだ.
 
 「実証されていない」という言い方だとふつうの人には消極的に聞こえるというか,「悪影響は無い」のか「悪影響を検証する研究が行われてない」のかよく分からないかもしれないが,実証研究というのは「こういう効果があるはず」という仮説を立てて,その効果の検出を実験により試み,効果が明確に認められなければ「仮説は支持されなかった」と主張するというスタイルになっている.(念のため言っておくと,趣旨としてはそいう主張になっているということであって,統計的仮説検定の手続きはむしろその逆のロジックである.*2
 だから,効果が「ある」ということが判明するときはけっこう明快なのだが,効果が検出されていない段階でその結果をどう解釈するかは微妙な問題だ.
 「暴力的なゲームは暴力性を助長する」というのは,一つの仮説とは言えるが,こういう大雑把な命題は直接検証することができない.だから実験をやるときはこれをもっと細かく定義して,「こういう条件でこういう被験者にこういう刺激を与えると,こういう方法で計測されるこの数値にこういう効果が見られるはず」というような仮説に置き換えて検証することになる.そうすると,この仮説が実験により棄却されたところで,「いや,仮説の置き換えかたがちょっと変なんだよ」とかツッコミ始めればいくらでもいちゃもんを付けることはできる.
 これは血液型性格診断にも言えることで,心理学徒はだいたいしたり顔で「科学的に反証されている」とか言うのだが,反証されているのはあくまで上記のような「細かく定義した仮説」にすぎないので,血液型性格診断を信じる人は,「実験時に設定された仮説に問題があるかもしれない」と言い続ければ常に水掛け論に持ち込むことが可能である.
 実際,昔台湾人がアメリカで書いた血液型性格診断の論文を読んだら,「A型はやさしい,O型は外向的,B型は神経質,AB型は不誠実」*3という仮説を検証する形になっていたのだが,「え,それ仮説がちょっとおかしくね?」と日本人なら思ってしまうだろう.血液型によってビッグファイブ*4のスコアに偏りが無いことを示している論文などもあり,その論法に反論しようとすると研究蓄積の多いビッグファイブ仮説にケチをつけなければならないので,けっこう難しくなる気はする.
 
 

ゲーム脳に関する研究

 さてゲームの悪影響の話に戻ると,Google Scholarで10分ぐらい検索しただけなのだが,日本語で読める解説としてはイカのような2006年のお茶大の記事があった.
 ざっくり言えば「いろんな説があって難しいですね」みたいな話だ.


子どもたちの脳は今?(1)—ゲーム脳について—
子どもたちの脳は今?(2)—ゲーム脳について—
 
 

今までの研究では,視覚的知能がむしろ上昇するといわれています.空間表象能力,図像技能や視覚的注意も伸びる.テレビゲームはこれらの訓練になる.

一方では,確かにテレビゲームをしていると人と疎遠になるという影響はあるかもしれません.しかし,テレビゲームというのは,ソフトの貸し借りをするとか共通の話題をもつなど人間関係を円滑化する要素もあります.テレビゲームをやってうまくなると,みんなから尊敬される.向こうから寄ってくる.そうすると人間関係が下手な子どももうまくやれてしまう.両方の影響が,相殺されている.その証拠に,大学生以上になるとテレビゲームをやっていると不適応になるという研究データがあります.大学生くらいになるとテレビゲームができても尊敬されない.いい面の恩恵にあずかれないんですね.

学習説というのは,テレビの暴力シーンが暴力性を高めることを肯定する説でして,暴力が良いものであるとか,問題解決の手段として有効であるという価値観が学ばれてしまう.それが一番重要なことだといっています.これを実証している研究は多く見られます.(中略)今テレビの暴力シーンの悪影響があるかないかといえば,ある.ただ,それはあくまで要因の一つであって,暴力シーンを見ただけで犯罪が起きるとかいうことはまったくないわけです.


 など色々なことが言われている.大人がゲームやってるほうがヤバいようだwww
 

 少なくとも,「もともと暴力的だから暴力的なゲームを好んでやっている」のか「暴力的なゲームの影響で暴力的になったのか」が区別できないような研究も多いとか,ゲームには知能や社会的スキルの発達に肯定的な影響も存在するという説もあることなどは,知っておいて良いだろう.
 

最近の実証研究論文

 ところで,私は何となく今まで,よくしらないままに「ゲームの悪影響みたいな話は,科学的にはことごとく否定されている」みたいな印象を持っていたのだが,以下の論文をみてみたらそうでもなかったようだ.


Adachi, P. J., & Willoughby, T. (2011). The effect of video game competition and violence on aggressive behavior: Which characteristic has the greatest influence?


 2011年に出された比較的新しい論文である.冒頭あたりで先行研究に触れられているのだが,暴力的なゲームが子供の攻撃的な振舞いを助長するのかどうかについては色々研究があり,「そういう悪影響はみられなかった」という研究がいくつもある一方で,「やっぱり悪影響ある」ことを示す研究も存在するようだ.引用されてるのは比較的最近の,2000年代以降の論文が中心である.
 この論文の趣旨としては,ゲームの特性を「Violence」「Competitiveness」「Difficulty」「Pace of Action」の4側面に分けて評価し,特に「Violence」(暴力性)の効果と「Competitiveness」(競争性)の効果が先行研究においては分離されていないので,それぞれ独自の効果を改めて検証するという点に主眼が置かれている.
 
 
 どうでもいいっちゃどうでもいいが,ゲームの選定にあたっては,たとえばPilot Study 2のところで

After extensive testing by the first author, four games were selected that appeared to be matched on difficulty and pace of action. Two of the games appeared to be equally violent, and the other two games appeared to be equally nonviolent.

というような記述が出てくるように,筆者は相当なゲーマーであることが伺える.


 最初の実験について手続を一応書いておくと,まず被験者は「これから,ゲームに関する実験と,食べ物に関する実験の2つに参加してもらいます.両者は関係ありません」という教示を受ける.そして暴力的/非暴力的のいずれかのゲームをプレイさせられ,終了後にそのゲームの特徴を評価する質問に答える.
 次に,被験者の暴力性が測定されるのだが,その方法は,「別の人に飲ませるドリンクに入れるからし(hot source)の量を決めてください」という課題を与えるもので,要するにからしをたくさん入れようとする奴はサディスティックってわけだ.この"The hot source paradigm"(「からし法」とでも言えばいいのか?)という手法は別の研究から借りてきているもので,その妥当性を一応チェックするために,質問紙による攻撃性の測定もあわせて行っている.
 さらに,私は知らなかったのだが,suspiciousness questionnaireという質問紙に回答させて,実験の意図を見抜いている被験者を特定し,そういう被験者のデータは結果から除外している.


 結論としては,「暴力的な表現」それ自体は,少なくとも短期的にはプレイヤーの「攻撃的な振舞い」にさほど影響を及ぼしてはいないことを示している一方で,「競争性」は「攻撃的な振舞い」を助長しているという結果を示している.
 これは,冒頭の知恵袋の質問者の問題意識に近いと言えなくもないだろう.スプラトゥーンはまさに激しく「競争的」なゲームであり,これにハマっている廃人たちが,ローラーの待ち伏せに引っかかったり,同じチャージャーに何回も続けて狙撃されたり,ヤグラ上からの「カモン」が無視されたり,編成で事故って塗る係がいなくなったりするたびに,「イラっと」して攻撃性を高めていることは間違いない.


 なおこの論文では,被験者が大学生なので今後は他の年代でも実験しなければならないことや,短期の効果しか測定できていないので長期の影響は分からないといった限界が挙げられている.
 しかしその前に,「競争性が攻撃性を助長する」というのが正しいとして,それって「テレビゲーム」に限った話なのかという根本的な疑問があって,はたしてこの論文は「テレビゲームの悪影響」を論じているといえるのか否かも定かではないという気がしてくるな.そもそも論文1本斜め読みしたぐらいではよくわからないし.


 しかしまぁ,とりあえず,「ゲームの悪影響なんて科学的には否定されている」みたいなことを言う人がいたら,「いや,たしかに明確かつ系統だった証拠が得られているわけではないのですが,2011年にアメリカ心理学会のジャーナルに載ったカナダ人の論文をこないだ読んだら,ホットソースパラダイムという手法を用いた実験を行っていてですね…」とかしたり顔で語っておけば,「へぇ」等のリアクションを得ることぐらいはできると思われる.


 なお個人的には,テレビゲームの悪影響は,視力に関するもの以外はあまりないと思っている.子どもなんてどうせずっと遊んでるんだし.
 スプラトゥーンについていうと,競争性もあるだろうけど,その一方で仲間とともにがんばるみたいな,世間的には良いとされている感覚が刺激されているようにも思う.
 もはや研究とか関係ない単なる個人的な感覚論だけど.


 ・・・さて,タイトルで「考える」と謳った割にまだ大して考えてないわけですが,これ以上時間を使うわけにもイカなくなってきたので,自分の研究に戻ります.

*1:あとで考えたら,買ったような気もしてきた.きちんと読んでないことは間違いないが.

*2:「効果がない」という帰無仮説を立てて,統計的に,その帰無仮説を棄却することで,もとの仮説を支持するという段取りになる.

*3:台湾や香港における「血液型性格診断」はそういう内容になっていると書いてあったと思う.

*4:人間の性格を測定する尺度をいろいろ精査していくと結局5つの要因に収斂していくという,長年に渡り支持されている有名な学説がある.

安倍談話を読んで思い出した「戦前日本の軍事行動の正当性」の話

 敗戦後70年の安倍談話を読むと、前半のあたりにちょっとだけ日本のホシュ派が長年言いたがっていたようなことが盛り込まれていて、安倍首相は満足しているのかもしれない。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。


平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 | 平成27年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ


 19世紀の終わりから20世紀前半にかけての日本の軍事行動は「正しかったのか否か」みたいな二分法で話そうとする限り、安部首相の言ってることはよく分からなくて「結局どっちなんだよ」と言いたくなる人も多いかも知れない。日本が追い詰められていたという側面と、日本が世界の大勢を見失ったという側面の両方に言及しているから(そんな麗しい意思が大勢を占めていたとまで言えるかは疑問だけど)、欧米列強と日本のどちらが悪いと言いたいのか曖昧なわけなのだが、これはそもそもハッキリ割り切れる問題ではない。
 この談話に不足があるとすれば、誰かが悪いという話の前に、当時のグローバルな政治・経済のシステムそのものが悲劇を準備した面や制御不能だった面もあるのだということを、もっと明確に言えばいいのにということだろうか。
 談話の後半はいつもながら「そこまで卑屈になる必要はないのでは」と思ったが、これはまぁ定番ネタ化しているものなので、時候の挨拶みたいなものだと思って気にしないことにする。


 ところで、上記のような歴史の流れについて考えていて思い出すのは、昔、評論家N先生の私塾で行われた次のような議論だ。
 N先生がいきなりホワイトボードに、下図のようなグラフを描き始めた。(実際は、座標軸と曲線を描いて斜線で塗ったぐらいだったと思う。文字は私が補った。)


f:id:midnightseminar:20150815163001p:plain:w800


 N先生は次のように言っていた。
 まず開国後に富国強兵の努力をして日清・日露の戦いへ進むぐらいは、当時の帝国主義の時代状況にあっては、ほぼ自衛的な振る舞いと言えるだろう。しかし対華21箇条要求の当たりから日本は調子に乗りすぎた面があって、当時の状況下でも正当とは言い切れないような膨張政策を取るようになっていった。
 ちょうど、世界が帝国主義からの脱却や戦争の違法化などの転換を迎えつつある時代であったことも考えると、結果的には1周乗り遅れた感もある。中国への進出も、満州ぐらいは空き地だったから許されるかもしれないが南京まで攻めていくのはさすがに侵略性なしとは言えないだろう。
 ところが当時の世界は相変わらず国際協調の時代とは言いがたい面があって、枢軸vs英米vsソ連で縄張り争いをしていたわけだし、米英が日本と戦う蒋介石を支援したのもべつに平和主義に突き動かされてのものではない。そして石油の禁輸を始めとするABCD包囲網が敷かれていって、日本も資源確保のために東南アジアへ進出する必要が出てきたわけである。また甲案・乙案・ハルノートに至る日米交渉の経緯をみても、日本が「追い詰められていった」面は多分にあって、太平洋戦争*1についてはほぼ自衛戦争であると言えるだろう。


 それで上図のようなグラフを描いて、日本の軍事行動の正当性はだんだん下がって最後に跳ね上がるという感じで捉えておけばよいという話をされていた。もちろんグラフで描いて終了というのは大雑把過ぎるのだが、「正しかったか否か」みたいな二分法の議論に比べればまだこのほうが良いだろうというぐらいの意味で描かれたものだ。
 その上で、どうしても「全体として正しかったかどうか」を議論したいのであれば、この大義の度合いを開国から敗戦まで積分すればよい。ということで当時その私塾の塾生で東工大教授でもあったF先生に、理系だからというだけの理由で話が振られ、「F君、この斜線で塗った部分の面積は全体の何割ぐらいかね」とN先生が問い、F先生が「うーん半分をやや超えてますね」とテキトーな返事をすることになった。それでN先生も「だろ?」とか言って、歴史の流れの中で過ちも多分に存在したものの、全体として近代前半の日本の行動は肯定的に捉えることが可能だという結論に至った。


 もちろんこれらは冗談まじりの議論だったのであって、私も「先生が勝手に描いたグラフから割合を判断していいんすか」みたいなことを突っ込んでゲラゲラ笑った気がするのだが、上図のような捉え方はけっこう示唆に富んでいて、頭の整理をするにはいいだろうと思う。

*1:中国方面の戦いと区別して太平洋戦争と言っている。

「PCやタブレットより紙で読むほうが効率的だ」という実証研究いろいろ

心理学 論文 ResearchBlogging

 最近職場でペーパーレス化を進めようという号令がかかり,たとえば資料を紙で印刷して説明するのはやめて,データで送って予め見てもらってから打ち合わせするようにしましょうとかいう話になった.すでに,作成中の資料を印刷して相談にきた若手社員を係長が「印刷しないでって言われてるよね」と叱り飛ばすといった事案も起きている.
 まぁそんなに厳しいルールでもないので別にいいのだが,ふと「紙のほうが作業効率が高いということが明らかになった場合,それがペーパーレス化によるコスト削減効果を上回っていたら,本末転倒じゃね?」みたいな天邪鬼発言を予定して,裏付けとなる研究が無いか探してみた.
 というか,そういう研究がネットの記事になっていたのは以前みたことがあったので,まずそれを確認した.
 まず,発光型のデバイスで読む場合,反射光で読む紙の場合とは脳の反応が異なるという研究があるという記事.

プリントアウトした方が間違いに気づきやすいワケ - A Successful Failure


マクルーハンは、我々が映画を見る時とTVを見る時とでは脳の受容モードが異なると指摘し、米国の広告研究家であるハーバート・クルッグマン(Herbert Krugman)の研究を引用している。クルッグマンは被験者を2つのグループに分け、同じ映画を見せた。ただし、一方のグループにはスクリーンに投影した反射光として見せ、もう一方のグループには半透明スクリーンの裏から投射した透過光として見せたのである。


(中略)


発光型デバイスであるモニタを見るときには、脳はパタン認識・くつろぎモードになるため、文書を見ても全体を絵柄として捉え細部に注意がいかなくなり、ぼんやりとくつろいで見ることになり間違いに気づきにくくなる。一方、紙にプリントアウトすると、それは反射光となるため、脳は分析・批評モードに切り替わり、文書を細部まで細かくチェックすることが可能となる。そのため、間違いに気づきやすいというわけだ。文章をチェックするときに、一旦紙にプリントアウトして見ることは、理に適った行動なのだ。


(中略)


2013年7月、トッパン・フォームズは、国際医療福祉大学の中川雅文教授(医学博士)の監修のもと、近赤外分光法(NIRS)を用いて、人がある特定の活動をするときに脳のどの部位が関わっているのかを調べることができる近赤外光イメージング装置を利用し、DMに接したときの脳の反応を測定した結果を発表した。
同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示し、特に脳内の情報を理解しようとする箇所(前頭前皮質)の反応は紙媒体の方が強く、ディスプレーよりも紙媒体の方が情報を理解させるのに優れていることや、DMは連続的に同じテーマで送った方が深く理解してもらえることなどが確認されました。


 これだけでは詳しいことは分からないが,目が疲れるだけでなく,脳の反応にも影響あるということか.


 デバイス(メディア)の違いが文章読解に与える影響を研究しているノルウェーの研究者の最近の実験が紹介されている記事もあった.

電子書籍より紙の本で読んだほうが、内容をよく記憶できる:研究結果 | ライフハッカー[日本版]


ノルウェイのスタヴァンゲル大学の研究者、アン・マンゲン(Anne Mangen)氏の新しい研究では、50人の被験者に28ページの短編小説を読んでもらい、後から重要なシーンをどれくらい思いだせるかをテストしました。このとき、被験者の半分はKindleで、残りの半分はペーパーバックで読んでもらいました。
登場人物や設定を思い出すことに関しては、どちらのグループも同程度の成績だったと、ガーディアン紙が報告しています。ところが、物語のプロットを再構築するよう頼んだところ、大きな違いが見られました。電子書籍で読んだ人は、14のストーリーイベントを正しい順番に並べるテストにおいて、著しく悪い成績を示しました。
(中略)
「物語の進行に合わせて紙をめくっていくという作業が、一種の感覚的な補助となります。すなわち、触覚が、視覚をサポートするのです」とマンゲン氏。「おそらくこのことが、読書の進捗度合いと、物語の進行度合いを、よりはっきりと印象付けるのでしょう」


 なるほど.確かに,読むときも書くときもだけど,身体的な感覚と意識のあいだにはやはり関係があるような気はする.
 で,上記の電子書籍の実験とは別のものなのだが,このマンゲン氏の下記の論文を読んだので以下に紹介しておきます.


 Mangen, A., Walgermo, B. R., & Brønnick, K. (2013). Reading linear texts on paper versus computer screen: Effects on reading comprehension. International Journal of Educational Research, 58, 61-68.


 この論文で報告されているマンゲン氏の実験そのものも大事なのだが,先行研究レビューの箇所を読むのがむしろ目的だった.
 マンゲン氏の紹介によると,たとえばWästlund, Reinikka, Norlander, & Archer(2005)は,紙とコンピュータのぞれぞれに被験者を割り当ててテキストを読ませ,内容に関する質問に答えたり,内容を要約してヘッドラインを書くという課題を与えた.結果,コンピュータ条件の被験者は有意に成績が悪く,またストレスや疲労のスコアも高かった.コンピュータ上での読解は,紙に比べて認知的な負荷が高くなっていることが示唆されている.


 Noyes & Garland(2003)によると,物事の思い出し方には2種類あり,"remember"は関連する知識から連想的に検索する方法で,"know"はより直接的に該当の知識にたどり着くことができるものとされる.
 紙とコンピュータのそれぞれで被験者にテキストを読ませて比較する実験を行うと,紙で読んだ人は内容をrememberで思い出す割合とknowで思い出す割合が同じぐらいだったのが,コンピュータで読んだグループの人はrememberが2倍ぐらい多かった.Noyesらは,コンピュータ画面が長期記憶を生成する過程に影響を与えているのではないかと指摘している.


 Garland & Noyes(2004)でも同じ結果が出ていて,episodic memory(エピソード記憶)がsemantic memory(意味記憶)に転換するプロセスが,メディアに影響を受けていると指摘されている.
 結論としては,紙で勉強したほうが,"schematization"(心理学の用語で,知識を後の判断に使える枠組みとして蓄積していくこと)の障害が少なく,学習が早くて,検索しやすい記憶が残るそうだ.


 Kerr & Symons(2006)は,5年生(日本の何年生に当たるかは知らん)に紙と電子画面でテキストを読ませる実験をしている.マンゲン氏によると,子供を被験者とした実験は事例が少ないそうだ.
 この実験では,紙で読んだほうがスピードは速いのだが,コンピュータで読んだ場合のほうがたくさんの情報を思い出すことができた.この点だけをみると他の研究とは逆の結果であるようにも思えるが,読解テストで内容をより深く理解していたのは紙で読んだグループのほうだった.つまり,コンピュータのほうがゆっくり読んだ分たくさんの情報を思い出せただけかも知れないし,紙のほうが読解時間が短かったにもかかわらず理解が深かったということは,表面的な情報取得については紙が優位ではない可能性もあるが,“理解”の効率は紙のほうが良いということが示唆される.


 また,論文やレポート等を添削するタスクの効率に実験はいろんな国で行われているらしく (Coniam, 2011; Johnson, Hopkin & Shiell, 2011; Johnson & Nádas, 2009; Johnson, Na ́das & Bell, 2010),総じて,添削者がコンピュータ上で作業した場合(スキャンしたデータ上でマークしたり,コメントを書き込んだりする),紙でやった場合に比べて,レポートの内容をよく思い出せなくなることが知られているとのことだ.


 さて,マンゲン氏がこの論文中で報告している自身の実験は,ノルウェーの10年生(15-16歳)72人に,物語文と説明文をそれぞれ紙とPDFで読ませ,その後に読解テストを行うというものである.
 仮説は,
 1 紙で読んだほうが,内容をよく理解できる
 2 説明文のほうが認知的な負荷が高いので,媒体による影響をより強く受ける
というもの.


 実験の前に国語(読解力やボキャブラリー)のテストを行ってある.事前テストも本テストも,素材は公的な学力テストの機関作成のものから取ってきている.
 グループ分けしてそれぞれ紙・PDFでテキストを読ませた後に読解テストを行って,事前テストのスコアと,グループごとの本実験読解スコアを用いて,sequential regression analysisを行った.sequential regression analysisって何なのかよく知らないのだが,中身を読むと,重回帰モデルに変数を順次投入していって分散説明率の変化を見ているようだ.


 まず事前テストの点数が紙/電子グループによって異なるかを検定し,有意に異ならないことを示している.
 次に,本実験読解のスコアを被説明変数として,それを説明する重回帰モデルを構成する.まず事前テストのスコア(3項目ある)だけの重回帰モデルで全体の分散をどれだけ説明できるかを算出し(STEP1),その後に性別を変数として投入し(STEP2),最後に紙/電子化の区別を変数として投入して(STEP3),分散説明率の変化を見ている.
 結論として,紙/電子という変数を投入することでモデルの説明力は有意に向上し,紙か電子化という変数の回帰係数も有意となっている.
 なお,説明文と物語文で有意な違いはみられなかった.


 引用されてた以下の文献も読もうかと思ったが,職場でネタにする分には上記の内容で十分なので,ひとまずやめておいた.

  • Wästlund, E., Reinikka, H., Norlander, T., & Archer, T. (2005). Effects of VDT and paper presentation on consumption and production of information: Psychological

and physiological factors. Computers in Human Behavior, 21, 377–394.

  • Noyes, J. M., & Garland, K. J. (2003). VDT versus paper-based text: Reply to Mayes, Sims and Koonce. International Journal of Industrial Ergonomics, 31, 411–423.
  • Garland, K. J., & Noyes, J. M. (2004). CRT monitors: Do they interfere with learning? Behaviour and Information Technology, 23(1), 43–52.
  • Kerr, M. A., & Symons, S. E. (2006). Computerized presentation of text: Effects on children’s reading of informational material. Reading and Writing, 19(1), 1–19.

アメリカの裁判所で起きた珍事について

同級生の女の子に裁かれる犯罪者

 アメリカの裁判所でこんな珍事があったらしい。


www.huffingtonpost.jp
 
 

オレンジ色の囚人服を着たアーサー・ブース被告の顔を見て、ミンディー・グレーザー裁判官が「ちょと質問があります。あなたはノーチラス中学出身ですか?」と尋ねた。すると、ブース被告は「ああ、なんてこった!(Oh my goodness!)」と頭を抱えて号泣し出したのだ。
実は、ブース被告とグレーザー裁判官は中学校の同級生だった。この運命のいたずらに、グレーザー裁判官は「ここで会うとは残念です。いつも貴方がどうしているか気になっていました。人生がいい方向に向かうことを祈っています」と優しく声をかけたという。


 英語の解説をしているブログで、たまたまこの話題が取り上げられていて、動画の日本語訳も載っていた。
 oceanview2015.com


 英文のニュース記事を読むと背景が少し詳しく書いてあって、ブース被告の従姉妹のコメントも紹介されている。
 www.local10.com
 www.nydailynews.com



 グレーザー裁判官が「中学校では最高の少年だったのに、こんなところで再開することになって残念だ」と言っているのに呼応して、ブース被告の従姉妹も「子供のころは勉強もスポーツもできてバイリンガルで、将来有望な少年だったのだが、なぜかその後は大学へも進まず、犯罪とドラッグの道を歩むことになってしまった」と振り返っている。
 グレーザー裁判官の「いつもあなたがどうしているか気になっていました」というセリフそのものは、深い意味はなく「久しぶり」ぐらいの挨拶であるような気もするが、勝手に想像すると、たとえば「あんなに優秀だったアーサー(・ブース)が、中学を卒業してからグレてしまって、残念だ」という話は同級生の間でも話題になっていて、そういう噂を聞いて少し心配していたというぐらいのことはあるかも知れない。


 ところでこのニュース、同級生との再開そのものはある種の「いい話」としながらも、犯罪者人生を歩むことになったことを「残念な話」として受け取る人が大半だろう。しかしヘンなことを言うようなのだが、私はこういう、高校ぐらいからグレていく人たちは結構好きだ。いやまぁ、好きというと語弊があるのだが、何か人生について考える上で重要なものを彼らが体現しているように思えて、気になってしまうのである。
 自分の小中学校の同級生にもそういう奴らが多少いて、べつに付き合いもほとんどないので噂で聞く程度だし、困ったことがあれば力になってやろうみたいな気も(能力も)ないのだが、感情の問題としては、「グレていった奴らの人生」を他人事として突き放すことがどうしてもできない。
 「人生の分岐の可能性として、自分にもあり得た」という意識がどこかにあるのだろうかとも思ったが、おそらくそんな、自分を中心にした狭い範囲の関心ではなくて、「人生とはしばしばこういうもんだ」みたいな一般性のある感覚に訴えるものがあるのだろう。


樋口一葉の『十三夜』を思い出した

 このニュースを読んで、樋口一葉の『十三夜』を思い出した。(青空文庫でも読める。
 以下完全なネタバレなので、読んでない人は注意してください。


 『十三夜』は、貧乏な家庭に生まれながら器量のよさから大金持ちの男(役人だったかな)に見初められて嫁に行き、子供も生んだ主人公の関子が、旦那との生活が嫌になって深夜に脱走して実家に戻ってくるシーンから始まる。関子は旦那があまりにも非人間的でもう耐えられないと泣くのだが、父親に「家としての立場もあるし、子供のこともあるから、どうか我慢してほしい」と説得されて、結局「自分が我慢をすればいいのだ。子供だけはしっかり育てよう」と腹をくくって、夜明け前までに急いで戻ることにする。
 帰り道で関子は人力車を拾うのだが、自宅の近所に着いて降ろしてもらう時に、その車引きが幼馴染の録さんであることに気づく。車引きといえば、当時は要するに最下層クラスの“賎業”で、被差別階級の仕事でもあったはずだ。
 録さんも子供の頃はとても魅力的な少年で、確かタバコ屋か何かの息子なのだが、関子は密かに禄さんに恋をしていた。「録さんのところに嫁いで、毎日、新聞でも読みながら店番をするんだ」というような将来の自分を想像していたのだが、そう思い通りには行かないもので、何の因果か好きでもない金持ちの家に嫁ぐことになってしまった。
 そしてここからがブース被告みたいな話なのだが、この録さんがある時から飲んだくれてどうしようもなくなったという話は町でも噂になっていて、関子もずっと心配していた。それでバッタリ再会したと思ったら、噂どおり昔の録さんからは想像もつかないような薄汚い車引きになっていて、録さん本人も恥ずかしい姿を見られて恐縮している。
 物語の描写では、じつは録さんも子供の頃からひそかに関子に好意を寄せていて、録さんがグレ始めたのはちょうど関子が金持ち旦那の家に嫁いでからだったようだ。
 関子は変わり果てた録さんに心底同情して、車代とは別に少しお金を渡し、「久しぶりで話したいことはたくさんあるけど、そうもいかない。どうか以前のような録さんになって、立派にお店を開くところをみせてほしい。わたしも陰ながら祈っている」と言って別れるシーンで物語は終わる。


 最後の「其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田*1の二階も原田*2の奧も憂きはお互ひの世におもふ事多し」という描写は最高に美しい。一葉の作品は『たけくらべ』や『にごりえ』のほうが有名だが、私はこの『十三夜』が一番好きで、学生時代に何回も読み返した。


 ブース被告とグレーザー裁判官が子供の頃はお互い惚れ合っていて……というような想像まではさすがにしなかったが(笑)、将来有望だった少年がグレてしまい、久しぶりに再開した女の同級生に高いところから見下ろされるというプロットが重なって、思い出してしまった。


 そういえば、経済学者・評論家の西部邁先生が子供の頃からの唯一の親友・海野氏について書いた『友情』というエッセイがあるのだが、この海野氏も札幌南高校という超優秀な高校を卒業しながら、東大教授になる西部邁とは正反対に、ヤクザになって覚せい剤などで逮捕され、最期は自殺するという壮絶な人生を送った人だ。
 西部先生は海野氏を、最後まで「唯一の親友」として描いている。結果だけ見れば一般の道徳観からは「ろくでなし」ということになるのかもしれないが、ろくでなしの人生にも正義や美しさがあって、忘れるわけにはいかないのだ。


友情

友情

*1:録さんが居候してる家

*2:関子が嫁いだ家

武力行使の「大義」の問題について

 安保法制の問題で、こういう記事があった。
 www.news-postseven.com
 
 中身を読むと、次のようなことが述べられている。
 

<この国の法案が通れば、他の国の戦争に日本の若者が巻き込まれ、命を落としたり、あるいは人を殺してしまう危険性が高まるということです。そんなこと絶対、許してはなりません!>
 
 私は、この演説からしてすでに違和感を覚える。揚げ足を取ろうというわけでは決してないと断った上で言えば、他の国の戦争に巻き込まれて命を落としたり人を殺してしまう危険性が高まるのは「日本の若者」か? 違うだろう。それは「日本の自衛官」だ。細かな言葉の問題ではなく、これは大きな認識のズレである。

 
 記事のタイトルを見た時は、「『ぼく達は戦争に行かないぞ』というのはおかしい。アメリカの都合で戦うのはゴメンだという話しならわかるが、日本のために必要ならば戦うしかないではないか」というような趣旨の記事を想像したのだが、そうではなかったようだ。
 死ぬのは若者一般ではなく自衛官なのであり、「僕たちは戦争に行かないぞ」的な叫びには、民主的な意思決定の下で*1派遣される自衛官の生命に対して国民が負うべき責任意識というものが感じられない、というほどの論旨である。
 

 海の向こうの戦地で自衛官が亡くなったとしよう。ついに戦後の平和が終焉したと日本中が大騒ぎになるだろう。でも、亡くなった自衛官の扱いはどうなるのか。多くの日本人は悲劇の主人公としてマスコミが語るその自衛官に同情しながら、同時に、本音のところでは「自分から自衛隊に入ったのだから仕方ない」と突き放すのではないか。日本人お得意の自己責任論で。

 

迷彩服の自衛官の横顔の写真をバックに、「私たちは自衛隊員の皆さんが戦死するのを見たくありません。」というキャッチコピー。
 そう、私たちは見たくはないのである。でもその見たくはない自衛隊員の死は、我々日本人のためにおきた出来事だ。構造的にはアメリカのご都合のために、かもしれないが、亡くなった自衛官は日本のために戦地へ赴いたに違いない。そういう大義がなければ、人は自分の命を賭すことをできない。自衛官が死んだなら、その死の責任は我々国民にあると、まずそう認識するところから始めるべきなのだ。でなければ、何をどう叫ぼうが、そんなものは被害者ぶりっ子のたわごとだ。

 
 細かく考えるとこの筆者が何を言いたいのかは正確にはわからないのだが、一つ重要なことは、集団的自衛権の議論というのは、戦争ができる国になるかならないか、死人が出るか出ないかみたいな問題ではなく、自衛隊員をどこかに派遣して殺し合いをさせるための「大義」を適切に構成できるかどうかの問題だということだ。
 いや、正しくは、「大義」のある戦いにしか自衛隊員を派遣しないように適切に政治的決定を行って行けるか、ということだ。そして「大義のある戦い」には、論理的には、集団的自衛権の行使に該当するようなものも含まれるだろう。
 もちろん大義の問題とは別に、憲法に合致しているかしていないかという目先の問題もあるし、世間的にはそればかりが話題になってるわけだが。
 
 f:id:midnightseminar:20150705105605p:plain
 
 この図でいうと*2、本来は赤い線を越えないように気をつけることが国民的・国家的課題なのだが、いま憲法をめぐって議論されているのは緑の線を越えるか否かという話だ。
 赤い線の内側と外側の区別をつけるための、成熟した議論、意思決定の仕組み、そして日本国家としての経験の蓄積が「不足している」と判断すれば、今はとりあえず緑の線の内側に留まっておけ、という判断をすることはあり得るだろう。
 実際、今回の安倍政権の説明をみていると、憲法解釈上の問題とは別に、赤い線がどの当たりにあるのかという認識もフワフワしている印象を受ける。国際政治学者の伊勢崎賢治氏(ネトウヨ的に言えば左翼ということになるのだろうが)がホルムズ海峡の掃海の例を挙げていて、「それって資源のため、経済的利益のために外国で武力行使しますって話しであり、そんな恥ずかしい議論を公の場でしないでもらいたい」とインターネットの動画で言っていたが、確かにこれは憲法上許されるかどうかの前に、そもそも武力行使のための大義に関する認識として適切であるのかどうかをもうちょっと慎重に議論して欲しいところだ。
 
 伊勢崎氏はTwitterでも以下のように言っている。
 

民放から、なぜ安部首相がホルムズ海峡の機雷掃海にこだわるのかコメントをって。だーかーらー、資源をネタに武力行使を大っぴらに議論するなっていうの。議論していいのは、本土が武力攻撃される時の自衛のみ。国家存立危機は「電力不足の凍死」じゃダメなの。日本は「侵略」するって思われちゃうの。
https://twitter.com/isezakikenji/status/605310315408982016

 
 「本土が」という限定がどこまで必要なのかはよくわからないが(先ほどの緑の線に関わることとして言っているのか、赤い線に関わることとして言っているのかにもよる。)。
 
 もちろん大義の有無というのは常に曖昧なところがあるのだが、「重要な問題は“大義の有無”をきちんと判断できるかどうかであって、自衛官を派遣するかしないかはそれに従属する論点である」という認識はハッキリさせて置かなければならない。「戦争に行きたくない」とか「自衛官を戦争に送り込みたくない」とかいう叫び声は、ちょっとズレているということである。
 
 とりあえず憲法の制約があるので、緑の線と赤い線はなるべく一致するように、解釈を変えるなり改憲を行うなりして欲しいが(私は現行憲法の解釈論争にはそこまで関心はない)、赤い線の内に留まるか外に出てしまうかというのは、人類が何度も間違いを犯してきた(しかも何が正しいのか決定が困難な)やっかいな課題だ。
 しかしその判断の責任から逃れることも難しい。だからこそ、赤い線をめぐる判断のための議論が成熟している必要があり、簡単に言えば日本人が高い判断能力を持てるかどうかが重要なのである。それに比べれば、戦争に行きたくないとかいう単なる感情も、憲法に合致しているかという単なる文理上の論争も、重要度は劣ると言える。
 
 
 こういう話に関連して私はよく引用するのだが、マイケル・ムーアの『華氏911』の一節に触れておこう。
 この映画はイラク戦争に関するものだが、後半では、アメリカではたくさんの貧乏な若者が奨学金目的で(軍からの甘い勧誘に応じる形で)兵役に就いている実態を明らかにする取材を行っていて、彼らをイラク戦争に派遣してたくさんの死者を出していることの倫理性を問う次のようなナレーションがある。
 

I’ve always been amazed that the very people forced to live in the worst parts of town, go to the worst schools, and who have it the hardest are always the first to step up, to defend us. They serve so that we don’t have to. They offer to give up their lives so that we can be free. It is remarkably their gift to us. And all they ask for in return is that we never send them into harm’s way unless it is absolutely necessary. Will they ever trust us again?”
 
僕は、いつも感心する。
極貧の町に住み、最悪の学校へ行き、底辺で生きる人々。
彼らが率先して、その上の社会を守るために進み出る。
僕らの替わりに生命を差し出し、そのおかげで僕らの自由が守られている。
これは彼らから僕たちへの、とてつもない贈り物だ。
彼らが求める見返りはただ一つ。
彼らを戦地へ送りこむのは、それが是が非でも必要な時に限るという信頼だ。
その信頼を裏切ってないか?

 
 大義のない戦いに自衛官を派遣するようなバカなことは、絶対にしないという信頼感。それが唯一、我々文民が命を賭けて戦う軍人に対してなし得る「見返り」であり、この信頼を失った時、安全保障の論理が根幹から崩れてしまう(イラク戦争への加担を通じて既に失ってる気もするが)。
 我々市民社会の側が、自衛官に対し「大義」を与えられるだけの成熟した議論と判断能力を持ち得るかこそが問われるべきなのだという意味で、冒頭の記事が言いたかったことも同じかもしれない*3
 まぁ、安倍政権を戴いている限り無理だろう。

*1:いわゆる非常事態条項があれば話は別だが。

*2:憲法は厳格な専守防衛を謳っており、自衛のための戦いに「大義のない戦い」はあり得ないとする。

*3:自衛隊は軍隊ではないとかいう話は措いておく。