The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

咳喘息の薬

 今日から下の写真のような薬を吸い始めました。
 
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 内科でもらってきた咳止めなんですが、先生曰く、「飲み薬を3つ4つ飲んでも、こいつには敵わない」というレベルの強力な吸い薬らしいです。(飲み薬ももらったのですが。)
 中には細かい粉末が入っていて、口から吸うと、気道の粘膜とかに貼り付いて炎症を治めてくれるようです。粉を吸うというのは始めてで、吸う前は抵抗ありましたが、吸ってみると気持ち悪い感じは全く無いですね。
 たぶん1週間ぐらいで治るんじゃないかと期待しております。
 

 10日ぐらい前から咳が酷かったので内科にいってきたわけですが、咳喘息だと言われました。私の場合、3〜4年に1回発症しています。子どものころは全くなかったですが、大学生の時に最初になって以来、数年置きに発症している。 
 去年か一昨年か忘れたけど、その時も先生にいろいろ聞いたのに結構忘れていたことがあるので、メモっておきます。
 
 
 ネットで見たら、
 安眠を妨げる辛い咳喘息厄介だが過度に怖がるべきではない|男の健康|ダイヤモンド・オンライン
 こういうめちゃめちゃ分かりやすい解説もありました。症状とかもこの説明のとおりだし、だいたい10日目ぐらいで心配になって診察にくるという点まで完全に一致w
 ここで最後に紹介されている「吸入用ステロイド」ってのは、私が今回もらった吸い薬ですね。
 
 
 喘息といっても呼吸困難になるようなものではなく、風邪の直後に発症して、酷い咳が続き、数週間で治るものです。ただ、朝から番までずっと咳が出ているのはかなり辛いものではあります。
 風邪のときにちょっとゴホゴホするような咳ではなく、もっと一発一発が大きいもので、それがとにかく一日中出まくるということです。正確にいうと「一発」といっても、息を吸い込む回数でいうと2回ずつぐらいがセットになっており、今回でいうとそれが10分ぐらい置きに出ていて、今は少し落ち着いて1時間に1回ぐらい。
 咳が出そうになったら我慢するのは不可能で、人と話していても飯を食っていても容赦なく咳が出ます。仕事の打ち合わせで自分が何か資料にそって説明しているときなんかは、我慢しようとするわけですが、出そうになると我慢は絶対無理。 
 しかも1回1回が大きな咳なので身体の負担も大きく、今回は右の胸(おっぱいの下の方)と背中が捻挫したような痛みを抱えていて、咳をするたびに激痛で悶ます。呼吸をするだけでしんどいというほどのことではないけど、例えば鼻をかむのとかウンコをきばるのは辛い。先生によると、女性の場合はこの咳で肋骨にヒビが入る場合もあり、自分で音が聞こえたという人もいるとか。
 市販の咳止めは全く効きません。しかし病院でもらった強力な咳止めを飲み始めると、これまでの経験では1日か2日で咳がだいぶ楽になり、1週間もあれば治ってしまう。
 
  
 3〜4年に1回といっても、じつは前回は昨年でした。前回は、昼間は比較的頻度が少なくて夜に多くなるというものだったんですが、今回は昼も夜もあまり頻度は変わらない。
 上記サイトの解説でも、夜にひどくなるという人は多いらしい。そういえば以前医者にかかったとき言われたのは、「夜の間は気管が収縮しているので、昼よりもひどくなるんだ」とのことでした。上記サイトでは血流がどうのこうのと別の説明がされている。
 寝る時に座椅子を使って身体を少し起こした状態にしておくと、少しマシになりましたが、辛いことに変わりはありません。
 
 
 私は前回同じ症状が出たのも同じ季節だったと思うので、その話を先生にしたら、「今の時期は湿気によって小さいダニ等が繁殖しやすく、それが粘膜を敏感にするきっかけになっている可能性がある」と言っていた。噛んだりする通常のダニではなく、もっと小さいやつらしい。
 ググったら、咳喘息ではないがアレルギー性気管支炎の解説に、
 
 

 http://www.1shibafu.net/arerugi/2006/05/post_130.html
 
 アレルギー性気管支炎の原因はヒョウダニやハウスダスト、花粉やカビなどが主な原因と言われています。風邪をひいて気管支が弱まっているところに、アレルゲン物質が付着し、ヒスタミンなどが過剰に分泌されることが原因で起こるとされています。

アレルギー性気管支炎の原因の一つであるハウスダストとは空気中に存在する、ホコリやチリ、ダニやダニの死骸・フン、食べかす、犬や猫などのペットの毛、人の毛髪、ふけ、赤、植物の花粉、たばこの煙粒子など目に見えないものをまとめてハウスダストと呼んでいます。掃除をしてもそのホコリが空気中に舞い上がり、アレルギー性気管支炎などの原因となります。

 
 
 と書かれていて、似たようなものなんじゃないかと思われる。今年は引っ越したばかりで、家は綺麗なはずなんだが……。


《追記》
 先生からは、とりあえずこの薬をしばらく使って治らなかったら、アレルギー検査をしてピンポイントでの治療に切り替えていこうと言われましたが、3〜4日で良くなりました。なので今回も、アレルギー検査はせず終いです。

マーサ・スタウト著『良心をもたない人たち』("The Sociopath Next Door")が規定する「サイコパス」の特徴

 

良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)


 著者は臨床心理学者。本書の主張は、とにかく「良心をもたない人たち」ってのが一定割合は世の中に存在していて、彼らは「良心のある人たち」が期待するよりもはるかに理解し合うことが難しい(というか不可能な)相手なので、気をつけましょうということである。
 トンデモ本っぽく読むこともできると思うが、個人的には納得のいく(頭に実例が思い浮かんでリアリティを感じられる)内容だった。


 本書の中で私が主に関心を持ったのは、著者が「良心をもたない人たち」の特徴を規定している記述群で、「あーこれは当てはまる例あるわ」とか思いながら読み進めた。
 他にも、「良心」というものをめぐる哲学・心理学における学説史や、利他的行動についての学説史が紹介されており、また著者が臨床に携わった「良心をもたない人たち」の事例研究*1も含まれている。


 なお本書中では、「良心をもたない人たち」を「サイコパス」と呼んでいる。ソシオパスという呼び方もあるらしく原題の英語はそれなのだが、邦訳書では一貫して「サイコパス」と書かれている。こんなにも「サイコパス」という語が繰り返される真面目な本もなかなかないだろう、という感じがした。


 以下、著者が規定する「サイコパス」=「良心をもたない人たち」の特徴をいくつか抜粋しておく。
 どこか西の方に、これらの定義の大部分を体現したような地方政治家がいたような気がしたりしなかったり。

pp.7-8
 想像してみてほしい——もし想像がつくなら、の話だが。
 あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら……。
 (中略)
 そして、責任という概念は自分とは無縁のもので、自分以外のばかなお人よしが文句も言わずに引き受けている重荷、としか感じられないとしたら。
 さらに、この風変わりな空想に、自分の精神構造がほかの人たちと極端にちがうことを、隠しおおせる能力というのも加えてみよう。
 (中略)
 言い換えると、あなたは良心の制約から完全に解き放たれていて、罪悪感なしになんでもしたい放題にできる。しかもそのうえ、良心に歯止めをかけられている大多数の人びとのあいだで、あなたが一風変わった有利な立場にいることは、都合よく隠すことができ、だれにも知られずにすむのだ。
 そんなあなたは、どんなふうに人生を送るだろう。

p.9
 IQが高く上昇志向が強い場合
 たとえばあなたが、金と権力が大好きな人で、良心はかけらもないが、IQはすばらしく高いとしたら……。
 あなたは、満々の野心と高い知能を背景に巨大な富と力を追い求め、厄介な良心の声にわずらわされることなく、成功を目指す他人の試みを片っ端から打ち砕くことができる。
 あなたは事業、政治、法律、金融、国際開発、その他もろもろの有力な職業を選び、冷たい情熱でひたすら上昇を目指し、月並な道徳や法律の足かせには目もくれない。
 (中略)
 あなたは、想像を絶した、ゆるぎない、そしておそらく世界的な成功を手にするかもしれない。それも当然だ。あなたは優秀な頭脳をもつと同時に、手綱を引く良心が欠けているのだから。あなたにできないことは、なにもない。


pp.10-11
 野心家だが知能はそこそこの場合
 (中略)
 野心は満々で、成功のためなら、良心をもつ人たちが考えもしないようなことを平気でできるが、知能的にはそれほど恵まれなかった場合。
 IQは平均以上で、人からは、頭がいい、切れ者だなどと思われることもあるかもしれない。だが、あなたは心の奥底で、自分には目立った財力や独創性がなく、ひそかに夢見ている権力の高みには手が届かないとわかっている。その結果あなたは、世の中全般に怒りを抱き、周囲の人びとをねたむようになる。
 このたぐいの人は、自分が少数の人びとをそこそこ支配できる穴場に身を沈める。
 (中略)
 あなたは自分の支配下にいる人たちを操作し、いばり散らす。
 (中略)
 あなたは多国籍企業の最高経営責任者にはなれないだろうが、少数の人びとをおびえさせ、おろおろと走りまわらせ、彼らから盗んだり——理想的には——彼らに自分がわるいのだと思われる状況をつくりあげることができる。

p.15
 精神医学の専門家の多くは、良心がほとんどない、ないしまったくない状態を、「反社会性人格障害」と呼んでいる。この矯正不可能な人格異常の存在は、現在アメリカでは人口の約4パーセントと考えられている——つまり25人の1人の割合だ。

p.16-17
一、社会的規範に順応できない
二、人をだます、操作する
三、衝動的である、計画性がない
四、カッとしやすい、攻撃的である
五、自分や他人の身の安全をまったく考えない
六、一貫した無責任さ
七、ほかのひとを傷つけたり虐待したり、ものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない


 ある個人にこれらの“症状”のうち三つがあてはまった場合、精神科医の多くは反社会性人格障害を疑う。
 だが、アメリカ精神医学会の定義は、実際のサイコパシーやソシオパシーではなく、たんなる“犯罪性”を説明するものだと考え、精神病質者(サイコパス)全体に共通するものとして、べつの特徴をつけ加えた研究者や臨床家もいる。そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、口の達者さと表面的な魅力である。
 サイコパスは、それでほかの人びとの目もくもらせる——一種のオーラとかカリスマ性を放つのだ。
 (中略)
 この「サイコパスのカリスマ性」は、オーバーぎみの自尊心をともなうこともあり、最初のうちは相手をおそれ入らせるが、よく知るにつれて、人はうさん臭さを感じたり、失笑したりするようになる。

p.17
 感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

p.20
 およそ25人に1人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、できないことはなにもない人たちが、25人に1人いる。

p.25
重要なのは、ほかの精神病(ナルシシズムもふくめて)の場合は、患者自身が実際にかなり悩んだり苦しんだりするという点だ。サイコパシーだけは当人に不快感がなく、患者が「気に病む」ことのない「病気」だ。
 良心をもたない人は、自分自身と、自分の生活に満足していることが多い。効果的な“治療法”がないのも、まさにそのためかもしれない。

p.76-77
 良心のない人びとは、自分がほかの人よりすぐれていると考えたがる。自分以外の者をお人よしで、間抜けなつまらない人間とみなし、なぜこれほど大勢の人たちが、だいじな野心のために人をあやつろうとしないのか理解できない。あるいは、人間はみなおなじだ——自分と同様、平気で悪事をする——たんに“良心”という絵空ごとを演じているにすぎないと決めつける。そして世の中でごまかしなく正直に生きているのは自分だけだとうそぶく。いんちきな社会で、自分だけが“ほんもの”なのだと。
 とはいえ私は、サイコパスも意識のずっと下のほうで、自分には何かが欠けている、ほかの人たちがもっている何かが自分にはないという、かすかなささやき声が聞こえるのではないかと考えている。というのも、実際にサイコパスたちが「むなしい」とか「うつろだ」と言うのを聞いたことがあるからだ。

p.77
 良心のない人が妬み、ゲームの中で破壊したいと望むのは、良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや、物質的世界ではなく、人間である。サイコパスはほかの人びとにゲームをしかける。

p.123
矛盾するようだが、魅力はサイコパスの大きな特徴だ。良心なき人びとの強烈な魅力やいわく言いがたいカリスマ性については、多くの犠牲者が口にし、学者たちもサイコパスの診断上の特徴として位置づけている。
 私が診療にあたった犠牲者の多くは、サイコパスとつきあいはじめたのも、苦痛をあたえられながら関係をつづけたのも、相手があまりに魅力的だったからだと語った。

p.128
サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。

p.135
サイコパスは“勝つ”こと、支配のための支配を目指して、人びとのあいだでゲームをおこなう。ふつうの人たちは、この動機を頭では理解できても、実際に目にすると、あまりに自分とかけはなれているため、“見すごす”ことが多い。

p.141
 多くの人は、悪しき事件をサイコパスと結びつけて考えたがらない。特定の人間だけが根っからの恥知らずで、ほかの人たちはちがうと認めるのが難しいからだ。それは人間の「影の理論」とでも言うべきもののためだ。影の理論——人はだれもみな、ふつうは表にでない「影の部分」をもっているという考え方である——は、極端に言えば、一人の人間にできることは、すべての人にもできるという主張につながる。(中略)皮肉なことに、善良でやさしい人ほど、この理論の極端な形を受け入れ、自分たちも特殊な状況に置かれたら、大量殺人を犯すかもしれないと考える。

p.171
 サイコパスとちがってナルシシストは心理的に苦痛を負い、セラピーを求めることが多い。ナルシシストが抱える問題の一つは、感情移入の能力を欠いているため、本人の知らないあいだに人との関係がこじれ、見捨てられて困惑し、孤独を感じることだ。愛する相手がいなくなったのを嘆くが、どうすれば取りもどせるかわからない。
 対照的にサイコパスは、ほかの人びとに関心をもたないため、自分が疎外され見捨てられても嘆いたりしない。せいぜい便利な道具がなくなったのを残念に思うくらいのものだ。

p.181
 残された数々の記録を調べると、サイコパスはさまざまな呼び名で、古くから世界各地に存在していたことがわかる。例をあげると、精神医学専門の人類学者ジェーン・M・マーフィーは、イヌイットの“クンランゲタ”について触れている。クンランゲタは、「自分がすべきことを知っていながら、それを実行しない人」を指す言葉だ。アラスカ北西部では、「たとえば、繰り返し嘘をつき、人をだまし、物を盗み、狩りに行かず、ほかの男たちが村を離れているとき、おおぜいの女たちと性交する」男が、クンランゲタと呼ばれた。イヌイットは暗黙のうちに、クンランゲタは治らないと考えていた。そして、マーフィーによれば、イヌイットのあいだでは昔から、こうした男を狩りに誘いだしたあと、だれも見ていない場所で氷の縁から突き落とすのが習わしだったという。

p.181
興味深いことに、東アジアの国々、とくに日本と中国では、かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では、反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて、きわめて低い数字である。


p.183
個人主義と個人支配を強調する社会にくらべて、ある種の文化圏——その多くは東アジア——では、万物のあいだの相互関係が信仰として古来から重んじられている。興味深いことにこの価値観は、きずなにもとづく義務感という、良心の基本ともかさなる。
 (中略)
 他者にたいする義務感を知識として把握することは、良心という強い方向性のある感情をもつこととおなじではない。だが少なくとも、個人主義の社会に生まれたら反社会的行動に走ったかもしれない人間から、社会に反しない行動を引き出すことはできるだろう。


※メモ:もとの論文等をみていないが単なる「社会的望ましさバイアス」の出方の違いかもしれない

p.184-185
 文化圏のちがいを超え、人間社会全体の中で、愛や良心の欠如がプラスの要素、あるいは役に立つ要素とみなされる場合はあるだろうか。
 じつは、一つだけある。犠牲となるのがカエルであろうと人であろうと、サイコパスは悩むことなく相手を殺すことができる。良心なき人びとは、感情をもたない優秀な戦士になれるのだ。
 (中略)
良心なしに行動できる戦士について、デイヴ・グロスマン中佐は『人殺しの心理学』の中でこう書いている。「サイコパス、番犬、戦士、英雄と呼び名はいろいろだが、彼らは存在する。彼らはまさにかぎられた少数派だが、危機が訪れると国家は喉から手がでるほど彼らをほしがる」

p.209
サイコパスの感情は私たちとはまさに異質であり、愛や人間同士の前向きなきずなはまったく体験しない。そのため彼らの人生は、ほかの人びとにたいするはてしない支配ゲームについやされる。

p.210
(良心のない人に対処する13のルール 3)
一回の嘘、一回の約束不履行、一回の責任逃れは、誤解ということもありえる。二回つづいたら、かなりまずい相手かもしれない。だが、三回嘘が重なったら嘘つきの証拠であり、嘘は良心を欠いた行動のかなめだ。つらくても傷の浅いうちに、できるだけ早く逃げ出したほうがいい。


p.214
(良心のない人に対処する13のルール 7)
 人の心をあおるのは、サイコパスの手口だ。サイコパスの挑発にのって、力くらべをしようとか、だしぬこう、心理分析をしよう、あるいはからかってやろうなどと考えないほうがいい。そんなことをすれば、あなた自身が相手のレベルにまで落ちるだけでなく、本当にだいじなこと、つまり自分の身を守ることがおろそかになってしまう。

(良心のない人に対処する13のルール 8)
サイコパスだとわかった相手にたいする唯一効果的な方法は、彼らをあなたの生活から完全にしめだすことだ。サイコパスは社会の約束事と切り離された世界にいるので、彼らを自分の交友関係や社会的つきあいの中に入りこませるのは危険だ。
 まずは、あなら自身の交友関係と社会生活から彼らをしめだすこと。その行動はだれの気持ちも傷つけない。傷ついたふりはするかもしれないが、サイコパスに傷つくという感情はないのだ。

p.254
 良心の足かせをもたない人たちが、権力や富を一時的にせよ獲得することがあるという事実は、否定できない。人間の歴史にはその最初から現在にいたるまで、侵略者、征服者、悪徳領主、帝国の独裁者の記録が数多く残されている。(中略)くわしく記録された彼らの有名な行動を考えると、精神病質的逸脱尺度で調べなくても、人にたいする感情的愛着にもとづく義務感をもたない人物、つまりサイコパスが、かなりまじっていると想像できる。

p.246
 チンギス・ハーンは、サイコパス的な暴君のなかで、残酷で屈辱的な死に方をしなかっためずらしい例だ。彼は1227年に、狩の途中で落馬して死んだ。だが、虐殺や大量のレイプを行った者の多くは、最終的に自殺に追い込まれるか、耐えきれずに怒りを爆発させた人びとの手で殺されている。残虐なローマ皇帝カリギュラは自分の衛兵の一人に暗殺された。ヒトラーはみずから拳銃を口にくわえて発砲し、遺体はガソリンで焼かれたと言われている。ムッソリーニは銃殺され、遺体は広場で逆さに吊られた。ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクと妻のエレナは、1989年に銃殺された。カンボジアのポル・ポトは元部下たちに捕まって二部屋しかない小屋の中で死に、その遺体はごみやゴムタイヤの山と一緒に焼かれた。

p.247
 こうしたわびしい末路の例は、枚挙にいとまがない。想像とは逆に、無慈悲な人間が最終的に人より得をすることはないのだ。

p.248
 彼らが最終的に失墜する理由のひとつは明らかだ。(中略)多くの人を迫害し、略奪し、殺し、レイプすれば、やがて団結して復讐をくわだてる人びとがでてくるだろう。
 (中略)
 だが、失墜にはもっと目立たないほかの理由もある。良心なしに生き続けるサイコパスの心理に、特有の理由だ。
 その第一が、ほかでもない、“退屈”である。


p.249
 サイコパスは、つねに過剰な刺激を求める。スリル中毒とか危険中毒など、中毒という言葉が使われることもある。こうした中毒が起きるのは、刺激への欠乏をおぎなう最良の(おそらく唯一の)方法が、感情的な生活であるためだ。
 多くの心理学の教科書には、覚醒を感情的反応という言葉がほぼおなじ意味で使われている。私たちはほかの人びととの意味のある結びつきや約束ごと、しあわせな瞬間やふしあわせな瞬間から刺激を受けるが、サイコパスにはこの感情的生活がない。人との関係の中でときにつらさやスリルを味わうという、つねに覚醒した状態を彼らは経験することがないのだ。
 電気ショックや大きな音を使った実験で、ふつうは不安感や恐怖に結びつく生理的反応(発汗や動悸など)も、サイコパスの場合はきわめて鈍かった。サイコパスが適切な刺激をえる方法は支配ゲームしかないが、ゲームはすぐに新鮮味を失ってつまらなくなる。麻薬とおなじく、ゲームをしだいに大きく刺激的にしながら、ひたすらつづけるしかないのだが、サイコパスの資力と才能しだいで、それも不可能になる。というわけで、サイコパスには退屈の苦痛がつねにつきまとう。
 化学的な手段で退屈を一時的に弱めようとするため、サイコパスはアルコールや麻薬の力に頼りがちになる。

p.252-253
ふつうの人たちにとって、しあわせは愛すること、より高い価値観にしたがって人生を生きること、そしてほどほどに自分に満足することから生まれる。サイコパスは愛することができず、基本的に高い価値観をもっていないし、ほとんどつねに自分自身に満足しない。彼らは愛も道徳ももたず、慢性的に退屈している。富と権力を手にしたひと握りの者たちにさえそれが言える。
 彼らが自分自身に満足しないのは、退屈以外にも原因がある。サイコパスは完全に自己中心なため、身体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラやリシン〔トウゴマに含まれる毒性アルブミン〕にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。
 (中略)
 健康状態について強迫観念に襲われたサイコパスの、史上もっとも有名な例がアドルフ・ヒトラーだろう。彼は生涯にわたって癌の恐怖にとりつかれた。

p.254
サイコパスは、仕事をさぼる言いわけに、心気症を使うこともある。元気そうに見えた一瞬後、勘定を払ったり、職探しをしたり、友人の引っ越しを手伝うなどという段になると、急に胸が痛くなったり、足が動かなくなったりするのだ。
(中略)
 一般的に彼らは努力をつづけることや、組織的に計画された仕事はいやがる。現実世界で手っとり早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。毎朝早くから職場にかよって長時間働くことなど、ほとんど考えない。サイコパスはすぐにできる計画や一回勝負、効率のいい奇襲作戦のほうがはるかに好きだ。サイコパスが職場で責任ある地位に就いていたとしても、その地位は実際に仕事をした(あるいはしていない)量が判断しにくいポストであったり、実作業は自分が操作した人たちにさせている場合が多い。
 そんな場合、利口なサイコパスはときどき派手なパフォーマンスをしたり、お世辞や魅力を振りまいたり、脅したりすることで、ものごとを進行させていく。自分を不在がちな上司やすご腕の上司、あるいはなみはずれた“神経質な天才”に見せかける。ひんぱんに休暇や休み時間をとるが、その間実際になにをしているかは謎である。

p.256
サイコパシーのように周囲の人びとを操作するスリルにとりつかれると、ほかのすべての目標が見えなくなり、結果として性格はことなるものの「生活の破綻」が、鬱病や慢性不安や妄想症などの精神病とおなじほど深刻になる。そしてサイコパスの感情的破綻には、彼らに感情的知能がまったくないことが見てとれる。つまり人間の世界で生きていくうえでかけがえのない指標、人の心の動きを理解する能力が欠けているのだ。

*1:この種の本によくあるパターンだが、実例をそのまま掲載するのではなく、合成したりして個別のケースが特定できないようにしている。

大阪都構想の住民投票で明らかになったのは「シルバーデモクラシーの威力」ではなく「若者の浅はかさ」

都構想を誤解している人たち

 いわゆる大阪都構想についての住民投票*1で反対が多数となり、都構想はめでたく否決されたわけだが、年代別賛否割合のグラフをみて「若者は賛成多数だったのに70代以上の老人の反対が多かったせいで、改革が妨害された」と論じる「シルバーデモクラシー」論が登場して話題になっている。

若者は新しいものを好み、老人は古きを大事にします。
長く生きた人がその環境に愛着を持ち、変化を嫌うのは仕方のないことです。
少子高齢化が頂点にまで達した社会で、20年後、30年後のために変化を受け入れるのはこれほどまでに難しいものなのかと、改めてこの身に痛感せずにはいられません。
(略)
20代・30代・40代の将来世代を担う若者たちは明確に変化を望み、リスクを取ってでも挑戦しようとする意志をしっかりと表明しました。


シルバーデモクラシーに敗れた大阪都構想に、それでも私は希望の灯を見たい


 あまりにも表面的な文章で寒気がしてくるが、似たようなことを言っている人はTwitterやFacebookでも身近に散見された。これらの言説は、都構想が「そこそこまともな改革案」であるという前提で主張されているのだろうが、本エントリでは、そもそも都構想はまともな中身のない改革案だったのであり、シルバーデモクラシー論の当否を論ずること自体が無駄であるということを述べる。


 住民投票で賛否が拮抗したから、それまで都構想に大して関心を持っていなかった人たちがにわかにしたり顔で論じ始め、なんか「そこそこまともな改革案が、大胆さのあまり否決されてしまった」みたいな扱いになっているのだが、その認識がそもそもおかしい。
 まず今回住民投票にかけられたのは、大阪の、そして関西の中心都市である「大阪市」を解体すべきかどうかということ“のみ”であって、成長戦略や住民サービスの改善案の是非などではないのだが、そのことすら理解されてないのではないか。「前向きで大胆な改革派」vs「後ろ向きで慎重な守旧派」の戦いなどでは全くない。反対派は、大阪市という中心都市を維持した上での改革案を対案として提示しており、要するに「改革を進める上で大阪市をつぶす必要などない」と主張しているのである。


 しかもあの賛否拮抗は、橋下市長や維新の会が、

  • 住民投票に進むこと自体がいったん議会で否決されたのに、衆院選で公明党を全力で妨害すると脅し(参考リンク)、後に公明党と裏取引を行って何とか住民投票に持ち込んだ。
  • 住民投票に向けて、自民党と比較しても約10倍の宣伝費を投入。ちなみに原資は我々の血税である維新の党への政党交付金。(参考リンク
  • 反対派の識者を出演させないようテレビ局に圧力をかけた。これについては弁護士会有志が非難声明を出している。(参考リンク
  • 「今回可決されると、大阪市そのものが廃止される」という重要な事実すら隠蔽すべく投票用紙にまで細工をした。(参考リンク
  • 投票所に維新の会の運動員を立たせ、「大阪市はなくなりません」などというウソを喋らせていた。(参考リンク
  • タウンミーティング(住民への演説会)ではグラフの目盛の間隔を途中から変えるなど、信じがたい捏造を行って印象操作を行っていた。(参考リンク


 ・・・といったことまで行って、やっとあの数字だったのだ。さらに、「都構想はどうでもいいけど、憲法改正を発議する際に維新の党には協力してもらいたい」と考えている安倍首相・菅官房長官のバックアップまであって(安倍・菅が都構想に理解を示しており、反対派の中心になるはずの自民党大阪府連が党本部からの支援を受けられない状態)、ようやく「賛否拮抗」まで持ち込めたという話なのである。
 そんな経緯も知らずに、なんか投票結果が賛否拮抗しててすごかったという興奮だけをモチベーションに、したり顔でシルバーデモクラシーがどうのこうのという妙な議論をする連中が登場しているのが今の状況である。

「シルバーデモクラシー」論争

 シルバーデモクラシー論への反論記事もたくさん出ており、ちょっとした論争になっているようだ。


 「そもそも信頼できるデータなのか?」という疑問の声(参考リンク)もあって、そりゃそうなのだが、いったん考えないことにしてあの賛否割合のグラフがイメージとしてだいたい正しいということにして話を進める。*2
 主たる反論は、「言うほど老人がマジョリティなわけじゃないよ」という事実の指摘だ。

60歳代より30歳代の人口の方が多かったり、50歳代より20歳代の人口の方が多かったりして、そんな単純な少子高齢化の逆ピラミッドになっているわけじゃないことが分かります。
(略)
40代までを若い世代に入れてしまうとすると、70歳以上の2.3倍も若い世代の人口の方が多いのです。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150518-00045839/

40代までとそれ以上の人口比がほぼ半々なのであれば、賛成派が負けた原因はワカモノの低い投票率以外に無い。人口比で負けたのならばシルバーデモクラシーという指摘は正しいが、投票率で負けたのなら、それは単に民意が反映されたと考えるべきだ。投票に行かない人は「どんな結果が出ても従います」という意見表明をしている事になるからだ。


橋下市長の敗因が「シルバーデモクラシー」ではない件について。


 また、こういう論評もあった。

「シルバー民主主義」「若者の敗北」と評論する向きもあるようですが、大阪市の解体が若年層を利するものとは言えないはずで、評価としては単純すぎる気がします。20代の反対が30代より多いことの説明も的確に出来ないように思います。筆者の体験からしても、子供を持ち、育て、定住して地域につながりを持ち、自らも老いていく中で、地方行政との関わりが強くなっていくので、今回の課題で年齢が上がるほど反対票が増えるのはそれほど不可思議なことではないと思います。一言で言えば、学校を卒業した後、地域に根を張り始める前の若年層は地方自治との利害関係が薄いのです。


大阪の住民投票結果から見えるもの(渡辺輝人) - 個人 - Yahoo!ニュース


 個人的には、↑こういう評価が適切であるように思う。男性より女性のほうが反対に傾いていたのも、子育てなどで自治体との関わりが深いからじゃないかな。
 都構想そのものは、若者も老人も関係なくて、たんに大阪市を解体するかどうかが問われたものだ。若年・壮年の男性は、自治体の世話になっているという感覚がそもそもあまりないので、「とりあえずぶっ壊してみよう」という威勢の良い改革案にノリだけで賛成してしまうのだろう。


 冒頭の「シルバーデモクラシー」の記事を書いた東京都議は、わけのわからない反論を書いた上で、しつこく老人をdisっている。

しかし私は、他のすべての世代の投票結果で過半数を得た意見が70代以上の投票で覆された事実は「シルバーデモクラシー」と言うべきものであり、まずはこの現実を受け止めて危機感を強めるべきだと考えます
(略)
世代別投票制度や、子育て世代に倍の票数を与える調整システムは真剣に導入を検討しても良い時期にきたと思っています。


「投票に行かない若者が悪いだけ」という言説の恐ろしさ | 東京都議会議員 おときた駿 公式サイト


 もうとにかく高齢者のニーズが強く反映されること自体が嫌だということらしい。都構想が可決されたところで若者にとって有利な何かが進むという話では全くないという事実や、真面目に検討した結果反対票を投じた若者の存在や、老人だって後続世代の幸せを考えているという可能性は無視することにしているのだろうか。

そもそも「老人の反対が多かった」わけではない

 しかし私の場合はそもそも、今回の結果をみて「老人の反対が多かった」と解釈すること自体が一種の偏見であると思っており、逆に「若者の賛成が多過ぎだろ」と感じているので、「なぜこんなにもたくさんの若者が、維新の会に騙されてしまったんだろう」というのが気になっている。
 都構想はろくな中身のない政策なので、高齢者の利害が優先されたのかとか、若者の投票率が低すぎたのかとか、そんなことを議論すること自体が的はずれなのである。


 「シルバーデモクラシー」論を言っている人は要するに、都構想はそれなりに真っ当な改革案であり、賛否5分5分ぐらいであって然るべき、もしくは賛成多数であって然るべきという前提で考えてるんだろう。だからこそ「老人の反対が多すぎた」という見方になるわけである。
 まぁ、住民投票の結果がニュースに出た後でにわかに都構想について述べ始めた人は、都構想そのものに関しては特に意見も知識もないというのが本当のところではあると思う。「なんか大胆な改革が提案されているらしい」ぐらいのイメージだけを持っており、高齢世代で反対が多かったという出口調査結果のグラフが目に飛び込んできたのでとりあえず「老害が〜!」と叫びたくなっただけだろう。
 ただ、そうだとしても、「高齢世代の反対が多かった=老害が改革を妨害した」という構図で物事を見ているということは、都構想は最低でも賛否5分5分にはなっていいはずの改革であるということが前提されているはずだ。


 一方、「都構想などは馬鹿げた政策であり、否決されて当然」という立場からすれば、「高齢世代の反対が多かった」のではなくて「若者世代の賛成が意外に多かった」という見方になる。
 こんなことを言っても屁理屈のように思われるのは分かっているのだが、世の中には「ヘンな改革案」なんてたくさんある。ビジネスマンなら、ふだんの仕事で「ヘンな提案」を山ほどみているはずだし、ヘンなものが“大真面目に”提案されるのも珍しいことではないと分かるだろう。べつに50:50を基準に考える必要はないし、「あれだけ声高に主張してるんだから、ある程度真っ当な提案なのだろう」と考える必要もないのである。
 例えばの話だが、仮に「市長の弁舌に乗せられる人が3割ぐらいはいるだろうな」と考えれば、賛成30:反対70ぐらいで否決されるのが標準ラインになるわけで、今回の結果は「おー、若者が意外にたくさん騙されたんだな」という見方になる。

都構想はまともな改革案ではない

 実際私は、それに近い感想を持っている。とにかく都構想の中身が、ろくでもない代物だったからだ。


 都構想のメリットとして当初は「二重行政の解消で毎年4000億円の財政効果が!」と叫ばれていたわけだが、実は二重行政と関係ない数字が大量に盛られていたことが判明し、精査したら2億円ぐらいの効果しかないことが明らかになった。(財政学者・森裕之教授の資料によれば、本来的な「二重行政」はせいぜい3億円、うち大阪市分は2億とのこと。共産党は9億円、他の野党は1億円と試算。)
 逆に、初期費用が600億円も必要になるので元を取るのに数百年かかる計算になって、橋下市長もしまいには「僕の価値観は財政効果には置いていない」などと言い出す始末だった(リンク)。
 もうこれだけでも、「否決されるのが当たり前」を基準に考えてよい理由になるんじゃないだろうか。


 また常識的にも、「大阪市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、大阪府に移譲すれば、ワン大阪が発展する!」などというのは、そもそも発想からしておかしいと感じるのが正常なのではないか。反対派の藤井氏も指摘していたが、


「横浜市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、神奈川県に移譲すれば、ワン神奈川が発展する!」
「名古屋市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、愛知県に移譲すれば、ワン愛知が発展する!」
「神戸市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、兵庫県に移譲すれば、ワン兵庫が発展する!」


 とか言われてもふつうは信じないだろう。大阪は府と市の名前が一緒だからイメージがごっちゃになってるだけであって、「横浜」「名古屋」「神戸」というブランド都市が消滅するようなもんだと思えばハッキリおかしいと分かる。少なくとも、「えっそんなことあり得る?」と疑問を持つのが普通の感覚じゃないだろうか。
 もちろん、豊かな都心部からそうでもない周辺部への再分配のような政策に意味がないとは思わないし、過度な一極集中は害があると思うが、全体の成長のためにエンジンとなる中心都市が必要だというのを否定する人は少ないと思う。*3


 そもそも政令指定都市制度というのは、大都市の自律的な発展を、道府県に邪魔させないために作られた制度だ。もともとは「特別市」という、道府県と同レベルの権限を与える構想があったのだが(韓国のソウル市みたいなもん)、府県の反対によって実現せず、折衷案として都道府県の権限を完全にではないがある程度担う政令指定都市制度に落ち着いた。横浜市なんかは今も「特別自治市」構想を掲げて大綱まで作っており(参考リンク)、国でも検討が行われている(参考リンク)。
 東京の23特別区だって、過去には「東京都に権限を奪われすぎたので自治権を回復しなければ!」という闘争を長い間行っていて、その結果として区長の公選制というのが実現したわけだし、未だに(自治体としては権限が不十分な)特別区を市に再編すべきだと主張する人たちも存在する。
 「自治権の拡大」を目指す運動は理解可能だ。しかし都構想のようにわざわざ「自治権を放棄」すべく大阪市民が投票所に足を運ぶというのは、全く意味が分からない*4

真面目に分析するのも馬鹿らしい

 まぁ、結論としてすでに否決されたわけで、今さら反対論を整理する必要もなく、都構想というのは特にメリットのない変な政策であったということだけ確認しておけばよい。
 で、なんでそんな政策が住民投票にかけられるに至ったかといえば、維新の会が「提案してみたものの、ツッコミどころがありすぎて早晩頓挫しそうだから、何とかイメージ戦略だけで勢いを保てる今のうちに多数決に持ち込んでおこう」と焦ったんじゃないかと想像している。
 実際、橋下市長は該当演説でも「都構想のメリット」を謳うことがだんだん少なくなっていって、最終的には都構想の中身(協定書)と全然関係ない既得権批判や、反対派の悪口を主に叫んでいただけという印象だ。


 ・・・最初の話題に戻ると、要は今回は「これだけ杜撰な改革案なのだから、否決されて当然」と思っておけばいいし、否決されて当然な改革案がまじめに提案されるのも別に珍しいことではないよなと、冷静に構えていればいいわけである。
 そして、そういう視点から見れば「老人の反対票が多かった」などということはなく、むしろ「若者の賛成票が多過ぎたせいで接戦になってしまった」という評価になるわけで、「シルバーデモクラシーが改革を妨害した」というよりは、「馬鹿な若者にあやうく大切な街を破壊されるところだった」という感じなのだ。だって、まともな改革案じゃなかったんだから。


 それに最初にも言ったように、都構想はべつに若者に有利な政策でもなんでもない。たんに大阪市という自治のシステムをぶっ壊してみましょうという話であり、若者だからどうこうという話ではないのである。つまり今回の住民投票では、特定世代の「利害得失」なんか判断基準になり得ないはずであり、要は「雰囲気をみて面白そうだったので、ノリで賛成した人々」vs「雰囲気程度では今あるシステムを壊す気にはなれない、と反対した人々」の戦いだったのだ。
 世代間の利害対立がどうのこうのなんて真面目に分析するような出来事ではなかったのである。もちろん、「威勢のいい提案に騙されやすい若者のノリ」と「騙されにくい老人のノリ」を比較したければしてもいいと思うが、意味のある議論になるかは疑問だ。


 書くのが面倒になってきたので、自分のツイートをその前後を含めて貼り付けて終わりにしておきます。





*1:あくまで今回の住民投票は、維新の会が掲げる「都構想」そのものではなく特別区設置協定書についての賛否投票であり、単に大阪市を廃止し、5つの特別区を設置して財源・権限・資産を大阪府と特別区に振り分けることについての賛否が問われたのだが、本エントリではこの協定書が謳う作業の範囲を都構想と呼んで話を進める。

*2:確かメディアが共同で実施していた出口調査はサンプル2700人ぐらいだったと思う。サンプルサイズというよりは無作為化がどれだけできているかのほうが気になるが。

*3:ちなみに、横浜市と神奈川県、名古屋市と愛知県、大阪市と大阪府、神戸市と兵庫県はいずれも人口の比が似ていて、これらの市は中心都市とはいえ府県の人口の3〜4割をカバーするに過ぎない。旧東京市に当たる東京23区の人口は東京都の人口の7割を占めているのとは対照的だ。だから、これらの都市の財源と権限を都道府県に移譲するという改革は、やはり「成長のエンジンを解体する」というイメージになる。

*4:周辺自治体の市民が賛成するのはまだ分かる。

「トップセールス」って英語で何ていうのか?

 ビジネス用語の話なんてべつにこのブログに書きたいわけではないのですが、日本語のサイトで調べても適切な情報が見つからなかったので、ちょっとググってみた結果をメモしておきます。将来誰かの役に立つかもしれないのでw
 
 
 「トップセールス」という言葉はよく聞きますが、これは和製英語らしいです。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2009/05/27/%E3%80%8E%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%A0%82%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%80%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81-%E3%81%9D%E3%81%AE69/


英語の辞書にもなく、どうやら和製英語のようです。イギリスからの留学生に尋ねると、「知らないことばです。いちばんよく売れる商品のことでしょうか?」という答えでした。

 
 日本語では、

 
 ① 社長などの偉い人が、客の社長などの偉い人に対して直接売り込むこと
 ② 首相が外国に日本製品を売り込みにいくこと(経産省が推進してる)
 ③ 業績がトップクラスのセールスマン
 
 
 と3通りの使い方があるようです。一般にビジネスマンがよく耳にするのは①だと思います。私は③の用法をリアルで聞いたことはないですが、英語としてもし「top sales」という言い方があるのであれば、③の意味が一番あり得そうな気はしますね。
 
 
 http://timhappydream.com/554.html
 このページをみると、「top management sale」「executive sale」と言うのだと書いてありますが、これもあやしいですね。ググっても全然出てきません。
 
 
 ちなみに経産省は、首相によるトップセールスを「Top-level sales」と訳していました。
 http://www.meti.go.jp/english/report/downloadfiles/2014WhitePaper/3-2-3.pdf
 
 
 しかしそもそも、売り込み行為のことを「○○sales」って言うことあるんですかね?
 営業部をsales divisionと言ったり、営業活動をsales activitiesと言ったりはするし、salesmenといった単語はもちろんあるわけですが、具体的な売り込み行為というよりは抽象的な意味での「販売」を意味する気がします。売上のことをsalesって言ったりしますしね。
 
 
 Top-level sellingという言い方は見つかりました。

 
Top Level Selling -Selling on Management Level
Partners Group - Top Level Selling & Negociating Skills


 「sales pointという英語はない、selling pointだ!」というビジネス英会話の定番ネタとは用法が違いますが、たしかにsellの方が売り込みという感じがします。
 しかし内容的に、「社長が社長に」みたいなケースのことを指しているのかは不明で、より広く「相手方のトップ層と交渉すること」ぐらいの意味で言ってるような気もしますね。よく分かりません。
 
 
 もう少し調べると、「Top-to-Top」という言い方が見つかりまして、このほうがしっくり来るように思います。
 
 

http://www.proz.com/kudoz/english_to_spanish/business_commerce_general/4464280-top_to_top_presentation.html


Explanation:
"top-to-top: adj. Of or relating to a sales strategy in which a top executive from one company sells directly to a top executive from another company.

http://www.sellingpower.com/content/article/?a=4984/is-bigger-better


Small companies should also consider another tool for improving major account management. "Another option is to improve your Top-to-Top selling," Tice argues. "Top-to-Top" means your CEO selling to the buyer's CEO. But it needs careful controls to be effective and manageable.

 
 
 意味的にはドンピシャで上記①の意味ですね。
 ググってもすごくたくさん用例があったわけではないのですが、とりあえずトップセールスを英訳する必要があるときは、top-to-top sellingにしとこうかなとは思いました。
 しかし私は英語でのビジネス経験があるわけではないので、正しいかどうかは全然わかりません。間違い等あればご指摘いただけると助かります。
 あとで気が向いたら海外の質問サイトとかLang-8とかで質問しておこうと思います。

JASRACからペギー葉山「南国土佐を後にして」の歌詞の削除要請があった

 はてなから1月7日に次のようなメールがきてました。

こちらははてなサポート窓口です
 
このたび、midnightseminar 様のサービスご利用において、歌詞の無断転載が行われており、著作権侵害に相当するとして、著作権管理団体であるJASRAC(一般社団法人日本音楽著作権協会)より削除要請がありました。
 
今回、削除要請の対象となっているURLおよび楽曲は下記の通りです。
 
 --------------------------
 URL:http://kawabata.hatenablog.com/
 楽曲コード:5903289
 楽曲名:南国土佐を後にして
 --------------------------
 
 楽曲が複数の場合、それぞれメールを送信しておりますので、あわせてご確認下さい。
 つきましては、掲載されている箇所をご確認の上、削除を行ってください。
 掲載箇所がわからない場合、当該URLを楽曲タイトル、歌詞の一部などで検索していただくことで確認が可能です。
 また、要請に先立ってJASRACの行った調査のタイミングにより、現在は削除されている記事、楽曲に対して要請が行われることや、同じ楽曲について重複して指摘されることがあります。
 その際には、本メールは破棄していただければ幸いです。
 もし、すでに転載の許諾を受けているなど、歌詞の掲載が著作権侵害に相当しないとお考えの場合には、恐れ入りますが、その旨ご返信ください。 
 尚、特に理由なく本通知より1週間以内に削除を行っていただけない場合、事前および事後のお知らせなく、ご利用のブログを非公開とさせていただくことになります。あらかじめご了承ください。
 はてな利用規約では、第6条にて「著作権、特許権等の知的財産権を侵害する行為」を禁じており、また、第5条においては「他人の権利を侵害した場合、当該ユーザーは自身の責任と費用において解決しなければならない」と定めております。
 また、特に、著作権侵害については実際に損害賠償や、掲載された期間に応じた利用料の請求対象となる場合が増えております。
 今後のご利用においては、十分ご注意いただきますようお願いいたします。


 該当のエントリはこちらで、歌詞は削除しました。
 南国土佐を後にして - The Midnight Seminar


 メールが来てから1週間以内に削除しないとブログが停止されるという、けっこう厳しいルールですね。1週間ではメールに気づかないことも普通にありそうなので、はてなのお知らせ機能で通知して欲しいところです。
 ちなみにエントリの内容は、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」っていう有名な歌があって、東京でも高知料理を出す居酒屋とかに行くとかかってたりする定番ソングなんですが、この歌はもともとは高知出身の歩兵部隊の部隊歌だったらしい……という話でした。


 YouTubeでも数年前から、動画の中に音楽のデータが入っていると自動で検出されて動画が削除されるようになりましたね。最近は、権利侵害の疑いがありますが異議申立てしたい場合はしてくださいというメッセージが来るようになっております。
 こないだは、YouTubeに非公開設定でアップした動画の中に、4歳の姪が大阪の「ひらかたパーク」という遊園地内で遊んでいる場面があり、その遊園地内のスピーカーから流れていた「Let It Go」が自動検出されて「権利侵害です」という連絡がきました。


 で、べつに何のこだわりもないのですぐ削除すればよかったんですが、「ビデオ撮ってたら勝手に屋外のスピーカーから流れてきただけやん」と思い、一応Yahoo!知恵袋で質問してみた(質問へのリンク)ところ、それは「付随対象著作物」ってやつに当たり著作権の行使が制限されているらしいので、その旨を「異議申立て」して返信待ちです。
 

 著作権の保護は大事だと思っているので、侵害しないように気をつけたいと思います。


 【2015.2.10 追記】
 YouTubeへの異議申し立てが認められたようで、YouTubeから「お客様の異議申し立てを確認した後、WMG and UMG さんは YouTube 動画への著作権侵害の申し立てを取りやめるとの結論に達しました。ただし、この動画にはその他の著作権侵害の申し立てが存在する可能性があります。」というメールが来てました。
 ただ、YouTubeのサイトのほうにアクセスしてステータスを確認したら、異議申立てが拒否された状態になっていたので、よくわかりませんが……。

機能的財政と完全雇用——ラーナーの今日的教訓(M. Forstater, 1999)

 昨日読んだ、「機能的財政論」「消費増税は日本の未来に役立つのか」といったコラムに機能的財政論という言葉が出てきていて、以前中野さんの本の中で読んだことはあったけどよく知らないのでググってみたら、M. Forstater(1999). Functional Finance and Full Employment: Lessons from Lerner for Today?というワーキングペーパーがあったので、見出しだけ訳しておいた。ちなみに見出し以外はほとんど読んでないし適当に訳してるので正確かどうかは知りませんw
※のところは私のメモです。

教訓1:完全雇用、物価の安定、そしてそこそこの生活水準を全ての国民に提供すること。それがマクロ経済の根本的な目標であり、国家にはそれの達成に向けて努力する責任がある。


教訓2:政策は、それがそのためにデザインされているところの目標を達成する能力によって評価されるべきであって、それが健全であるかどうかや、あるいは伝統的な経済学のドグマに合致しているかどうかといった観念によって評価されるべきではない。


教訓3:貨幣は、国家による創造物(a creature of the state)である。
※思い通りになるというような意味が込められているのかな。


教訓4:課税とは、「資金調達行為」ではない。
※何かに対する支払いの必要から税金を集めるのではなく、あくまで完全雇用や価格の安定などのマクロ経済的な目的のための調整手段であるというような意味。ここが一番、ふつうの直感に反する議論であり、また機能的財政論というやつの特徴なんだろうと思う。


教訓5:政府の借金も、「資金調達行為」ではない。


教訓6:課税の第一の目的は、国民の行動に影響を与える(変容させる)ことである。


教訓7:国債発行の第一の目的は、短期金利(翌日物金利)を規制(制御)することである。


教訓8:国債発行は、論理的には、政府支出に先立つものというよりはむしろその帰結である。


教訓9:貨幣を刷ることそれ自体は、経済に対して何のインパクトも持たない。


教訓10:完全雇用政策がなければ、社会は、労働を節約する技術的進歩から利益を得ることはできない。つまり、効率性が非効率性になるのだ。完全雇用政策があれば、そういう技術的進歩は、社会にとって真に有益なものとなる。


教訓11:完全雇用政策がなければ、国は、貿易収支の問題に苦労するだろう。完全雇用政策があれば、輸入超過を心配する必要はない。


教訓12:赤字や負債について、「見栄えほど大変な額ではない」とか、「指標を変えれば、あるいはバランスシート全体でみれば大した問題ではない」とかいう議論を試みるのは、反生産的だ。
※そんな言い訳をしなければならないと思うこと自体が間違っているということかな。


教訓13:失業がある状態というのは、資源や材が希少なのではなく、仕事と貨幣が希少なのである。


教訓14:機能的財政は「政策」ではない。それは、あらゆる政策がその中で実施される「フレームワーク」なのだ。


教訓15:完全雇用を実現するためには、財政支出は、雇用の直接的な創出を含まなければならないだろう。


結論:ラーナーの機能的財政や完全雇用に関する研究は、50年前に始めて提唱されたときと同じように、現代においても重要な意味がある。オーソドックスな理論や政策が、危機の原因の説明にも効果的な政策的対処としても役に立っていない時は、こうした考え方や、あるいはその他の過去の偉大な思想家たちの考え方を見直してみるといいだろう。彼らの研究からは懐古趣味以上のものが得られるし、現在の状況分析やマクロ経済政策の策定にも有益な教訓を含んでいるものである。


 まぁ要するに、財政というのは、家計のサイフみたいに「◯◯に●●円ぐらいかかるから、貯金しとかないと」みたいなものとは全然違って、経済活動を方向付けたり調節したりするための触媒みたいなもんでしょみたいな話だろう。

選挙に行くほうが馬鹿かもしれないし、一票の格差に目くじらを立てなくてもいいかもしれない

選挙に行く奴のほうが馬鹿であるとも言える

 昨日ネットをみていたら、


 選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由
 

 という記事が話題になっていた。この記事には共感できる部分もあって、3番で言われているように「『なんだかよく分からない』ことに対して何もしない」のは確かに良くないし、5番で言われているように「斜に構えているのが格好良いと思っている」奴はたしかに私も嫌いだ。


 しかし、たとえば「彼が『どこに入れても同じだよね』と言っていたら、彼は日本語を読む能力が欠けている」という部分とか、「選挙を放棄するということは、君にも君たちの子どもの将来にも、本気では関心ないよ」という部分は、論理的に間違っていると思う。


 筆者はそもそも、「あなたの彼氏が選挙に行かない理由」として5つのパターンしか挙げていない。

  1. 「面倒くさい」
  2. 「どこに入れても同じ」(政党間に差がないという意味)
  3. 「なんだかよく分からない」
  4. 「その日用事ある」
  5. 「政治家信頼していない」


 の5つなのだが、政治学では古典的な議論として、「有権者が何万人もいると、自分の1票が勝敗を左右することはあり得ないから」という理由が挙げられている。私は大学生のころ政治学を専攻していて、べつに頑張って勉強した覚えはないので記憶が曖昧なのだが、たしか選挙制度論の入門的な講義の最初の回で教授が、「選挙に行っても、自分の1票は何の効果も持たないのだから、投票率が低いことは政治学者にとってなんら不思議ではない。むしろ、1票を投じても何ら政治に影響を及ぼさないのに、なぜ人々は投票に行くのかというのを説明するほうが、非常に難しいのだ」としゃべっていた。
 ネット上でも、よくみたら社会学者の文章だったが、「合理的個人はなぜ投票するのか」という資料を読むことができる。


 「自分以外の人々がたくさん投票する」という前提が動かない限り、自分の1票で勝敗が左右されることがほぼあり得ないということは、それこそ小学生でも理解できる自明の理屈だ。自分以外の何十万人という有権者の票が綺麗に割れている場合にのみ、「自分の1票」が勝敗を決すると言えるわけなのだが、そんなことはほぼあり得ないといって良い。自分が投票してもしなくても、誰が勝つかは決まってしまうのが現状なのだ。
 そのことを踏まえれば、「どこに入れても同じ」というのはある意味正しい(上の記事の筆者は「政党間に差が無い」という意味で言ってるので別の話なのだが)し、子どもたちの将来に関心があるかどうかと投票にいくかどうかは全く関係がない。むしろ、投票にいく時間を潰して子どもと遊んだり何かを教えてあげたりするほうが、個人の行動としては明らかに合理的だ。
 

 だからある意味では、選挙に行っている人たちのほうが馬鹿であるとも言えるんじゃないだろうか。毎回投票に行っている人というのは、「何の効果もないことが明らかなのに、周りの雰囲気に流されて行動してしまう、頭の弱い人」だとも言えるのだから。
 「選挙に行かないような奴には、モノを言う資格はない」みたいなセリフが好きな人は多いのだが、投票に行っても何の効果もないということを忘れて偉そうなことを言うのはやめたほうがいいだろう。 
 

 しかしこの話をすると、だいたいの人は不快感を覚えるようだ(と知ってて煽るように書いてる面もある)。というか、ムキになって怒り出す人もけっこう多い。自分が毎回選挙に行っているのを馬鹿にされたように感じるからだろう。そしてそういう人と話していると突然、「みんなが投票に行かなくなったら民主主義が破綻して〜」というような議論に発展するのだが、ちょっと待って欲しい。
 まず、「自分自身が投票に行くのが合理的かどうか」という話と、「多くの国民が投票する社会が望ましいかどうか」は別の問題だ。それに、みんなが投票に行かなくなったら、自分の1票が持つ価値が増すということなのだから、そのときは張り切って投票に行けばいい。たとえば10人ぐらいしか投票しない選挙であれば、けっこう投票し甲斐があると思う。
 
 
 私はべつに、投票に行くべきではないと言いたいわけでもない。「自分の頭では深く考えず、周りに流されて投票所に行く」のに似た様々な慣習的行為の積み重ねによって社会は成り立っているもので、1人1人がいちいち合理性を考えて行動することが社会全体に善をもたらすわけでもないと思うからだ。
 ただ、冒頭の記事のような安易なモノ言いはどうしても受け入れられない。論理的に間違った理由で、投票にいくことを正当化しようとしているからだ。
 先ほどリンクを貼った論文でも議論されていたように、投票にいく(べき)理由というのは、何かあるとしてももっと説明が難しいものであるはずである。
 
 

一票の格差に目くじらを立てなくてもいい

 ところで「一票の格差」問題というのがある。これも以前から気持ち悪いと思っていて、エントリを起こしたこともある。簡単にいうと、別に一票の格差を是正することに反対するつもりはないのだが、一票の格差を「不公平である」とか「民主主義の原理に反する」といった言い方で批判している人はちょっと物事を誇張しすぎなんじゃないかということだ。
 
 
 しょうもない点から言っておくと、先程も述べたように、有権者が何十万人もいれば「1票」の重みはほぼゼロということになるので、ほぼゼロであるもの同士を比べて1.5倍とか2倍とか議論されても、個人の立場からはあまり実感が湧かない。べつに5倍の格差があったところで、個人にとっては怒る理由がそもそもない。


 で、1票格差問題を論じている人というのは、要するに農村部の老人たちの選好が過剰に国政に反映されているのではないかということを問題にしているわけなので、だったらそのことをストレートに言い続ければいいと思う。若者が多い都市部の選好をもっと国政に反映させるために、逆差別的に東京とか神奈川の1票の価値を農村の2倍にするという議論をしたっていいはずだ(2倍は違憲ということになってるけど)。私自身は、農村の老人よりも都市部の若者の選好を重視したほうがいいのかどうかは、よくわからないが。


 そういう議論をあまりしないで、ひたすら「平等」という観点からのみ論じるのは、なんというか、単なる綺麗事に聞こえてしまう。
 ちなみにこの問題については、最近、マル激の動画で触れられていた。



一票の格差問題を残したまま解散総選挙でいいのか - YouTube

 
 この動画の中では、政治学者の山本達也氏が、非常に正確なことを言っている。

 

山本 憲法上、差異がもし許容される範囲内なのであれば、もし国民のコンセンサスがあるならば、たとえば若者により多くの票の重みを持たせようっていうふうに、政治的なコンセンサスがあれば、そこにあえて、法の下の平等というか違憲判決にならない状態の範囲内であれば、厚みを持たせるってこともあり得る。(中略)この話っていうのは、古くに自民党が、区割りをつくって、自分のところに有利にしてっていう話になってくるんだけど、これももし仮に、日本という国は農村部をとっても大切にするっていうコンセンサスが全日本的にあって、それだったらいいんだけれども、ま、経緯としてはそういう経緯ではない。


 まぁそういうことなのだ。


 あと、「平等」にこだわると厄介な問題もあって、以前のエントリでも書いたのだが、有力な政治家が立候補する選挙区と、そうではない選挙区では、当然有権者1人の票の重みは変わってくる。新人候補を1人選出することと、元総理を1人選出すること(あるいは落とすこと)にはえらい違いがあるでしょ。
 そう考えると、もし平等主義を強調するのであれば、地域によって選べる政治家が異なるということ自体が問題ともいえるので、全国区の選挙だけをやれみたいな話にもなってくるかも知れない。
 
 

結局何が大事なのか

 さてここまで、「投票に行くこと」とか「一票の格差を是正すること」について、無意味であるみたいな書き方をしてしまっているのだが、私はそれぞれに反対しているわけではない。私が言いたいのは、もっと大事なことが、「清き一票原理主義」みたいなものに覆い隠されてしまってはいないかということだ。


 上述のような議論の乱れは、「投票」という行為を過度に神聖化してしまった結果起きているものだろうと思う。私は、普通選挙によって政治家を選出するというシステムについて、万能どころか素晴らしい制度であるとすら言えないとしても、他に良い方法も思いつかないのでとりあえずこれでいいと思っている(チャーチルを気取りたいわけではない)。しかし持論として、投票そのものよりも、「票を集める」という行為のほうが重要だろうと昔から思っている。
 選挙に行って一票を投じることそれ自体は、別にやって悪いことではないのだが、政治参加の形態としては、神聖化されるほど重要なものではない。むしろ、多くの人が投票に行く普通選挙制度が成立していることを前提条件として、言論や運動を通じて徒党を組み、まとまった票を生み出すという活動こそが、政治参加のあり方として大事なんじゃないのか。
 たとえば労働組合のような団体は「組織票」をまとめる力を持っていて、組合の内部で政治に詳しい人がいろいろ議論をしたり、政治家に直接何かを訴えたりするわけである。そういった「組織」というものには、有能な人材を発掘する機能や、人々の意見を集約・調整する機能があり、しかもそのノウハウが長年蓄積されているわけである。集団がまとまって「組織」を形成し、政治的な行動を取るというプロセスの中で誰が何をやるかというのは、けっこう重要な問題であるにもかかわらず、あまりそのことに関心が払われていないように思う。
 そういう組織的政治行動について議論も実践もしないままに、個々人が「投票所に行く」場面だけが民主的政治参加であるかのように言われ、1票の格差がどうしたとか、投票に行かない彼氏とは別れろとか言うのはバランスとしておかしい。


 とりあえず現行の民主政治のシステムというのは、次のような三層構造で成り立っていると考えればいいんじゃないだろうか。
 まず、普通選挙制度が実現しており、しかも「みんなが投票に行く」という習慣付けが行われていて、これが第一階層をなしている。個々人にとっては投票に行くことはまったく合理的な行動ではないのだが、そういう習慣付けが行われることで、全体としては投票システムが機能するようになっている。 
 その上で第二階層では、色々な組織やオピニオンリーダーが意見を戦わせることを通じて、票が集まったり動いたりするという現象が起きている。その結果として、代議士が選出される。
 そして第三階層では、代議士(政治家)たちが議論をして、具体的な政策を立案したり実行したりしていく。
 まぁ他にもいろいろな層があるだろうが、投票制度に関してはこの3段階ぐらいの理解でいいんじゃないだろうか。ちなみにこれは今思いついただけで、専門的な議論は全然知りません。


 こう理解した上で、民主主義がまともなものであり得るか否かを考えた時、けっこう第二階層のあり方が大事なんじゃないかなと私は思っている。だから、「投票」(普通選挙)という制度は、いったん実現すればそれ自体を神聖視するのはやめたほうがよくて、むしろ民主主義にとっては言論の風通しを良くすることとか、機能的な組織を形成することとか、集まって政治的な意見を交換することのほうが、はるかに大事なんじゃないかなと。
 集団を組織したり動かしたり壊したりすることこそが重要な政治的行為なのであって、民主主義の質を決めるのは、より良い集団を作り出すことや、集団をより良く動かすための努力である、と私は思っている。それを通じて、「まとまった数の良い投票」を生み出すことが大事なのである。


 日本の世間では、「第二階層」の運動に関わること、つまりたとえば政治運動の集会に参加することとかは、何となく「ヤバいこと」であるとされていて、そういう運動に関わっていることが周囲に知れるとだいたい白い目で見られるのだが、それはおかしいのではないか。(Facebookで知り合いから政治色の強いニュースがシェアされてきたりすると、何故か残念な気持ちになってしまうので、私も人のことは言えないのだが。)
 で、そういうことを議論せずに、「彼氏が投票にいくかどうか」とか「1票の格差が2倍以内に収まっているかどうか」ばかり議論するというのは、虚しいような気がするのである。冒頭の記事の筆者自身は、その意味で政治的な実践をしている人かもしれないが。


 政治とは要するに、「気に入る奴らと徒党を組んで、気に入らない奴らと戦う」ことを言うのだ。ただし殴り合ったりするとお互いに損失が大きいし、何も相手を殲滅することだけが勝利なのではなく、説得してしまうという道だってある。そこで、第二階層において言論戦を戦うことにし、しかし言論戦は長引く傾向にあるから、第一階層に用意した選挙というゲームを定期的に行って仮に決着をつけることにしたのだ。
 それはあくまで、第二階層における複雑な争いを単純な形に翻訳したゲームに過ぎないので、殴り合いにおける強さも、話し合いにおける巧みさも、正確に反映されるわけではない。それに、投票者というのは戦争ゲームに出てくる足軽みたいなもので、彼が持っている「清き一票」とやらはよく見たら一本の槍に過ぎず、しかも自らの意思で行使していると言えるのかも怪しい。確かに外見的には、足軽たちの交戦という形で決着がつけられるのではあるが、勝負の実体はゲームのプレイヤーたる「政治組織」が第二階層で繰り広げる駆け引きにある。
 民主政治に偉大なところがあるとすれば、人はプレイヤーに操られる足軽に留まることも、プレイヤーになることもできるという点ある。この足軽にも立派な生命が宿っているとかいう話をでっち上げるのは、民主政治の讃え方として間違っている。


 まぁ、私も別に第二階層の活動を頑張ってやっているなんてことは全くないので偉そうなことは言えないのだが、そういう活動を真剣にやっている人たちには敬意を表さなければならないし(間違った運動をしてると思ったら軽蔑すればいいけど)、投票所に行ったぐらいで「立派な政治参加を果たしている」なんて勘違いするのはやめるべきだと思う。「投票に行かない奴には、文句を言う資格はない」なんて物言いもやめるべきだ。投票に行ったぐらいで得られるのは大した資格ではない。
 そういう勘違いがなくなれば、冒頭の記事のような変なことを言う人も消えていくだろう。


 【追記】
 似たような理由で「選挙に行かないやつは政治を語るな」論に対しブチ切れているブログ記事があったので、リンクを張っておきます。私はリバタリアンではないですが、「理由その3」にたいへん共感できますw
 選挙に行かないことが合理的な三つの理由と、「選挙に行かないやつは政治を語るな」が間違っているもっと沢山の理由 - 二十一世紀日陰者小説(移転跡地)